【日本近現代史がわかる最重要テーマ】(01) 張作霖爆殺事件(1928年)――軍閥中国は『イスラム国』状態だった

1931年9月、満洲事変をきっかけに中国への軍事侵略を進めた日本軍は、1937年に始まった日中戦争で中国軍と約8年間に及ぶ泥沼の戦いを繰り広げました。国土が狭く資源の乏しい日本が、なぜ8年もの間、広い中国大陸で戦争を続けることができたのでしょうか? その要因の1つにあったのが、軍閥の存在でした。日本軍は地域の実力者であった軍閥の要人や、日本と親しかった中国人政治家等を味方につけて占領地に政権を作り、日本軍を背後から支援させました。満洲事変以降の日中の戦いを振り返る上で、軍閥の果たした役割を無視することはできません。この軍閥が割拠した当時の中国は、まるでISIS等の武装集団が蔓延る現在の中東のようと言えます。軍閥を巡る一連の近代中国の歴史は、果たしてどのようなものであったのでしょうか? 本稿では、清末から日中戦争勃発前までの中国の歴史を辿りながら、軍閥がどのように生まれ、そしてどのようにして日本との戦争に係わっていったのか、見ていきたいと思います。尚、本稿で単に“軍閥”とある場合は近代軍閥のことを指します。

抑々、“軍閥”とは一体何なのでしょうか? この問題に関する古典的名著である波多野善大『中国近代軍閥の研究』(河出書房新社・1973年)に因ると、軍閥とは「武力を背景にした私的目的追求の集団、又はそれを代表する個人」(9ページ)を言います。要するに、軍閥は軍事指導者と主従関係で結ばれた傭兵集団です。軍閥を率いたのは、初めは『郷紳』と呼ばれた地方エリートでした。しかし、後になって軍功を重ねて名声と官職を得た軍人にその座を取って代わられました。軍閥誕生の萌芽は、清末にまで遡ります。元々、清朝には満洲人に因る『八旗』と、漢人に因る『緑営』という正規軍がありました。しかし、1644年から始まった清朝の安定的な中国統治に因って、八旗と緑営は訓練度や実戦経験が乏しくなり、軍隊として充分な機能が果たせなくなっていました。その為、1840年のアへン戦争では、僅か約4000人のイギリス軍に為す術も無く敗れ去ってしまいました。その後、清朝は安徽省のエリート官僚であった李鴻章が結成した義勇兵部隊の淮軍を改編して正規軍としましたが、1894年の日清戦争で、兵力で劣る日本軍に敗北を喫しました。 度重なる敗戦を受けて、清朝は軍隊の近代化を決意し、完全な洋式の新建陸軍(新軍)を発足させました。新軍の司令官には、李鴻章の幕僚として活躍していた袁世凱が就任しました。尚、李鴻章と袁世凱は何れも清朝政府の重職である北洋大臣を務めたことから、彼らが率いた軍隊は別名『北洋軍』と称されました。袁世凱は北洋軍を育成していく過程で、自分と親しい人物を部下に任じ、軍閥を形成していきました。そして、出来上がったのが北洋軍閥でした。




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日清戦争後、中国国内では清朝の体制を維持しつつ改革を求める変法派と、清朝を打倒して新たな漢人国家の成立を目指す革命派が擡頭してきました。広東省出身の孫文を代表とする革命派の一部は、1905年に中国同盟会を結成して、日本人支援者の助けを得ながら革命運動の機会を狙っていました。1911年10月10日、湖北省武昌で革命派の呼びかけに応じた湖北新軍の兵士が蜂起し、政府機関や武器庫等を占拠しました。湖北新軍は清朝の重臣・張之洞が組織した洋式軍隊で、北洋軍に従って活動していましたが、軍内には多くの革命派が入り込んでいました。『武昌起義』と言われたこの蜂起をきっかけに『辛亥革命』が始まり、14の省が清朝からの独立を宣言しました。そして、各省代表は投票により孫文を臨時大総統に選出し、1912年1月1日、南京に『中華民国』臨時政府を成立させました。しかしこの時、北京には清朝政府が存在し、軍事力についても北洋軍が革命軍を圧倒していました。また、中国に権益を持つ列強各国は、中国が南北に分裂することに危惧の念を抱いていました。結局、袁世凱と孫文は話し合いの末、袁世凱が清朝に圧力をかけて皇帝の溥儀を退位させる代わりに、孫文から臨時大総統の地位を譲り受けることで同意しました。これに因り、約270年続いた清朝の中国統治は終わりを告げました。

袁世凱は孫文との約束で、臨時政府の置かれた南京で臨時大総統に就任する筈でした。しかし、袁世凱は自身の地盤である北京から離れようとせず、政府も南京から北京に移転させました。政治家でなかった袁世凱は、親しい政客を政府の要職に就けることで、北京政界を実質的に支配していきました。また、袁世凱は軍閥を養う為の軍費を政府から支出させました。一方、孫文率いる政治政党の中国同盟会は1912年8月25日、諸派政党と合併して新たに『国民党』となり、国会で第1党の地位を得ました。更に、孫文等は1913年7月に『第2革命』を起こし、袁世凱から政治の実権を取り戻そうとしました。しかし、革命はすぐさま袁世凱に鎮圧され、孫文らは海外に逃れました。革命派を一掃したことで、袁世凱の地位は盤石になったかに思われました。しかし1915年1月、日本政府が中国に不平等な内容を含む、所謂『対華21ヵ条』を袁世凱に要求し、袁がこれを認めると、中国国内で袁世凱と日本に対する反発の声が一気に高まりました。更に、雲南省で反袁派による『第3革命』が勃発すると、1916年、袁世凱は失脚を余儀無くされ、失意の内に亡くなりました。

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袁世凱という強力なリーダーを失った北洋軍閥は、その後どうなったのでしょうか? 袁の死後、後継者として北洋軍閥を率いたのが段祺瑞でした。段は袁世凱の影響力の下で、陸軍総長や国務総理代理等を歴任した実力者でした。 この時、段祺瑞が権力を握ることに反発したのが、ライバルの馮国璋でした。2人の対立は軈て北洋軍閥を2つに分裂させ、段祺瑞派は段の出身地を取って『安徽軍閥』、馮国璋派も馮の出身地から『直隷軍閥』と呼ばれるようになりました。袁世凱の死後、亡命先から帰国した孫文は、反段祺瑞の国会議員や、新軍出身ながら革命派に協力していた雲南軍閥の唐継尭や広西軍閥の陸栄廷等と共に、広東省広州で『広東軍政府』を設立しました。これに因り、中国はまるで三国志の世界を彷彿とさせる軍閥混戦の時代に突入しました。軍閥は軍事力を背景に、支配下に置いた省の行政を掌握し、民衆から苛酷な税を徴収して軍費に充てました。その軍費の一部は軍閥幹部が着服し、俸給を手にできなかった兵士は民衆を襲い略奪しました。軍閥の争いが激化すると、列国は中国にあった権益を確保する為、軍閥を背後から支援しました。列国は中国で経済活動を続ける為、情勢の安定を望んでいましたが、一方で軍閥と手を組むことで、更なる権益の拡張を狙っていました。例えば、日本政府が1917年から翌年にかけて段祺瑞政権に行った所謂『西原借款』では、インフラ開発の支援だけでなく、軍事援助を目的とした資金提供も行われていました。これに対し、イギリス・アメリカの支援を受けていた直隷軍閥は、張作霖率いる『奉天軍閥』と連合して『安直戦争』を起こし、段祺瑞政権を崩壊させました。奉天省出身の張作霖は、日露戦争終結後に北洋軍閥に身を投じ、辛玄革命では奉天で起きた革命運動を鎮圧する活躍を見せました。その後、袁世凱が亡くなると、張作霖は仲間を率いて北洋軍閥から自立し、奉天軍閥を作り上げました。この時、奉天軍閥を支えていたのは、権力の衰えた安徽軍閥に見切りをつけた日本でした。

北京政府が軍閥の争いに巻き込まれている頃、広東軍政府内でも南方の軍閥同士の対立が激しくなっていました。その中にあって、孫文は1919年10月に『中国国民党』を結成しました。その後、孫文はソ連から中国に進出してきたばかりのコミンテルンと接触を図り、1924年1月、中国国民党と中国共産党との提携(所謂『国共合作』)が成立しました。この国共合作で、中国国民党は中国共産党員を党内に受け入れ、中国国民党の理念である“三民主義”の内容をこれまでの“民族・民権・民生”から、ソ連及び中国共産党と手を結び労働者と農民を助けるという意味の“連ソ・容共・抹助工農”に改めま した。更に、孫文はソ連赤軍のような党に従う軍隊を作る為、腹心の蒋介石をソ連に派遣して、赤軍の軍制を学ばせました。そして1924年、広州に黄埔軍官学校を設立しました。校長には蒋介石が就任し、軍事教練や中国共産党に因る政治教育が行われました。ここを卒業した士官は、蒋介石率いる国民革命軍に入隊しました。黄埔軍官学校で新しい“三民主義”のイデオロギーを叩き込まれた国民革命軍兵士は、これまでの軍閥の兵士と比べて結束力が強く、戦場でも容易に逃亡したり、寝返ったりすることはありませんでした。国民革命軍の誕生は、これまで南方軍閥の軍事力に頼らざるを得なかった孫文にとって、念願の自前の軍隊でした。しかし、孫文は中国統一の夢を果たせないまま、1925年3月12日に息を引き取りました。

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孫文の遺志を引き継いだ蒋介石は、北京政府を打倒するため、1926年7月9日に国民革命軍を率いて北伐戦争を開始しました。北京までの要衝には軍閥の部隊が待ち構えていましたが、国民革命軍はそれらを各個撃破し、年末までに長江流域まで戦線を拡大しました。この国民革命軍の進撃を陰で支えていたのが、上海を中心とする『浙江財閥』と称される金融ブルジョアジーでした。彼らは、軍閥の争乱で壊滅的打撃を受けていた中国経済の立て直しを、逝江省出身の蒋介石に託しました。またこの時、日本政府も幣原喜重郎外相の下、北伐戦争に不干渉で臨み、中国統一を支援しようとしました。しかし、北伐の最中に日本人が国民革命軍に殺害される事件が相次ぐと、日本で国民革命軍を非難する世論が高まりました。これを受けて日本政府は方針を転換し、1927年から翌年にかけて山東省済南に軍隊を3度派遣して、北伐を妨害しました。1928年6月初め、国民革命軍が北京に迫ると、直隷軍閥を破って北京政府を支配していた張作霖は「国民革命軍に勝てない」と判断し、奉天に逃亡を図りました。6月4日、張作霖を乗せた列車が奉天近郊に差しかかったところ、突如、線路に仕掛けてあった爆弾が爆発し、張作霖は関係者数人と共に死亡しました。事件の首謀者は、満洲に駐屯していた日本軍の在外派遣部隊である関東軍の将校でした。なぜ、関東軍は張作霖を殺害したのでしょうか?

日露戦争で手に入れた満洲権益を防衛していた関東軍は、奉天軍閥を率いていた張作霖と手を組むことで、権益を危険から守っていました。しかしその後、張作霖が北京政界に進出して権力を得るようになると、関東軍と張作霖の関係は悪化し、張作霖に因って満洲権益が脅かされるようになりました。その為、関東軍は張作霖を排除して満洲を占領下に置くことで、満洲権益を確保しようとしました。しかし、張作霖の殺害は成功したものの、満洲占領は達成できず、満洲は奉天軍閥を継承した張作霖の子息の張学良に因って、国民政府(蒋介石政権)の一部となりました。中国統一を果たした蒋介石は1929年1月、北伐により膨れ上がった国民革命軍の兵力を現行の半分以下の80万人にまで削減する計画を発表しました。これに対し、国民革命軍に帰順していた閻錫山や馮玉祥等の軍闘領袖が反発し、1930年3月に国民革命軍に反旗を翻しました。『中原大戦』と呼ばれたこの戦いは半年間続きましたが、最終的に国民革命軍が勝利を収めました。これに因り、多くの軍閥は国民革命軍の一部隊として組み入れられました。尚、国民革命軍の部隊となった軍閥は『新軍閥』、それ以前の軍閥は『旧軍閥』と呼ばれました。新たに奉天軍閥の領袖となった張学良は、満洲支配を強化する為、満洲にある列国の利権――とりわけ満鉄等日本の持つ権益を回収しようとしました。これに強く反発したのが関東軍でした。関東軍は満洲を手に入れる為、1931年9月18日に奉天郊外の柳条湖で起きた鉄道爆破事件を合図に軍事クーデターを起こしました。この時、張学良は戦火の拡大を恐れた蒋介石の命令で反撃を行わなかった為、関東軍は5ヵ月足らずで満洲全土を占領しました。この一連の関東軍の軍事行動は『満洲事変』と呼ばれ、終戦まで断続的に続く日本の中国侵略の端緒となりました。

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元々、関東軍は満洲を日本領にするつもりでした。しかし、実現が難しくなると、満洲に中国人に因る親日政権を設けて、満洲を間接的に支配することにしました。その際、関東軍は満洲に残っていた張景恵や臧式毅等の奉天軍閥の要人を懐柔して、政権に参加させました。そして当時、天津に隠棲していた溥儀を満洲に呼び寄せ、1932年3月1日に溥儀を指導者とする『満洲国』を成立させました。満洲事変が起きたことを受けて、蒋介石は1932年6月に全国の国民革命軍を48個軍96個師に改編することを決定し、翌年にドイツから軍事顧問団を招いて、軍備や戦術の強化に乗り出しました。この時、中国は北から関東軍が侵略の機会を窺い、南では江西省瑞金を本拠に中国共産党が紅軍を率いて、国民革命軍に抵抗を繰り返していました。この状況に対し、蒋介石は紅軍との戦いを優先し、日本側とは融和的態度で臨みました。1935年に入ると、関東軍は華北侵略を本格化させ、北京と天津を防衛していた国民革命軍第29軍軍長の宋哲元に傀儡政権を作るよう迫りました。宋哲元は馮玉祥の元配下で、国民革命軍に加入してからも蒋介石と対立したり関東軍を挑発する等、問題を起こしていました。宋哲元の活動を支えていたのは、河北省銀行等、華北の銀行が発行していた貨幣でした。当時の中国は銀本位制で、銀を保有していた銀行が経済状況に拘らず、独自に貨幣を発行していました。蒋介石は宋哲元等反発する軍閥の資金源を断ち、また世界恐慌による金融市場の混乱を避ける為、1935年11月に幣制改革を実施し、銀本位制から管理通貨制度に移行し、貨幣も指定銀行が発行した法幣に限定しました。これに因り、軍閥は軍事面だけでなく、金融の面でも国民政府や国民革命軍に従属せざるを得なくなりました。

尚、中国が幣制改革を実施するに当たってはイギリスの手助けを受けましたが、イギリスは事前に日本にも協力を求めていました。しかし、日本は「改革が失敗する」と判断してイギリスの申し出を断りました。幣制改革に参加できなかった日本の失敗は、後の中国占領地経営に大きな悪影響を及ぼすことになりました。なぜ、日本政府は中国統一を成し遂げ、更には幣制改革も成功させた蒋介石と手を結ぶことができなかったのでしょうか? 満洲事変以降、外務省は外相に就任した広田弘毅や佐藤尚武に因って、蒋介石との接近を試みました。しかし、その動きは中国に強硬的態度で臨んだ陸軍に因って阻まれました。この時、日本軍の統帥権は天皇にあり、日本政府が陸軍を統制下に置くことはできない仕組みになっていました。1937年7月に日中戦争が勃発すると、満洲国のような所謂“傀儡政権”を幾つも作りました。それらの政権には、未だ国民政府に帰順していなかった軍閥要人が日本軍の説得を受けて迎え入れられていました。例えば、元直隷軍閥の斉燮元は、北京に成立した中華民国臨時政府の治安総長に就任し、安徽軍閥に属していた梁鴻志は、南京に中華民国維新政府を成立させました。軍閥は日中どちらかに従うことで、命脈を保ち続けました。


広中一成(ひろなか・いっせい) 三重大学共通教育センター非常勤講師。1978年、愛知県生まれ。愛知大学大学院中国研究科博士後期課程修了。博士(中国研究)。専攻は中国近現代史。著書に『ニセチャイナ』(社会評論社)・『語り継ぐ戦争』(えにし書房)等。


キャプチャ  2015年春号掲載


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テーマ : 歴史認識
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