【日本近現代史がわかる最重要テーマ】(04) 国際連盟脱退(1933年)――松岡洋右も陸相も“残留”を望んでいた

歴史は後講釈に陥りがちである。答えから逆算して問いを立てることに似ている。1933(昭和8)年の日本の国際連盟脱退通告も同様である。結果を知る立場からは、国際連盟脱退は不可避だったことになる。日本の破局を齎した日米戦争の直接のきっかけは、1940年の日独伊三国同盟である。この時の外相は松岡洋右だった。歴史を遡れば、満鉄(南満州鉄道)副社長から政友会議員に転じた松岡が1931年に「満蒙は日本の生命線」と演説した後、満州事変が勃発している。満州事変が起きた以上、国際連盟脱退は不可避となる。松岡が国際連盟脱退の立役者となったのも当然だった。このような後講釈の歴史解釈は、2つの異なる歴史観が背景にある。1つは、『15年戦争史観』と呼ばれる。「満州事変から敗戦までの15年間、日本は対外侵略を続けた」との歴史観である。対する『米英東亜侵略史観』も、日本が侵略国なのか非侵略国なのかについて180度異なっていても、“持てる国”米英と“持たざる国”日本の戦争の必然を説く点で共通している。 国際連盟脱退は不可避だったのか? そうではなかった。実際のところ、ジュネーヴから凱旋帰国したかのように迎えられながら、松岡はラジオを通して国民に脱退回避に失敗したことを謝罪している。「少なくとも、私は1つの点に於いては完全に失敗して帰ったのであります。……即ち、できることならば何とかして、一面我が国の立場を明らかにし、主張を通しておきながら、他面連盟に残っておりたいという其の事は、御承知の通り失敗したのであります。この点につきましては、私の不徳、洵に国民諸君には申し訳無いと考えておるのであります」。なぜ、松岡はこのような体裁の悪い帰国報告をしなければならなかったのか? 『15年戦争史観』や『米英東亜侵略史観』では説明がつかないだろう。以下では、松岡が当時の状況の中で見たり聞いたり考えたりしたことから、日本の国際連盟脱退を再現する。松岡の立場を追体験することで、回避可能だったにも係わらず、なぜ日本は国際連盟から脱退したのかがわかるようになるだろう。

松岡は脱退回避が可能だと考えていた。松岡だけでない。外務省は勿論、陸海軍もそうだった。陸軍参謀本部と海軍軍令部は1932年の夏に、「国際連盟脱退は不可である」との協定を締結している。軍部には脱退を回避したい理由があった。満州国の存在の国際的な正当性を主張する為には、国際連盟内に留まらなくてはならなかった。脱退してしまえば、満州事変を巡る日本の侵略責任を認めることになる。政党も同様に、脱退の必要を認めていなかった。例えば、『政友会』である。政友会の党機関誌のある論考は、次のように予想している。日本にとって、ジュネーヴでの最悪の事態とは何か? それは、国際連盟がリットン調査団の報告書を採択し、対日非難勧告を出すことだった。そうなれば脱退は不可避となるのか? そうではない。なぜならば、国際連盟の勧告に応じなくても、それが為に国際連盟規約違反の問題が起こる訳ではなく、遵って制裁を受ける恐れも無かったからである。ジュネーヴでの状況はどうなるのか? 日本が勧告に応じないことに因って、国際連盟における満州問題は一段落を告げる。脱退する必要もない。このように、ジュネーヴで最悪の事態が起きても、日本は国際連盟規約違反を問われることが無く、制裁の可能性も無い。そうだとすれば、日本は勧告を受け入れない旨を宣言して、そのまま国際連盟内に留まればよかった。外務省も同様のシナリオを描いていた。国際連盟の勧告は勧告に過ぎない。日本がこのような法律上の拘束力を持たない勧告に応じる義務はなかった。但し、国際連盟規約の解釈のプロフェッショナルである外務省は、国際連盟規約第16条に注意を払っていた。この第16条は、勧告を不服として日本が戦争を起こす場合、国際連盟の他の全ての国に対しても戦争に訴えたと見做して、国際連盟は経済制裁を発動すると定めている。当時、日本は昭和恐慌に沈んでいた。経済制裁を受けるようなことになっては、日本経済は一溜まりも無かった。そうであれば、尚のこと日本は脱退を回避しなくてはならなかった。




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1932年11月28日、松岡はジュネーヴに到着する。日本代表団の宿舎『ホテルメトロポール』で荷を解くと、直ぐに国際連盟事務総長を訪問し、脱退回避の決意を伝える。次いで、イギリスのサイモン外相と会見する。イギリスは、日本にとって最も頼りになる仲介国だった。日本代表団は、“小国側穏健分子”で“巧みに大国間を幹旋し、また小国にも人気”のあるチェコスロヴァキアのベネシュ外相の手腕にも期待した。松岡は11月26日にベネシュと会見している。国際連盟における多数派勢力は、第1次世界大戦後に生まれたヨーロッパを中心とする諸“小国”である。これらの国の理解がなくては、日本の立場は危うくなる。そうだからこそ、日本はベネシュを頼みの綱とした。ところが、状況は予想以上に厳しかった。ベネシュは松岡に言う。「満州が日本の生命線であることは元よりこれを理解するも、我々小国に取りては連盟が生命線なり」。松岡の「満蒙は日本の生命線」演説を逆手に取るべネシュの発言に、松岡は反論できなかった。ヨーロッパにおけるファシズム国家の台頭に伴う国際政治の危機的な状況の中で、“小国”が自国の安全保障を国際連盟に委ねている現実の重みが、松岡たちの日本代表団に伸し掛かっていた。第1次世界大戦後に独立したヨーロッパの“小国”は、どの国も単独で自国の安全保障を確保することができなかった。そうだからといって、“大国”との提携では相手国に呑み込まれる恐れがあった。ヨーロッパの“小国”は、自国の安全保障を国際連盟に依存する以外に無かった。ヨーロッパの“小国”にとって、国際連盟は安全保障の命綱だった。ベネシュは、ジュネーヴにおける“小国”と日本との関係の本質を言い当てる。日本とは“正面衝突”するのではない。これは“行き違い”なのである。そうだからといって、日本にとって厳しい状況が続くことに変わりはなかった。

国際連盟臨時総会は12月6日から始まった。中国は元より、各国代表が次々と日本非難の演説を展開した。日本の国際的な孤立は隠しようもなかった。僅かな救いは、イギリス代表の演説だった。サイモンはリットン報告書に即して、中国側にも問題があることを指摘した。「サイモンは日本の代弁者」と非難を受けるほどだった。松岡は感謝した。「サイモンが今、素晴らしい演説をした。自分がここ2週間言いたいと思っていたことを見事な英語で言ってくれた」。脱退回避の可能性は残されていた。松岡は8日の演説の準備をする。原稿を読み上げるのではなく、メモを片手に英語で演説することで説得力が増すと考え た。8日の朝、「今日失敗したら覚悟している」と決意を固めた松岡は、『ホテルメトロポール』を後にして国際連盟総会議場へと向かった。外務省本省から“脱退回避”の訓令を受けていた松岡は、次のように演説する。「我が国民の大多数は今日、尚連盟の味方である。これまで忠実に留まって来た如く、尚忠実に連盟に留まろうとしているのだ」。会場から拍手が湧くこともあった。しかし、演説の最後を“十字架上の日本”と、日本の受難をイエス・キリストの受難に擬えて結んだ部分は無視された。正義は日本にある。それなのに、国際連盟は受け入れてくれない。このような日本の主張が理解されることはなかった。満州事変に伴う日本の国際的な孤立とキリストの苦難は、比べ様も無いほどに異っていた。日本以外の主要国の新聞はこの部分を報じていない。それでも、松岡のパフォーマンスはジュネーヴの緊張を和らげる効果があった。本国政府は松岡に伝えている。「総会は比較的有利に経過し……我方の立場を極めて適切に表明して一段落となりたるは御同慶に存する所なり」

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状況は好転するかのようだった。イギリスが米ソ両国を招聘して和協委員会案を示してきたからである。国際連盟の外にいる2つの大国を巻き込めば、中国も和協に応じざるを得なくなるとの読みからサイモン提案となった。日本代表団は飛びついた。サイモン提案を採用するよう本国政府に要請した。ところが、本国政府は難色を示した。米ソを招聘すれば、問題が複雑になる。アメリカは満州国不承認を持ち出してくるかもしれない。ソ連が日本に都合のいい態度を取るかどうか怪しい。本国政府は、イギリスの提案に反対した。他方で、国際連盟側は勧告の原案の作成を始める。このまま進めば、国際連盟が対日非難勧告を可決するのは確実だった。松岡と日本代表団は窮地に追い込まれた。そこへ、イギリスが救いの手を差し伸ばした。サイモンは米ソを招聘しない和協委員会で日中が直接交渉を行う案を示した。松岡たちにこの案以外に選択の余地は無かった。松岡は1月31日に『大至急極秘』の長文電報を本国政府に発信する。「要は時をして解決せしむるに在り、連盟の顔はできる限り之を立て、然も満州国に関する限り我行わんとする所に大体故障を生ぜざらしむる様落ち付かしむれば可なり」。サイモン提案に因って問題を先送り、或いは妥協的な解決を図る一方で、国際連盟内に残る。松岡は妥協することの重要性を、「物は八分目にてこらゆるがよし」と訴えてい る。どこまでも脱退回避の立場の松岡は、この長文電報を次のように結んでいる。「脱退のやむなきに至るが如きは、遺憾乍ら敢て之を取らず」。翌日、直ぐに本国政府から回答が届く。東京の外務省は松岡の意見を退けた。「本国政府は重大な誤りを犯している」。松岡はそのように感じた。

東京の外務省内では、日中直接交渉や残留に消極的な意見が急速に台頭していた。当時の現地軍は、万里の長城に近接する満州国の領土内にある熱河地方での侵攻作戦を計画していた。国際連盟が対日非難勧告を出すタイミングで熱河作戦に踏み切ればどうなるか。国際連盟は対日経済制裁を実行することになる。なぜならば、国際連盟は熱河での軍事行動を日本に因る新たな対中国武力攻撃と判断して、規約第16条を適用するからである。外務省は以上のような状況を見越して、国際連盟脱退を急ぐようになった。現地軍からの熱河作戦の要求を止むを得ず承認した荒木貞夫陸相は、熱河作戦が齎す国際的な悪影響を少しでも抑える為に、脱退回避の立場を強めた。荒木は1月31日の新聞紙上で、「今すぐ脱退の要なし」と国民に訴えている。しかし、荒木の脱退回避論は松岡たちにどれほどの助けにもならなかった。他方で、ヨーロッパ在勤の外交官たちは予めこのような事態を想定したかのように、謂わば協調の為の脱退論を意見具申していた。例えば、長岡春一駐仏大使である。「困難なる事態より免れんが為には、予め連盟脱退の決意を以て事に臨むより外に途なく、脱退の場合、満州問題は日本の手を離れ、穏健なる意向を有する大国側は、右過激分子の掣肘を免れ、同問題に付自由の立場に置かるべき様存ぜらる……又軍縮共他公益関係の諸委員会にして非加盟国の参加し居るものには引続き協力すること然るべし」。日本が自主的に脱退すれば、連盟との正面衝突は回避できる。満州問題は連盟の審議の対象外となって、満州事変以来の対外危機も沈静に向かう。その後は“小国”の“メンツ”を立てながら、連盟の枠外で“大国”と協調関係を維持しつつ、軍縮会議等には残留する。このように、ヨーロッパ在勤の国際協調派の外交官たちは、最悪の場合、協調の為に脱退することを進言していた。

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ここに、内田康哉外相は脱退へと踏み出す。2月2日、内田は松岡たちに指示する。「最悪の場合、政府に於いて脱退の決意を有することは申す迄もなき義なり」。日本代表団は態度を決めかねていた。陸軍が派遣した要員は、慎重論である。対する外務省が派遣したヨーロッパ在勤の外交官は、協調の為の脱退論である。松岡は悩み迷った。激論が続いた。東京の外務省は愈々脱退の意思を固める。2月17日、内田は対日非難勧告の採択に際して、反対の投票をした後、直ちに総会議場から引き上げるよう指示する。内田の指示は用意周到なものだった。「右引揚が総会の閉会に伴う当然の引揚と同一視せらるるに於いては其の政治的効果面白からざるに付、前記反対投票に当りては単純なる引揚に非ることを示す趣旨の適当の声明をなすことと致度考えなり」。対日非難勧告の採択後、松岡たちが総会議場から退場するだけでは、脱退の意思表示とはならない。勧告に不服であるというだけの意思表示として受け取められる可能性があった。これと相前後して熱河作戦が敢行されるとどうなるか。連盟は、「勧告に不服な為、新たな戦争を開始した」と解釈する。そうなれば対日経済制裁の発動となる。内田はこのような最悪のシナリオを避ける為に、予め脱退の意思表示をするように指示した。2月24日、対日非難勧告が42対1(棄権1)で採択されると、松岡は「連盟よさらば!」と決別の演説を行った後、代表団を従えて“堂々と”退場した。松岡のパフォーマンスは内田の訓令通りだった。松岡は議場を立ち去りながら、独り言を呟いた。「失敗した。失敗した。失敗した」。ところが、新聞や国民は松岡を“国際連盟脱退の立役者”として喝采を送った。松岡は国民的英雄となって帰国する。4月27日に、松岡を乗せた浅間丸が横浜港に近づく。日の丸の小旗を振りながら、「万歳! 万歳!」の歓呼の声を上げて出迎える大群衆が見えてくる。松岡は戸惑いながら、船上から日の丸の小旗を振って応えた。

松岡は5月1日に、ラジオを通して帰国報告をする。その内容は冒頭で引用したように、国民的英雄には似つかわしくなかった。松岡は国民世論に迎合することなく、脱退回避に失敗したことを認めた。間違ったのは本国政府だけではなかった。松岡は全権の責任が果せなかったことを悔いた。一方、外務省は違った。脱退通告直後の外務省の調書はクールである。調書は分析する。「今次連盟の大勢を作れる小国側の態度は格別日本を憎悪し支那を愛好すと云うに非ず」。ベネシュの対応を想起すれば、このような分析は納得することができる。対日非難勧告に対する評価も冷静である。決議は、「形式的に連盟の権威を維持すると共に欧州の困難なる国際関係に累を及ばさざる考慮」よりなされたに過ぎないという。しかも、「一般的に平和の維持及び文化の発達を目的とする国際事業には引続き誠意を以て参加する」ことを確認している。日本は外務省の主導の下で、熱河作戦に因る経済制裁の恐れを脱退することで未然に防ぎつつ、国際連盟との決定的な対立を回避すべく試みた。この試みは部分的に成功する。国際連盟脱退通告を転換点として、満州事変以来の対外危機が沈静に向かったからである。1933年2月の国際連盟脱退通告後、5月末には日中停戦協定が結ばれる。日本は、経済提携に因る中国との外交関係の修復を目指す。6月には世界恐慌克服の為のロンドン世界経済会議に参加して、アメリカと共同歩調を取る。翌1934年になると、日英不可侵協定構想が浮上する。日本外交は、2国間関係の修復を積み重ねることで、協調の回復を目指すようになる。対外危機の沈静と外交関係の修復は国内で政党勢力の復権を促す。政党内閣復活の可能性が生まれる。日本は“非常時小康”の時代を迎えた。この“非常時小康”が再び“非常時”に向かうか、それとも平常時に向かうか――それは優れて日本の選択の問題だった。

国際連盟脱退後、現実は再び“非常時”に向かった。1937年には日中全面戦争が勃発している。他方で、政党内閣が復活することはなかった。全ての政党は解消し、1940年に大政翼賛会が成立する。同じ年、外相として再び表舞台に立った松岡が日独伊三国同盟を結ぶ。その翌年、日米開戦に至る。以上の過程は、後から振り返れば必然だったように見える。これこそが歴史の後講釈である。しかし、実際には途中に幾つもの引き返し可能な分岐点が、複数の選択肢と共に存在していた。その中から1つを選択したことの複雑な連鎖が、日本の国家的な破局を齎した。国際連盟脱退も同様である。国際連盟脱退は満州事変に伴う必然的な結果ではなく、日本外交が自主的に選択した結果だった。戦前昭和の歴史は、善玉の外務省vs悪玉の軍部という二項対立図式で理解できるほど単純ではない。既にある歴史観から自由になって史料に向かう。その時、歴史は教訓を与えてくれるだろう。


井上寿一(いのうえ・としかず) 学習院大学学長。1956年、東京都生まれ。学習院大学法学部教授を経て、2014年より現職。専攻は日本政治外交史。著書に『危機のなかの協調外交』(山川出版社)・『第1次世界大戦と日本』(講談社現代新書)等。


キャプチャ  2015年春号掲載


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テーマ : 歴史認識
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