“親日の国”パラオを蹂躙する中国人と韓国人――天皇・皇后両陛下ご訪問の陰で進む小国の大きな変化、新聞・テレビが報じなかった真実とは…

4月8日、パラオ国際空港から国内最大の町であるコロールへと伸びる幹線道路の沿道には、無数の小さな“太陽と月”があった。パラオ共和国の国旗は、日本の日章旗に近似した図柄の『青海満月旗』である。海を表した明るい青地に光り輝く満月を配したこの国旗は、『月章旗』という表現で呼ばれることもある。1994年にパラオがアメリカの統治領から独立した際、日章旗とよく似たこのデザインが住民投票で選ばれた。日章旗と月章旗の相似には、両国の歩みが集約されているようにも映る。今回、私は天皇・皇后両陛下のパラオご訪問に同行取材することができた。両陛下の乗られた車を中心とした車列の後尾を走る同行記者団の大型バスにも、“太陽と月”は盛んに振られていた。カメラ付きスマートフォンで車列を撮影する若い世代の姿も目立つ。この時、沿道の警備に当たっていた警察官の1人であるマッカーサー・ユーチャンさん(38)はこう振り返る。「両陛下のパラオ訪問は、我が国が経験する最大級の行事でした。万が一の場合に備えて優秀な狙撃手を手配する等、我々は入念に準備しました。勿論、当日は大変な緊張感でした。私が驚いたのは、両陛下の車の速度が非常に遅かったことです。更に、両陛下は窓を開けて笑顔で手を振りました。安全性を考えれば、窓を閉めてもっと早く走るべきなのです。私は思わず上司に、『あれでは危ない!』と声を上げました。すると上司は、『それが天皇の要望なのだ』と答えたのです」

国民の歓迎ぶりについて、地元紙『ティア・ベラウ』でチーフエディターを務めるオンゲルン・カンベス・ケソレイさん(46)は次のように表現する。「両陛下が車の窓を開けて笑顔を見せたことは、パラオ国民に極めて強い印象を残したと思います。あの日は、パラオにとって歴史的なイベントでした。10年前、『日本の天皇がパラオに来る』という情報が広く流れましたが、結局は実現しませんでした。私たちは10年間も待っていたのです」。10年前の“戦後60年”の折、両陛下はパラオを含む西太平洋諸国を巡る慰霊の旅を希望されたが、警備やインフラ上の問題から最終的にはサイパンのみのご訪問となった。ケソレイさんが続ける。「今回は本当に両陛下がパラオを訪れたということで、国民は皆喜んでいます。戦争を知る年長の方は、天皇と言えば“ヒロヒト”の名前を思い出すでしょう。若い世代も、年長者から『日本の統治時代は良かった』と聞いて育っています。日本はパラオに道路や港・病院等を作り、人々に教育を与えました。戦後も、日本は多くの投資や援助を続けてくれました。日本とパラオは、歴史的に深い関係性のある国。パラオにとって、日本は“兄”のような存在なのです」。“兄”という言葉を聞けば、両国の国旗の近似性も得心が行く。ケソレイさんは地元メディアの代表として、パラオ政府主催の歓迎晩餐会の取材も行った。彼が驚嘆したのは、日本からの報道陣の多さだった。「パラオの新聞は我が社を含めて2紙だけですから、100人規模の報道陣が集まっている光景など初めて見ました。前代未聞ですよ」




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翌9日、両陛下は宿泊先の巡視船『あきつしま』から大型ヘリコプターに乗り込み、パラオ南部のペリリュー島に入られた。ペリリュー島は、1万人以上もの日本兵が散華した“玉砕の島”である。守備隊長の中川州男大佐の自決後、司令部宛てに打電された最期の言葉は「サクラサクラ」だった。ペリリュー島でも、多くの小旗が両陛下を出迎えた。日章旗と共に振られていたのは、青地に鳥がデザインされたペリリュー州の州旗である。この小旗を用意したのは、青森県在住の横浜慎一さん(52)。以前からペリリュー島での遺骨収集に携わってきたが、旧知だった同州のテミー・シュムール知事から相談されたのが契機だという。「『州の財政が苦しい為、自前で小旗を用意するのが難しい』という話でした。それで日本で寄付を募り、集まったお金でこの小旗を準備しました。布製にするか紙製にするかで悩んだのですが、『紙の方が音が出るから良い』ということで紙製にしました」。両陛下は、島の最南端に位置するペリリュー平和記念公園内の『西太平洋戦没者の碑』をご訪問。巨大な石造りの慰霊碑の前に白菊の花束を1束ずつ手向け、10秒ほど深々と拝礼された。碑の南側に広がる紺碧の溟海から、時折波の音が届いた。

その後、両陛下は参列していた遺族会の方々にお声をかけられた。両陛下が最後に対面されたのは、ペリリュー戦からの生還者である元海軍兵士の土田喜代一さん(95)だった。私は、それまでに土田さんとは東京で2度ほどお会いしていた。日本を発つ前、土田さんは「陛下がパラオに行けば、どれだけ英霊が感激されるか」と話していた。ペリリュー平和記念公園内の待機所で両陛下の到着を待っている際、土田さんは「失礼が無いようにとの心配もありますが、わくわくしております」と笑顔だった。ところが、実際に両陛下を目の前にした土田さんの表情に一切の笑みはなく、そこには凛とした気の漲りがあるのみだった。土田さんは一瞬、座っていた椅子から立ち上がろうとしたが、両陛下が屈んでお話を交わされた。陛下は「ご苦労さまでした」との御言葉で、土田さんの苦労を偲ばれた。土田さんは引き締まった顔を保ったまま、殆ど首肯くことしかできなかった。強い日差しに照らし出された土田さんの横顔は、一兵士の表情に戻っているように見えた。遺族や生存者とのご対面を終えると、両陛下はマイクロバスにお戻りになった。両陛下は車内に乗り込んでも着座せず、マイクロバスが動き出してからも立ったまま参列者の方々に手を振り続けた。両陛下の視線の先に目を転じると、そこには2本の杖を大きく打ち振る土田さんの姿があった。

両陛下は続けて、『アメリカ陸軍第81歩兵師団慰霊碑』をご訪問。白い花輪を供えて黙祷された。この島では、アメリカ軍にも1600人以上の犠牲者が出ている。両陸下は、隣接するオレンジビーチにも歩を進めた。日米両軍の間で熾烈な戦闘が繰り広げられた海岸線である。この時、両陸下の案内役を担ったのは、パラオで27年間に亘って現地ガイド等を務めてきた菊池正雄さん(67)。菊池さんは両陸下を案内した時のことをこう回顧する。「私が想像していたよりも両陸下の歩みが早かったので、考えていたことを充分にお話しする時間がありませんでした。私が『慰霊に来てくださり、日本の人たちも嫡しいと思います』と話すと、陸下は『ありがとう』と答えられました」。両陸下は過密な日程を無事に終えられ、この日の内に帰国された。翌日、パラオは静かな南の島に戻っていた。日本から押し寄せた報道陣の多くもこの地を去った。私は島に残って周辺取材を続けた。そんなある夜、コロールの日本風居酒屋でタ食を摂っていた折、思わぬ再会に恵まれた。1人の見知った老紳士が店に入ってくる姿を視認したのである。それは、ペリリュー戦の生還者の1人である土田喜代一さんだった。両陸下との対面の際には緊張した面持ちを浮かべていた土田さんだったが、この夜は極めて平穏な表情であった。それは、パラオに来る前に東京でお話を伺った時よりも、ずっと柔和で晴々とした面差しだった。両陸下のご訪問に因り、土田さんがこれまで背負い続けた悲痛なる苦闘は遂に払われたのではないだろうか? 土田さんはこの地で果てた戦友たちに、何と語りかけたのであろう。土田さんの戦争は、ここに漸く終わりを告げたのである。

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その翌日、私は再びペリリュー島へと戻った。人口700名ほどの小島には、安閑とした風が流れていた。この日の取材には、オレンジビーチで両陸下の案内役を務めた菊池正雄さんに同行して頂いた。私たちは、両陸下が供花された『西太平洋戦没者の碑』を再訪した。菊池さんは、蒼海に臨むこの慰霊碑についてこう話す。「碑の上部には窪みがあり、そこに雨水が溜まる設計になっています。この島で命を落とした兵士の多くが『水を飲みたい』と言って亡くなりましたから。そして、足元の土台の部分には矢印の付された雲のオブジェがあります。矢印が指しているのは日本。つまり、この碑には『水を飲み、雲に乗って迷うこと無く祖国に帰ってほしい』との願いが込められているのです」。その後、島の各地で島民たちの声を聞いた。熱帯雨林に囲まれたタロイモ畑で焚き火をしていた女性、イングリッド・キングさん(55)はこう話す。「私は母親から、『テンノウヘイカは神様』『目を合わせてはいけない』等と聞いて育ちましたから、両陛下がこの島に来るなんて信じられませんでした」。彼女は「テンノウヘイカ」という日本語を流暢な発音で口にした。「テンノウヘイカが車の窓を開けて優しく微笑みながら手を振っていたので、心から感動しました」。イングリッドさんの父親は日本人と韓国人のハーフ、母親はパラオ人だという。ペリリュー戦の当時、母はまだ9歳だったが、日本軍の命令に因り他の島に疎開。「アメリカ軍の上陸作戦が始まる前に、日本軍が島民を疎開させた」という話はパラオ戦史の中でよく語られる事柄だが、その実相を伝える証言と言えよう。戦後、母は結婚してイングリッドさんを儲けた。しかしその後、父は朝鮮半島に去った。「私は、母から礼儀や規律を重んじる日本式の教育で厳しく育てられました。しかし、息子たちの世代はアメリカ式の自由主義というのか、随分と雰囲気が違います。今の若い子たちをコントロールするのは難しいですね」

島の野球場で野球の練習をしていたカイ・タカダさん(25)は、「両陸下が島に来た時は仕事中だったので、実際にお姿を見ることはできませんでした。歴史は詳しくありません。でも、日本は大好き。イチローは私のヒーローですよ」と笑う。パラオは日本統治時代の影響に因り、今も野球が最も人気のあるスポーツとして定着している。“ベースボール”ではなく“ヤキュウ”で通じ、コロールにある野球場の名前は『アサヒスタジアム』という。そんな日本の言葉や文化が残る反面、戦前・戦中に関する歴史教育が手薄になりつつあるという指摘も国内にはある。イサオ・シゲオさん(76)はペリリュー州の酋長。パラオでは伝統的な酋長制度が存続しており、彼らに政治的な実権は無いものの、社会的権威は今も大きい。ペリリュー島には日本人慰霊碑が幾つも建っているが、日系人であるイサオさんはそれらを維持する為の支援を続けている。「戦争が終わって70年も経った。ペリリューは美しい島。こんな島に戦争があったことを、日本人もパラオ人も忘れてはいけない」。そう語るイサオさんは、島に残されたままになっている日本兵の遺骨収集活動にも協力している。この島で息絶えた約1万人の日本兵の内、凡そ2600柱が未だ収集されていない。現在、不発弾の危険性から近い地下壕や洞窟が閉鎖されている状態だが、パラオ政府は今後、それらを開放して遺骨収集に協力する意向を示している。私も、密林の中に点在する幾つかの地下壕に潜った。蒸し暑い壕の内部を這うようにして進むと、腐食した水筒や飯盒等が寂寞と転がっていた。

今年3月には、“イワマツ壕”と呼ばれる横穴が新たに開放された。この時の遺骨収集作業は日本の厚生労働省の職員が行ったが、不発弾の処理を担当したのはイギリスのNGO『CLEARED GROUND DEMINING』だった。同団体のスティーブ・バリンジャーさん(47)はこう語る。「私たちの団体は、世界各地で不発弾や地雷の処理等を行っていますが、パラオの状況も深刻です。イワマツ壕では、主に日本軍の手榴弾等を回収しました。その作業の過程で、壕の入り口付近で2体、内部で4体、計6体の日本兵の遺骨が発見されました」。ペリリュー島に残存する不発弾の総量は、一説には1400トン(手榴弾凡そ280万発分)にも及ぶと推計されている。パラオでの不発弾処理活動には日本のNPOも参加しているが、化学兵器や地雷の場合とは異なり、通常兵器の回収についてはそれらを使用した国が対応することを定める国際的な条項が無い。パラオ政府に自力で対処するだけの経済力や技術力も無く、結果としてペリリュー島の不発弾の大半は今日までそのまま放置されてきた。日本は、中国大陸における遺棄化学兵器処理事業には、1999年度から2007年度までで総額540億円もの予算を投じている。国際的な条約による責務が無いとは言え、日米両政府はパラオでの不発弾処理に関して、より主体的且つ積極的に取り組むべきではないだろうか。




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戦争という惨禍について、パラオ元大統領であるクニオ・ナカムラ氏(71)にもお話を伺った。ナカムラ氏の父親は三重県出身の日本人、母親はペリリュー島出身のパラオ人である。1943年生まれのナカムラ氏に直接的な戦争の記憶は無いが、ペリリュー島で暮らしていた一家は他の島に疎開した経験を持つ。戦後に一家は日本に引き揚げたが、食糧不足や差別からパラオに帰郷。だが、緑豊かだったペリリュー島は戦火に焼かれて無惨な荒れ地と化していた。「戦争は人間の一部であり、争いを避けることはできません。しかし、戦争に勝者も敗者も無い。あるのは犠牲ばかりです。それでも、人間は過去の歴史を忘れてしまう。パラオでも、若い人たちは戦争についてあまりよく知りません。大事なのは、『忘れてはいけない。そして許す』ということ。戦争の痛みを忘れず、その上で相手の過ちを許すという態度が大切なのだと思います」。多くのパラオ人が、日本の統治時代を肯定的に受け止めていることは事実である。しかし、日米両軍の熾烈な戦闘に因ってパラオ人に多大な苦難が及んだ歴史的事実も、私たちは脚下照顧せねばならない。

今回のパラオ取材を通じて、多くの市民から話題に挙がったのが実は“中国”であった。「今年に入ってから中国人観光客の数が激増し、様々な摩擦が生じている」といった話を、何度も耳にしたのである。パラオと中国との関係性について、前駐日パラオ大使であるミノル・ウエキ氏(84)に尋ねた。日系パラオ人であるウエキ氏は、強い警鐘を鳴らす。「中国人がホテルを纏めて予約してしまうので、日本や欧米からの常連のお客さんが部屋を取り辛くなっています。中国人はパラオに入国する際、ビザを取得する必要が無い。中国人観光客のマナーの悪さは、よく知られている通りです。今年3月には、旧日本海軍の沈没船に中国国旗が結び付けられるという事件も起きました」。パラオは台湾(中華民国)と外交関係を樹立しており、中国との国交は無い。しかし、記録に因ると、昨年3月にパラオを訪問した中国人の数は976人だったが、今年3月の訪問客は7355人。実に約7.5倍という急増ぶりである。因みに、パラオの人口は約2万人に過ぎない。一方、同年3月の日本人観光客の数は3375人だから、中国人観光客の半分以下ということになる。嘗ては日本人観光客が過半を占めたが、今や主役の座は中国人へと完全に移行した。しかも、ウエキ氏に因れば問題はそれだけではないという。「中国人がパラオの不動産に物凄い勢いで手を伸ばしています。パラオでは外国人が土地を所有することはできず、99年間の賃貸という契約になるのですが、これに中国人が殺到している。しかも、借り手はその土地に家を建てる訳でもない。要するにブローカーです。また、中国系企業は『パラオにカジノを作りたい』とも言っています。これに対し、住民投票で『反対』という結果が出た為、国会でも否決されましたが、今後どうなるかわかりません。その他、『ゴルフ場を作ろう』という声もあるんですよ。自然保護の観点からも、このような動向を許すことはできません。パラオ人は、大好きな日本人にもっと来てほしいんです。SOSを発しているんですよ。パラオは危ない。このままでは、パラオは中国に取られてしまいます」

“中国の大国化”という現実を前にして、パラオは深い葛藤を抱えている。これに対し、パラオ元大統領のナカムラ氏はこう説明する。「今、中国が世界的な力を急激に付けていることに、パラオも動揺しています。しかし、観光立国であるパラオにとって、中国からの観光客を無視することもできません。日本からの観光客が減っていることで、我が国の観光業は非常に苦しい状態にあるのです。ですから、需要と供給のバランスさえ取れていれば、私は何人だろうが歓迎します」。「中国の資金が必要だということでしょうか?」という私の問いに対し、元大統領は“戦後70年”を意識しつつ、語調を強めた。「私たちに『あと70年も待て』というのでしょうか? パラオの若者はグアムやアメリカに移住して、国には帰ってきません。パラオの人口はどんどん減っています。1日20~25ドルほどの収入で、缶詰ばかり食べているような貧しい生活をしている人々も多いのです。このような状況を続ける訳にはいきません」。確かに、とりわけペリリュー島では明らかに若者の数が少なかった。現在のパラオには観光業の他、漁業くらいしか主たる産業が無く、大幅な貿易赤字が長く続いている。にも係わらず、生活必需品の大半を輸入に頼るこの国では、輸送費の影響から総じて物価が高く、食料品や日用品は日本とあまり変わらない価格帯のものが少なくない。終戦から70年もの歳月を経て、日本との従来の枠組みだけでは立ち行かなくなっている国家の苦悩を、ナカムラ氏は吐露したのであった。その上で、ナカムラ氏はこう続ける。「そういった意味でも、今回の両陸下のご訪問は日本との関係性を見つめ直す素晴らしい機会となりました。日本とパラオ両国にとっての“新たな始まり”です。両陸下がパラオを訪問された4月9日は、ペリリュー州の祝日に定められました。まさに、両国は“新たな始まり”を迎えたのです」。ナカムラ氏は、“戦後70年”という時間軸を相対化した上で、“次の70年”の在るべき姿を真摯に模索していた。

前駐日パラオ大使のウエキ氏は、次のような興味深い話も教えてくれた。「首都のマルキョクに韓国人戦没者の慰霊塔があるのですが、その碑文に『韓国人はパラオで日本人にこんな酷い目に遭った』というようなことが延々と書かれているんです」。私は早速、バベルダオブ島の東岸に位置するマルキョクへと向かった。パラオで最も栄えている都市はコロールであるが、行政的には2006年10月にマルキョクに遷都されている。コロールから車で40分ほど走ると、山の稜線に周囲の長閑な光景と全く調和しない宮殿の如き建物群が見えてきた。国会議事堂や大統領府だという。それら政府機関の目の前の土地に、その塔は立っていた。塔の正面には“韓國人犧牲者追念平和祈願”と刻まれ、碑文に因ると、2004年に『海外犠牲同胞追念事業会』という韓国の団体に因って建立されたとある。碑の側面に付された案内文の中には、「韓国人女性がエンターテイナーとして日本兵の為に働くことを強制された」「少なくとも2000人の韓国人が奴隷にされた」「彼らは飢餓・病気・日本人に因る虐待暴行・事故・アメリカ軍機に因る空襲の為に犠牲となった」といった要旨の記述があった。“エンターテイナー”とは“慰安婦”のことを意識しているのであろう。前出のウエキ氏はこう語る。「戦時中、私は中学生でした。“勤労奉仕”ということで飛行場の建設を手伝ったりしましたが、確かに、中には威張っている日本人もいました。韓国人に対する差別があったかなかったかと言えば、それはありました。沖縄の人も差別されたような時代でしたから。しかし、『2000人の韓国人を奴隷にした』というような事実など絶対にありませんよ。この碑文の内容は事実ではない。私は『これは嘘だ』ということを、地元の新聞でも主張しました」。政府機関に隣接する地に、匕首のようにしてこのような塔が建立されている景観は如何にも異様であり、この立地状況と碑文の内容を考えれば、“慰霊”よりも“日本を非難する”という意図が色濃く込められていることは明白であろう。

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帰国した私が向かった先は、宮城県の蔵王町であった。その集落は、名を“北原尾”という。戦後、パラオからの引揚者たちが集団で移住した土地である。「いつまでもパラオのことを忘れないように」との思いから、この地名が付けられたという。引揚者の1人である佐崎美加子さん(82)は言う。「戦前、私の父は南洋庁の土木課に勤めていました。私たち一家はマラカル島に住んでいましたが、戦時中はバベルダオブ島のヤマト村というところに疎開しました。兎に角、食べ物が無かったので、芋の葉やヘビ等を食べて飢えを凌ぐ日々でした。敗戦後にこの地に入植して雑木林を伐採し、一から開懇しましたが、パラオとは別世界でしたね。寝起きする掘っ建て小屋には、冬になると室内まで雪が吹き込んできました。両陛下のご訪問はテレビで観ましたが、『ありがたい』という気持ちと共に複雑な思いがするのも正直なところです。この感情は簡単には言い表せません」。引揚者たちが入植した当初は、主に小豆や麦等の畑作が行われたが、現在では酪農地帯となっている。なだらかな牧草地を飾るが如く、過去に入植者たちが植えたであろう桜の木が遅めの花を咲かせていた。2011年の東日本大震災の際には、東京電力福島第1原子力発電所から80kmほどの距離にあるこの地の人々も、放射線量を気にする日々を余儀無くされた。震災の折、パラオは3月25日を『追悼の日』と定め、同日から5日間に亘って国内の『月章旗』を半旗とする大統領宣言を発出。パラオ全土で募金活動も展開された。パラオは、“兄”である日本を忘れていなかった。被災地に咲き零れる桜の花弁を仰ぎながら、嘗て「サクラサクラ」なる言葉が打電された南の島に改めて思いを馳せる。日本にとって、“隣国”と言えば中国や韓国が直ちに想起されるが、少し地図の範囲を広げてみれば台湾があり、そしてパラオがある。そして、そんなパラオの土壌にも中韓の様々な思惑が降り掛かっている現状を、私たちは知らねばならない。

今回の両陸下の行幸啓は飽く迄も“慰霊”の為であったが、時期としては、パラオにおける日本の存在感が“日本統治時代を知る世代の高齢化”や“中国の進出”といった要因に因って、次第に希薄化する曲がり角でのご訪問となった。大半の日本人は、70年前まで日本と共存していたパラオという国家を、既に忘却していたのではあるまいか。けれども、この地のことをずっと心に留めておられたのが両陸下だったのである。次の70年、“太陽と月”は如何なる軌道を描くのであろう。 (ルポライター 早坂隆)


キャプチャ  2015年6月号掲載


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テーマ : 歴史認識
ジャンル : 政治・経済

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