世界遺産登録反対を叫ぶ韓国よ、よ~く読め! 軍艦島に朝鮮人専用遊廓があった!

このGW、長崎県の軍艦島(端島)は例年以上に多くの観光客で賑わった。「実は、韓国からの観光客も結構来られました。皆さん、意外に感動して帰られます」(NPO法人『軍艦島を世界遺産にする会』理事長・坂本道徳氏)。軍艦島は『明治日本の産業遺産』施設の1つとして、ユネスコから世界遺産登録の勧告を受けた。正式決定は6月28日からドイツで開かれる世界遺産委員会の場だが、「油断は禁物。日韓外交戦の正念場はこれからです」と、“ヒゲの隊長”こと佐藤正久参議院議員が警告する。実際、勧告の出た直後から韓国は“世界遺産登録を推進する日本政府”を糾弾する国会決議を採択した。「世界遺産委員会の委員は21ヵ国。日本も韓国もメンバーですが、韓国のロビー活動が凄い。朴槿恵大統領は4月の南米歴訪で、委員のコロンビアとペルーに登録反対を訴えました。今も、大統領の親書を持った外交官が各国を回っている。勧告がひっくり返った例もあり、予断を許しません」(佐藤氏)。韓国が反発する理由は、例によって歴史問題だ。「23施設のうち7施設で、朝鮮半島出身者5万7900人が強制労働させられた」というのが韓国の言い分だが、果たしてそれは事実なのか?

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軍艦島では、1890年から石炭の採掘が始まった。産出される石炭は良質で、八幡製鉄所の原料炭として供給される等、日本の近代化の基幹的な役割を担ってきた。最盛期の1950年代には周囲1.2kmの島に5300人が暮らし、世界最大の人口密度を記録。だが、1974年に閉山すると島民が一斉に退去し、無人島となった。前出・坂本氏は、小6から高3まで軍艦島で暮らしていた。坂本氏が当時の生活を振り返る。「親父が炭鉱マンで、筑豊から移住したんですが、生活レベルが全然違いました。当時はまだテレビはあまり普及してなかったんですが、この島には殆どの家にテレビも洗濯機も冷蔵庫もあった。うちでも直ぐに揃いました。仕事はきつくても、給料は筑豊よりだいぶ良かったと思います」。住んでいたのは、軍艦島で最大規模の65号棟の高層アパート。6畳と4畳半に一家5人暮らしだったが、「当時の平均的な社宅はそんなものでしょう」と坂本氏は懐かしむ。商店街やパチンコホール等の娯楽施設も充実していた。更に、1957年に売春防止法が施行されるまでは“遊廓”もあった。「父親の話に因れば、3軒の遊廓があり、その内の1軒は朝鮮人専用だったそうです」(坂本氏)。軍艦島に10年以上通い、元島民たちの話から遊廓の存在を確認したのが、『軍艦島入門』を刊行した黒沢永紀氏。「遊廓といっても、堀で囲われた廓状のものではなく単体の店(つまり遊女屋)ですが、元島民たちは皆“遊廓”と呼んでいました。大正時代、既に島には遊廓が7軒あり、女性は20人くらいいたとのことです。1軒3人くらいの計算ですね」




昭和になってからは、島の南にある『南部商店街』と呼ばれる地域に3軒の遊廓があった。「1933年の長崎新聞に、遊廓“本田”の記事が取り上げられています。『炭粉に塗れた鉱夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれる。これもまた、端島の持つ一断面である』と。この“本田”と“森本”が日本人用の遊廓、そして“吉田”が朝鮮人専用でした。“吉田”は遊女も朝鮮人。朝鮮人専用の遊廓を作った理由は、言葉の問題もあったろうし、何より朝鮮人労働者が多かったということでしょう。何れにしても、朝鮮人も日本人と同じように遊廓で遊べたのです」。フリーカメラマンの酒井透氏も、元島民の証言を得ている。「3軒の遊廓には10人くらいの女性が常にいたといいます。10代や20代の女のコではなく、ちょっと年端のいった女性が多かったらしい。2階に“ちょんの間”用の部屋が5~6部屋並んでいた。連れ出しは無かったようです」。端島には、1920年代から多くの朝鮮人が働いていた。仕事と高給を求めて自ら海を渡ってきた人たちだ。中には密入国して島を目指す人もいたが、日本人警官は律儀に追い返していたという。「1941年に太平洋戦争が始まると、その数は急激に増え、1943年には朝鮮人約500人、中国人約200人がいたという記録があります」(酒井氏)

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戦局が悪化し、日本人の労働者が不足した1944年9月、国民徴用令に因って朝鮮人の徴用が始まった。徴用は半年で終わるが、韓国はこれを強制連行と主張する。その証拠として、「朝鮮人は危険な仕事を1日12時間もさせられた」(軍艦島で嘗て働いた韓国人)等と言うが、元島民の坂本氏が島の長老から聞いた話は違う。「前線で石炭を掘る一番危険な作業には、必ずベテランが入るそうです。不慣れな者がやって事故を起こせば、後方の者も全滅してしまいますから。そこに新米の朝鮮人を入れるとは考えにくい。危険で過酷な労働というのは確かですが、朝鮮人に限らず、日本人も同じ現場で働いていたんです」。賃金も、日本人と同じように支払われていた。食事も粗末だったと言うが、「日本人でもイモ1個とかいう時代なので、朝鮮人だけ粗末な食事だったというのは事実と違うと思います。住宅だって、朝鮮人も日本人も同じような部屋に住んでいたんです」(黒沢氏)。韓国の必死のロビー活動を受け、先週、中国外務省の報道官も登録反対を表明、韓国と共闘することを明らかにした。このまま無事に登録されればいいのだが――。

■朝鮮人工員は日本人未亡人とロマンスも!
「朝鮮人徴用工は、低賃金で過酷な労働を強いられていた訳ではない」と話すのが、東京基督教大学教授の西岡力氏だ。「その実態がよくわかるのが、鄭忠海という朝鮮人徴用工の手記です。1944年12月、鄭は広島市の東洋工業(現在のマツダ)に徴用され、克明に日記をつけたのです」。鄭は、寄宿舎の新しさや新しい寝具に「まずまず」と満足し、食糧難の最中、広島名産の牡蠣や蜜柑等の豊富な食料に舌鼓を打ち、酒盛りも楽しんだ。ノルマも無い小銃の部品工場に配属されると、巡査の初任給が45円の時代に140円という高給を取った。それだけではない。「工場には、10代の若い女のコたちが“女子挺身隊”として全国から集まっている。日本の男は戦争に取られていないから、朝鮮人徴用工と女子挺身隊の間でロマンスが生まれるんです。鄭に至っては、戦争未亡人とできちゃった。夜中に未亡人の家に行くと、風呂と晩ご飯があって浴衣も置いてある。もっと酷い現場もあったとは思いますが、殆どの徴用は強制労働ではなかったんです」(西岡氏)


キャプチャ  2015年6月2日号掲載


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