【日本近現代史がわかる最重要テーマ】(03) 5.15事件(1932年)――エリート軍人がテロに走るとき

昭和に入ると、軍人たちの関与したテロ事件が頻発するようになる。それらには共通したシナリオが見てとれる。それは、ロシア革命のような議会占拠等の方法を取らず、宮中や元老を標的とし暴力で制圧することで、陸軍を中核とする内閣を作ろうとすることであった。この政府転覆シナリオの原型を作ったのが永田鉄山である。永田は陸軍士官学校を首席、陸大を次席で卒業。軍事課長・参謀本部第2部長・軍務局長を歴任し、“将来の陸相”と呼ばれたエリート官僚だった。その永田がなぜテロ事件を仕掛けたのだろうか?

話は第1次世界大戦に遡る。日本は、主要戦場であるヨーロッパに陸兵を派遣しなかった。しかし、東西両戦線に大量の観戦武官を派遣した。ヨーロッパの西部戦線は兵士にとっては陰惨な場所であったが、高級将校にとっては必ずしもそうではなかった。当時のヨーロッパ各国軍の司令部は、前線のかなり後方の大邸宅に設置され、普段はそこに居住、『シャトー』司令官と呼ばれた。日本の観戦武官も当然のようにシャトーに滞在し、各国司令部要員から情報を聴取した。大量の戦死者を出す消耗戦が続く中、兵力は括抗し、戦線は膠着した。仮に日本軍が戦線に加われば、戦局を左右する可能性があると見込まれ、優遇されたのである。帝国陸軍のエリートは、省部と呼ばれた陸軍省と参謀本部に所属した。観戦武官もそのどちらかから派遣された。永田鉄山もその1人だった。大戦後の1921年10月、陸士16期の逸材と言われる3人が、南ドイツの黒い森にある保養地のバーデンバーデンに集まる。ヨーロッパ出張中の岡村寧次は小畑敏四郎を連れて行った。スイス公使館付武官の永田鉄山もベルンから鉄道で向かった。最後に東条英機が加わった。高級ホテルに投宿し、痛飲し夜通し話し合って、最後はホテル側に注意されたという。これが世上に名高い『バーデンバーデンの密約』である。永田・岡村・小畑の3人は帰国後、『二葉会』という陸士15~18期を集めた陸軍参謀将校(陸大卒業生)の食事会を組織した。河本大作・板垣征四郎・土肥原賢二・東条英機・山下奉文等が参集した。河本大作は張作霖爆殺事件首謀者として行政処分され、板垣・土肥原・東条・山下は第2次世界大戦後に連合国に因って処刑された。この二葉会は『一夕会』に発展し、永田鉄山はその主宰者となった。3人の中でも、小畑の関心が新兵器や対ソ戦にあったのに対し、永田の見方は全く異なっていた。「陸軍にとって最も重要なことは、兵器や要塞・外交関係ではなく、経済である」と主張したのである(満州においても鉄道網を重視し、要塞の構築に反対した)。後に、小畑は永田を“政治屋”と評し、反目するようになった。




永田は当時、言論界の主流となった『マルクス主義』にも影響され、“戦争経済決定説”を主張した。“戦争経済決定説”とは、「ある国の経済を原因として戦争が引き起こされ、また勝敗も経済的優劣に因り決定される」というものである。第1次世界大戦に当て嵌めると、連合国(英・仏・日)と中央同盟国(独・墺・土)の資本家が対立することに因って発生し、ドイツの戦敗はドイツ軍が弱くて負けたのでなく、ドイツの国内経済がドイツ軍を支えることができなかったからだ――となる。実際には、第1次世界大戦はドイツ軍がシュリーフェンプランに従ってフランスに侵攻したことに因って始まっている。ある種の軍人にとっては、敗戦の責任を他に転嫁する議論で、耳に心地よく聞こえたのだろう。永田は、「日本の経済力向上が戦争勝利の鍵である」とし、“国家総動員”を主張した。“総動員”といえば軍事用語に聞こえるが、そうではなく経営自主性を無くし、官僚に因る“統制経済”を実現するのがその主張であった。永田の死後も統制経済の思想は残り、陸軍は企画院や内務・逓信官僚等と結託し、電気事業を標的として、昭和13年に『電力国家統制法案』を上程する。電力王・松永安左衛門は統制経済を企てる役人を「人間のクズ」と呼んだが、国有化しても経営陣は変わらず、役人への接待が増えるだけなのである。

modern history 11
政治を掌握し、統制経済を実現することが、エリート軍事官僚である永田の狙いだった。その方法として用いたのが、暴力に因る政府転覆だったのである。それが端的に顕れたのが、昭和6年に発覚した『3月事件』である。そのシナリオは、先ず大川周明ら民間人が街頭行動を起こす。騒擾を理由として、真崎甚三郎が一隊を率いて国会に乗り込み、宇垣一成に組閣の大命降下を導く――というものだった。元々、この計画を大川らと仕掛けたのは、参謀本部第2ロシア班長だった橋本欣五郎であった。橋本はトルコ駐在武官時代、ケマル・パシャの革命思想に心酔、強い影響を受けるようになったが、政権奪取の具体的な方策は描けなかった。そこに登場したのが永田だった。永田は小磯国昭軍務局長と共に宇垣を担ぎ出し、政権奪取の原案を纏めた。通称『永田メモ』である。その文中には、「官房又ハ補任課ヲシテ侍従武官(侍従二非ス)ヲ介シ拝謁ヲ願出ツ侍従ヲ介スルヲ本則トスルカ如キモ帷握上奏ノ場合ハ便宜上侍従武官ニテ可ナリ(町尻又ハ阿南ヲ用フルヲ要ス)」「万一侍従等カ宮内大臣其他ト策応シ拝謁日時ノ遷延ヲ企ツルカ如キ場合ニハ侍従武官長ヲシテ陸相ニ代リ之ヲ弾圧ス」と記されている。陸軍侍従武官(町尻量基と阿南惟幾)が宮中で侍従に暴力を振るうという内容で、永田独自の飛躍を感じる。実際に起きたことは、無産3派のデモが芝公園に2000~3000、上野公園に1500集まっただけであった。宇垣は「泰山鳴動して鼠1匹」と弦いて、計画差し止めを小磯に命じた。但し、廷臣を暴力で排除し、大命降下を促すという手法は、昭和のクーデター計画の中では最も実現性の高いプランだったと思われる。3月事件が発覚しても、永田等陸軍の首謀者に御咎めは無かった。これが悪しき前例となった。「陸軍将校に警察や憲兵隊の捜査が及ぶことが無い」と確信し切った橋本欣五郎は、再びクーデター計画を立て、いつづけしていた築地の料亭『金龍亭』を憲兵隊に取り囲まれた。これが『10月事件』である。陸軍はこの事件を極端なまでに隠蔽し、処罰も殆ど無かった。橋本だけは予備役編入になった。

この永田シナリオの影響は、極右勢力や議会制無産勢力、そして海軍将校たちにも及んだ。昭和7年から8年にかけて、血盟団事件・5.15事件・神兵隊事件と海軍の航空将校が関連するテロ事件が相次いだのである。5.15事件の首謀者である海軍将校の古賀清志や三上卓等は、陸軍のクーデター計画者たちにも度々参画を誘われる等、人脈的な繋がりもあった。昭和7年の5.15事件は、内大臣官邸や首相官邸を襲撃、犬養毅首相を殺残した重大事件だったが、永田が描いたシナリオに因る昭和6年のテロ計画は組織的であり、権力奪取の過程を含んでいたのに対し、昭和7~8年に起こった事件は、「テロを行えば世間が覚醒し、世直しが実現する」といった空想の色濃いものだったことが共通している。昭和10年8月、軍務局長として人事を牛耳っていた永田を、相沢三郎中佐が斬殺する。屡々、「永田が生きていたら、陸軍の暴走は防げた」との評を観るが、果たしてどうか。“統制経済”“国家総動員”という言葉で、社会主義・革命思想、そして暴力肯定主義を率先して取り入れたのは永田だった。そして昭和11年、2.26事件が起きる。この事件の最大の特徴は、実際に陸軍の部隊が動いたことだ。そこが5.15事件等のテロ・騒擾事件との決定的な違いである。


別宮暖朗(べつみや・だんろう) 歴史評論家。1948年生まれ。東京大学経済学部卒業。大手信託銀行勤務等を経て、歴史研究・著述家に。『帝国海軍の勝利と滅亡』(文春新書)等著書多数。


キャプチャ  2015年春号掲載


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