オバマも注目…『21世紀の資本論』が米国で40万部も売れた理由

2013年9月、専門書は1万部出ればベストセラーといわれるフランスで950ページを超える(厚さ4.4cm!)トマ・ピケティ著『21世紀の資本論』が、発売1週間で6000部も売れ、週刊誌『レクスプレス』はいち早く「経済問題はフランス人を熱中させる」と書いた。しかし、驚くにはまだ早かった。今年4月、アメリカで英語版が発売されるや、それに輪をかけた大旋風が巻き起こった。英語版では活字を小さくしたりレイアウトを変えたりして700ページにおさえているが、漬物石のようなボリュームに変わりはない(こちらの厚さは5cm)。それが発売から3ヵ月で、40万部を超えるベストセラーになっている。オバマ大統領はピケティが訪米したとき、財務長官や経済補佐官に会わせ、ノーベル経済学賞学者ポール・クルーグマンは「おそらくここ10年間で、もっとも重要な経済書」と絶賛した。なぜこんなことになったのか?






あえて一言でいうならば、“アメリカン・ドリーム”をみごとに打ち砕いたからではないだろうか。アメリカでは格差など問題ではない、貧しい家庭の子でも努力すれば大富豪になれる、と信じられていた。ところが著者のピケティは、階級社会といわれるヨーロッパにくらべてアメリカは社会的流動性が高いというのは誤りだと実証した。実力主義は事実の綿密な検討のない“社会学の信仰”でしかないと断定する。しかも格差は再生産されていた。エリート校に入るには極めて高い入学金が必要だ。そして、「明らかに入学の決定は、両親の大学への寄付の金銭的能力に従属している」(以下、特に断りがない引用はすべて『21世紀の資本論』より)。

さらにピケティは《資本主義は技術革新と競争と経済成長によって格差を解消する》というテーゼも崩してしまった。これは“実証的手法にもとづく理論”を理由に1971年にノーベル経済学賞を受賞したサイモン・クズネッツが1955年に唱えた仮説で、20世紀の前半、アメリカでは10%の最高所得者層が国民全体の所得の40~50%を占めていたが、1940年代の初めを境に減少し、35%を割って再び上昇することはなかったという事実をもとにしている。だが、ピケティは1980年代に入るとクズネッツの曲線は反転して、現在では20世紀初頭の最高水準にもどっていることを統計で示した。さらに追い打ちをかけるように、ピケティはクズネッツ仮説は格差なき社会をうたう共産主義に対抗するための冷戦の政治的産物にすぎず、「実証的情報は5%で、95%は思索で、おそらくそのいくつかは希望的観測によって染まっている」と本書の注釈に書きこんでいる。

アメリカでの人気について、ピケティにも近いフランスの経済誌『アルテルナティブ・エコノミー』のシャビニュー副編集長に尋ねてみた。「内容の充実もさることながら、時期もぴったりでした。オバマはピケティの本がアメリカで出る少し前に格差問題に真剣に取り組むと言明していたからです。オバマにしてみれば、海の向こうから強い見方がやって来たというところでしょう。ジョゼフ・スティグリッツやクルーグマンが称賛した理由も、オバマと同様です。彼らは格差問題の重要性を主張していましたが、アメリカの経済学の主流からは認められていませんでした。ピケティが彼らの主張にお墨付きを与えてくれたのです」。クリントン政権で財務長官を務めたローレンス・サマーズは「彼のエキゾチックなフランス語訛りの英語もメディアにとってはパーフェクトだ」(『アルテルナティブ・エコノミー』2014年6月号)という。もっとも、フランス語訛りの英語を苦々しく思った連中も少なくない。おもに共和党支持の保守派の論客だが、民主党左派に近いジェームス・ガルブレイスも批判している。彼のことをよく知っているというシャビニュー副編集長は、「嫉妬もあるでしょう。ピケティと同じような研究を発表したが、自国においても、国際的にもピケティのような成功を収めませんでした」と皮肉と同情をまじえて語った。

一般の評判はどうか、とAmazon(アメリカ)のレビューをみてみると1000本を超えており、7割方が4つ星5つ星である。だが、1つ星も2割ほどあって「マルクス主義」とか、「共産主義者のプロパガンダ」、はては「北朝鮮から来た男」と罵倒している。ちなみに、フランスのレビューでは反対に「保守派の退嬰的論理」「新ネオリベラリズム」と左翼から攻撃されている。また英国のマルクス経済学者ミック・ブルックは、独立社会主義者ネットワーク(ISN)の機関紙で「タイトルからマルクスの資本論と比較されるが、マルクス思想に悲惨なほど無知である」と新古典派経済学者と位置づける。ピケティは格差を否定しているわけではない。それが家柄や身分ではなく皆の共通の利益にもとづいているかどうかが問題なのである。下層階級が上層階級を倒すことなど、まったく考えていない。

アメリカの神話を打ち砕いたトマ・ピケティは、1971年5月にパリ郊外で生まれた。16歳で大学入学資格を取り、22歳でパリとロンドンで博士号を取得した。そしてすぐマサチューセッツ工科大学に准教授として迎えられた。初めてのアメリカだった。「私は夢を実現した」。ところが「すぐにフランスそしてヨーロッパに戻りたいと思った」。アメリカの経済学の実情に失望したのである。「クズネッツの時代(1950年代)以来格差のダイナミックスについての歴史的データ収集は行われていなかったにもかかわらず、専門家たちは純粋な理論の結果だけを並べ立てていた」。そして、彼にも同じことを求めた。「経済学は数学と純粋理論的な思索への幼稚な情熱からまだ脱却できておらず、また、しばしば非常に思想的であった。経済学者はあまりにもしばしば彼らにしか関心のない小さな数学的な問題をなによりも気にしていた。そしてそのことによって安易に科学性の見かけが与えられ、彼らを取り囲む世界が提起する遥かに複雑な問題への回答を避けることができた」。結局、たった3年弱でパリにもどり、その後もずっと居座りつづけた。現在は社会科学高等研究院代表研究者・パリ経済学校教授の地位にある。

『21世紀の資本論』の出発点は、2001年に発表した論文『20世紀フランスにおける高所得者』である。つづいて米国カリフォルニア州立大学のエマニュエル・サエズ、英国オックスフォード大学のアンソニー・アトキンソンらと共同研究を行い、その対象をアメリカ・フランス以外の諸国へと広げていった。ちなみに、ピケティとサエズが行ったアメリカの研究が明らかにした最富裕層の所得が国民所得に占める割合や資産所有率が、ウォール・ストリート占拠運動につながった。ピケティはそれらの研究で一貫して、資本と所得の関係を調べつづけた。なお、ここでいう“資本”とは、生産の源となる設備や資本金のことだけではなく、預金・株式・債券や貴金属・土地建物などの資産も含まれる。“所得”は、2つに分類される。労働の対価として得られる労働所得と利子・配当・地代・売却益などの形で資本から得られる不労所得である。“所得”は衣食住などに消費される。残った分は貯蓄に回され、金融資産や不動産などの“資本”に形を変える。ピケティは、200年にわたる税務文書などを使って、欧米と日本で最も所得の高い10%・1%・0.1%が国民総所得のうちどれぐらい使っていたかを調べ上げた。そして、前述したように、20世紀のなかばに所得の格差は減少したものの、現在では、最高所得層10%が国民総所得の50%近くを1人占めする100年前の状態に戻ったことを突き止めたのである。

本書はこれらの研究を集大成するとともに、古代から現代に至る歴史についての知見を踏まえ、さまざまな国の間の格差の拡大と圧縮のメカニズム、経済成長の要因や過去と現代の格差の内容の相違を分析する。この大著の意義は、膨大な統計資料を集め、その検証の結果を淡々と誰にでも開かれたかたちで示したことにある。結論はあくまでも観察の報告である。とはいえ、先にあげたクズネッツ仮説のほか、生産技術の向上によって労働者の賃金は上がり、資本による収入よりも高くなる(“人的資本の上昇”)とか、“階級闘争”が“年代闘争”にとってかわるとか、富める国からの投資が後進国の発展を促し国家間の格差を是正するといった従来の定説が次々に覆されていく。本書の醍醐味は、明確な証拠を丹念に読んでいくこと自体にあり、要約することはあまり意味がない。だがあえて、日本の教訓にもなるような点に絞って、内容の一部を見ていくことにしよう。

20世紀の初め、欧米はたった10%の不労所得者が、国民資産の90%を所有し、国民の所得全体の半分近くを得る格差社会だった。じつは日本も状況はおなじだった。たとえば、大正元(1912)年、日本の1%の最高所得層は国民所得の17.9%を得ており、ドイツよりも多かった。クズネッツ仮説のところで述べたように、その後、格差は縮小する。それをもたらしたのは戦争であった。戦争はもちろん資産を物理的に大きく破壊した。だが、それよりも戦争が引き起こした外国資産の暴落・貯蓄率の減少・家賃規制などの影響の方が大きかった。さらに決定打となったのは、所得と相続財産に対する累進課税である。それはヨーロッパでは第1次大戦の莫大な戦費によって国が抱えこんだ借金を返すために導入され、アメリカでは大恐慌に対する経済政策のために採用された。平時なら議会や世論の反対でまず導入不可能だった。この制度は戦後も続き、1978年の所得税の最高税率はアメリカでは70%、英国では98%だった。累進課税は国庫収入の増大よりも所得制限に作用したとピケティは分析する。どうせ税金に取られてしまうのなら、わざわざ高い給料にはしたくないからだ。

しかし、1980年代、長らく続く不況を打開するために英国にはサッチャーが、アメリカにはレーガンが大胆な民営化・規制緩和・減税など『新保守主義』と呼ばれる政策をひっさげて登場した。1990年、サッチャーが退陣した時、英国の最高税率は40%、アメリカでは28%まで下がっていた。多かれ少なかれ似たことが日本を含む先進国で起こり、格差は再び急激に拡大し、特にアメリカでは、かつての不労所得者にかわって、超高給取りの“スーパー経営者”が君臨するようになった。彼らの超高給は、経済学的には限界生産性(彼らの寄与によって生まれる生産)によるものだと説明されている。経済成長に答えを求める者もいる。だが、いずれも統計が示す事実とは矛盾している。その本当の理由は、要するに彼らが自分の給料を自分で決めるからである。第三者によるガバナンス制度があっても社外取締役などが同じ階級に属しているからお互いさまだ。他社との競争があっても事情は変わらない。ここにはアダム・スミスのいう“見えざる手”は存在しない。しかも、スーパー経営者の超高給の内実を客観的に研究して世に問うべき経済学者たちもこの金満家集団の一員である。こうしてスーパー経営者は巨大な資本を形成する。

このように富が一部に集中していくのは、なぜなのだろうか? ピケティはその原因を“資本主義の中心矛盾”と呼ぶ資本収益率と経済成長率の差に求める。資産を運用すると家賃や配当などの収入を得る。その量を年の利回りで表したのが資本収益率である。いっぽう経済成長率は、生産と所得の伸び率である。欧米や日本では、1914年から1980年までで戦争中と戦後の例外を除けば、資本収益率は平均4~5%で、経済成長率は1~2%であった。いわば不労所得は毎年4~5%“賃上げ”されるのに対して、労働所得は1%しか上がらないのである。資産家と労働収入しかない者の差はどんどん広がっていく。しかもこれは“市場の失敗”によるものではない。市場経済がうまくいっているからこそ生じるのだ。金融危機やバブル崩壊も一時的には影響を与えるものの長期的な傾向はまったく変わらない。

「企業家は必ず不労所得者に変身し、労働しか持たないものを次第に強く支配するようになる。一度確立すると、資本は自己増殖し、生産よりも早く増殖する。過去が将来を貪り食う」とピケティは警鐘を鳴らす。本書はフランスでも日本でも、1980年代初めには、上位0.1%が国民所得全体の1.5%を占めていたが、2010年代初めには2.5%とほぼ倍になったと述べる。日本では企業の内部留保ばかりが注目されているが、最富裕層の取り分も増えているのである。もうひとつ興味深いピケティの発見がある。フランスでは、第2次大戦後から1970年代まで成長率が異常に高かった時代が出現し、“栄光の30年”といわれる。そのせいで「経済成長は年に3~4%あるべきだという考え方が染み込んでいるが、歴史的にも論理的にも幻想である」。“栄光の30年”は、ただ単に遅れを取り戻しただけにすぎなかったのである。“栄光の30年”は日本の高度成長にも当てはまる。もはや2%の継続的な成長は幻想である。しかも、インフレは格差を拡大する。

では、格差を減らすにはどうすればいいのか? ピケティの唯一の提案は、世界レベルでの資産への累進課税である。たとえば、年間に100万ユーロ未満の資産については免税、100万から500万ユーロには1%、500万ユーロ超には2%。たしかに、正論ではある。だが、その実現はまず不可能だ。たとえば課税の前提として世界中の金融機関の間で情報が公開されることがなによりも必要不可欠である。ピケティは、その実現のため、ずっと軽微な税率で最富裕層に限定してもいいから、早急に資産課税をすべきだという。しかし、ウォール・ストリートやロンドンのシティがタックスヘイブンと表裏一体になっているのが現実である。政治家・官僚、そして学者までもが利用しており、抜け穴を見つけるために世界中の優秀な弁護士が働いている。テクノロジーの発達で、いまや金融取引は1万分の1秒で動いている。もしこの状況で資産課税を実行すればコストを払って資産隠しのシステムをつくることができない層だけに負担がかかり、最も裕福な“0.1%”にはさらに富が集中するだろう。

それにしても、ギリシャ国債問題から始まったEU危機において、政治家や実務家たちが必死に巨大な怪獣と化した投機筋と戦って緊張した議論をし、試行錯誤しつつ、さまざまな現実を明るみに出し、課題を解決しようとしていった姿にくらべると、ピケティの提案は、あまりにも安易だ。EU危機のとき先入観に凝り固まって空論を繰り返していた、ピケティが初めてのアメリカで失望したのと同類の経済学者たちとあまりかわらない。それまで、事実にもとづいて綿密な考察を繰り返していただけに、この部分にさしかかると、まるで別人が書いているような錯覚さえうけた。だが、これも仕方のないことだろう。ピケティはあくまでも基礎研究者なのである。だが、処方箋の非現実性は本書の価値を否定するものではない。ピケティ自身、本書の資料も答えも不完全で不十分であることを自覚し、あらたに議論が生まれることを求めている。ピケティらの作業があってはじめて、現実に沿った議論がその上に積みあがっていく。まさに、フランスではこの新しい“資本論”をたたき台に真摯な論争がはじまっている。基礎のない砂上の楼閣になっていた経済学が、真の社会科学として再出発しようとしている。


広岡裕児(ひろおか・ゆうじ) ジャーナリスト。1954年川崎市生まれ。大阪外国語大学フランス語科卒業。経済から皇室まで幅広い分野で活躍。著書に『エコノミストには絶対分からないEU危機』など。

               ◇

■特別寄稿――トマ・ピケティ、鮮やかな“歴史家”の誕生  歴史人口学者 エマニュエル・トッド
政治家は無能だが、我らがフランスには研究者がいる。政府が経済にはたらきかけるのを諦め、気休めに治安問題に取り組んでいるとき、世界の経済と社会の変化を解き明かす根本的な書物が、フランスに現れた。オランド大統領は私たちをマスコミ報道の喧噪の最中に置き去りにし、さまよわせるだけだが、トマ・ピケティは『21世紀の資本論』《フランス語の原書は2013年8月に発売。以下、《》内は訳注》によって、私たちが今、どんな時代を生きているのかを教えてくれる。経済の停滞・格差の拡大・一部の階層による支配の拡張……・。私たちは世界の崩壊を感じている。今、起きていることを理解するためには、現状を戦後の幸福な一時代、つまり1945年から1975年の“栄光の30年”と比較するだけでは不十分であり、少なくとも18世紀末まで遡って考えなければならない。そのことをピケティは明らかにした。1945年から1980年は、人類の、特にヨーロッパの歴史において小休止にすぎなかったからである。私たちが生きているのは、そして闘わなければならない相手は、未知の新しい時代ではない。富の偏在という歴史のいつもの姿の再来である。

ピケティは純然たる経済学者であり、所得格差の専門家だった。フランスの高等師範学校(エコール・ノルマル)を卒業し、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)で教え、パリ経済学院の創設者の1人となり、最初の研究主任となった《現在は教授》。その後、フランス及び世界の上位1%の富裕層の変わりゆく、しかし中心的な役割を明らかにした論文を発表した。ジョゼフ・スティグリッツが最新の著作の中でピケティに(そして全世界を対象とする比較研究の共同参画者であるエマニュエル・サエズとアンソニー・アトキンソンに)敬意を表しているのは、その業績に対してである。そして、ピケティは1000ページ近い『21世紀の資本論』によって、資本の集中化・労働の地位・それから生じる所得格差についての歴史と理論を提示した。舗石のような本で、その厚さと重さに腰が引けるが、一度ページを捲れば、心地よい驚きが訪れる。非常に読みやすい。しかも、そこにはピケティの文体がある。公平で、簡潔で、教育的で、柔らかく、体系的で、正確で、腰が据わっていて、皮肉たっぷりで、容赦ない。

アメリカの考え方はピケティを苦笑させ、私たちを笑わせる。アメリカの経済学者が格差を問題にしないのはなぜか? 答え:彼らが上位1%の給料をもらっているから。でも、決して上位0.1%にはなれない。彼らはより上位の富裕層に仕える番犬にすぎず、それ以上ではないからだ。ベルエポック《1890年頃~1914年》についてのフランス人の幻想や、エリートの庇護についてパリ政治学院の創設者が持っていた妄想も俎上に載せられる。つまり、この本には随所に細やかな筆づかいで、ある時代のある階層の人々がどのように自らの経済思想を形成していたのかを描く素晴らしいエセーが書きこまれている。

ピケティのアプローチの特徴は、測量への意思にある。まず、資本と国民所得という2つの経済指標の世界的な調査を通して、社会の現実を鋭く観察した。そして、資本と国民所得の関係を探った。最後に富の水準を正確に見極めるために資本と国民所得がどのように分配されているかを研究した。こうした課題に取り組む比較歴史学者にとって、税務文書は金鉱である。それを解読することで肩書きや地位や職業の国ごとの違いを超えて、それぞれの社会を記述できるからである。どの社会にも上位0.1%あるいは1%の富裕層がいて、上位9%・上位40%が続き、さらに下位50%の人々がいる。フランス革命以前のアンシャンレジーム《旧体制》の貴族と当世の金融トレーダーを同じ秤で測定することができるのだ。このピケティの手法を体験してしまうと、様々な例を主観的に引いてくる印象主義や、頑迷なエキゾティズムによる調査報告を楽しむことはできなくなってしまう。

統計と比較を統合したピケティの方法の力は驚くべきものだ。ピケティは経済学のモデル、つまり、自分の仕事道具を完全に使いこなしている。しかし、いささか間抜けな先達の同業者とは異なり、欲求についての単純な公理系から始めることを拒否した。つまり、経済学の教科書の冒頭にあるような“経済人”を前提に置かなかった。“経済人”なる概念は、歴史の中で観察される現実とは、そもそも無関係である。ピケティは事実から出発し、事実を説明できる簡単でわかりやすいモデルを提示した。ここに、ひとりの“歴史家”が誕生した。ピケティはおそらくアナール学派を代表する最良の歴史家として記憶されるだろう。長期的な持続を統計的な手法で解明していくアナールの学統は消えてはいなかったのだ。私たちは奇妙な時代を生きている。フランス人がアメリカ人のお株を奪って、その目の前で経験主義の松明を掲げているのだから。

本書ではマルクス、ケインズ、クズネッツ、フリードマンなどの経済学者が、不十分な統計を用いたかどで丁重に葬られていく。それに対して、バルザック、オースティン、ヘンリー・ジェイムズと18世紀から19世紀の小説家が高く評価される。登場人物を通して同時代の社会を活写した彼らは、金利と生活様式の評価を的確にできた、生来の完璧な社会学者だったというのだ。バルザックが『ゴリオ爺さん』の登場人物・ヴォートランに語らせた「働くべきか、結婚すべきか」というラスティニャックのジレンマは、結局のところ、多くの近代経済学の仮説よりも、はるかに本質を衝いている。資本(ここでは労働に必要な道具・機械・建物・個人住宅を含む)は経済活動に欠かせない。そして、資本は蓄積の法則を持っている。そのスピードは、マルクスが考えていたよりもゆっくりである。そのため、マルクスの考えは時に批判されることもあった。しかし、結局のところ資本蓄積の法則は常に厳然とはたらいてきた。その法則からは悲劇的だが明白な事実が導き出される。経済成長率が資本収益率よりも低ければ(それが歴史のほぼ常態であるが)、資本の集中化の法則がはたらき、次第にほんの一握りの者の手に富は集まっていく。

このことから過去のすべての社会は“世襲財産的”だったといえる。どの社会も相続され集中化された富によって、支配されてきたからである。資本収益率が5%ならば、平均成長率が0.5%でも1%でも2%でも、長期的にはほとんど違いをもたらさない。いずれの場合でも結局は上位10%の富裕層が総資本の80%を所有し、上位1%の富裕層が総資本の50%を所有する社会になるだろう。1789年のフランス革命も資本の集中化の法則のはたらきを変えることはなかった。1789年から1914年は、歴史の教科書によれば、民主制の時代であり、大衆の識字率が上がり、選挙権も拡大していったが、資本の集中化を押しとどめることはなかった。1810年には上位1%の富裕層が総資本の50%弱、1910年には60%を所有していた。そのような事実は、トクヴィルを真剣に読みなおすことを促すだろう。だが、経済学者は再読に値するだろうか。冷戦時代にサイモン・クズネッツが示した、格差を是正する経済の自己調整機能など存在しなかった。経済学者は、経済は自動的に均衡状態に回帰すると盲信していたが、そのようなことはなかったし、誰も目にしたことがない。

資本とそこから得られる不労所得《利子・地代・株の配当など》がごく一部の富裕層に集中化することを防いだのは、20世紀の戦争であった。戦争は物理的な破壊・インフレ・緊急措置としてとられた課税をもたらし、それらが資本の集中化を止めた。1945年、ついに資本は制御され、労働・教育・能力主義の時代が到来した。上位1%はようやく遺産ではなく、労働によって決まるようになった。しかし、1945年以降の経済的な民主化は、トランプの札をシャッフルするように階層構造まで壊し、富を一から再分配することはなかった。下位の50%の層は相変わらず何も所有しなかった。戦後に生じた変化の最たるものは、“世襲財産的な中間層”の出現である。上位10%と下位50%の間に、何かを所有する40%が現れたのだ。その何かとは、マイホームやささやかな貯金である。ただし、それらは上位の10%が持つ資産よりも高い収益率では投資・運用されない。とはいえ、アリストテレスがいったように社会の安定した土台となり、外部の脅威から社会を守るのは、この中間層である。

戦後復興を遂げた社会は、やがて平静を取り戻し、ほどよい人口増加と、ほどよい経済成長の時代を迎えた。すると、自然な成りゆきとして再び資本収益率は成長率よりも高くなっていった。税率は下げられ、資本蓄積が再開され、総所得に対する総資本の比率が上昇し、長期で見たときの平均値に再び近づいていった。社会の世襲財産化が進み、中期的には私たちの社会は平等な理想郷ではなく、ベルエポックやアンシャンレジームのような格差社会になっていくだろう。国家による調整がなければ、世襲財産的な社会が再び訪れることは、避けられない。だが、こうした変化が起こりつつあることは、まだ十分には認識されていない。社会の操縦席に座っているベビーブーマーは、今もなお自分たちの社会が能力主義に基づいており、高学歴を目指す努力とその獲得が、階級上昇への道だと信じている。確かに学歴はまだ意味を持っている。しかし、年を経るごとに相続や贈与を通じて、親の財産が子どもの生活水準を決めるようになってきている。

フランスは今、均衡点にいるといえるだろう。資本から得られる不労所得の上位1%の額と労働から得られる所得の上位1%の額がほぼ同じだからだ。しかし、学歴のない富裕層の操縦席への帰還は、すでに見えてきている。大げさに言うのはやめよう。貧しい人々にとっては、学歴があるだけのバカのうぬぼれの方が、知的に優れていると思いこんでいない資本の相続人の謙虚さよりも、有害かもしれない。能力主義の消滅が、何も所有しない人々にさらなる危機をもたらすとは必ずしも言えないのである。比較を旨とする本書は、国や大陸ごとの特殊性、それぞれの社会が持つ独自の性格にも注意を払っている。マルク・ブロック《アナール学派の歴史学者》なら、それらのことを固有の歴史あるいは特殊人類学の基礎の反映と言うだろう。たとえば、英国とアメリカの歩みが並べられれば、読者はそこにアングロサクソンの文化的統一性を見出すだろう。他にもこの書物の様々なところで、それぞれの地域ならではの重要な特殊性を発見できる。南北戦争前のアメリカ経済においては、奴隷制によって蓄積された資本が大きな役割を担っていたことや、ドイツでは意外なことに第2次大戦後も富裕層の金融資産がしぶとく残ったことなどである。

大陸ヨーロッパとアメリカの比較では、ピケティの分析方法が、いかに私たちをイデオロギーから解き放ってくれるかを鮮やかに示してくれる。この本によれば、私たちの予想どおり、格差の拡大傾向がアメリカを特徴づけていること、ここ数十年でアメリカの格差がヨーロッパの格差を上回ったことがわかる。しかし、アメリカの格差を最もうまく説明するのは、スーパー経営者の超高給の暴騰である。このことは、移民流入と人口増加によって、資本が所得を決定する力はアメリカの方がヨーロッパよりも、弱いということを意味している。つまり、世襲財産的な社会という過去への回帰は、福祉国家を標榜するヨーロッパの方がアメリカよりも先に進んでいる。アングロサクソンの英国とアメリカは、かつて第2次大戦前に高額所得者に対して、没収に近いような非常に高い税率を導入することができた。その後、ヨーロッパ大陸諸国の水準以下の税率にするために、その非常に高い税率を撤廃したが、ピケティが述べるように富裕層と国家のヨーヨーゲーム《押し引き》が再開されることを夢見てしまう。英国とアメリカで短期間であれ、そのような非常に高い税率が導入されたことがいかに奇妙でも、そのことから、資本を制御することは、ヨーロッパよりもアメリカの方が容易であるという結論が導かれる。名家は別として、アングロサクソンの社会は、世襲による財産移譲を好まないのである。

本書は現状の打開策で締めくくられている。この部分も非常に興味深い。金融市場と福祉国家の併存、インフレの矛盾に満ちた影響、国の借金によって公的資本がゼロになってしまうことについての独自の見解が詰まっている。しかし、それらに十分な説得力があるとは思えなかった。所得に対する課税を改革し、全世界での資本に対する税、それが無理なら、せめてヨーロッパでの資本税を導入せよ、とピケティは提案している。確かに必要だろう。しかし、ピケティは、それらを市民としての義務感から提言しているにすぎず、その実現可能性を信じていないように思える。今日起きているのは、ピケティの提案とはまったく逆の事態だ。税率の引き下げ、ヨーロッパ各国間の税負担軽減競争である。メディア・大学・政党に資金援助をすることで、資本の政治的な力は強まっている。そのことが顕著に進んでいるのはアメリカだが、それが始まったのはヨーロッパである。

どのような突然の驚くべき危機が起これば、計器の針がゼロに戻り、我々年老いた先進国は民主的な再出発を果たせるのだろうか。この本を読んだ後に去来するのは、そんな思いである。あるいは逆に豊かだが再び格差が非常に拡大した社会に、かつてなかったような、一見ソフトだが世界を包摂する支配形態が出現するのかもしれない。結局のところ、経済という機械を暴力的に停止させる方が望ましいのではないだろうか。老人には恐ろしいことだろうが、一握りの人々が支配する世界を子孫に押しつけないためには、その方がいいのではないだろうか。私たちはすでに現状を変える針路をとるアメリカのリーダーを夢見はじめている。あまりに世襲財産的なヨーロッパは、自分たちがすでに第3次世界大戦(今回は経済戦争だが)の只中にいることを認識していない。本書を読めば、そのことが理解できるだろう。

ピケティは、20世紀の危機が資本を制御したことを解き明かしたが、なぜナショナリズムが昂揚したのか、なぜ戦争が起きたのか、なぜ年金生活者は自殺に追い込まれたのか、といった問題は提起しなかった。心性の力学はブラックボックスのままだ。それによって偶然にしか見えない出来事や、ピケティが提案した改革の非現実的な性格がおそらく持っている道理が解き明かされるだろう。とはいえ、ピケティが比較に基づく厳密な社会経済的な枠組みを通じて、現代史を描き出したことは確かである。そして、歴史家たちにこの枠組みをわがものとし、残された疑問を解き明かしてみろと挑発している。この傑作を読み終えると、まだ解かれていない問いや謎で頭が一杯になり、マルク・ブロックが『歴史のための弁明』に記した一節を想起せずにはいられない。「それぞれの学問分野は分割されてしまっているが、往々にして隣の分野からの脱走者が、学問に成功をもたらす最高の立役者となる。生物学を刷新したパストゥールは生物学者ではなかった。デュルケームとヴィダル・ド・ラ・ブラーシュは20世紀初頭の歴史研究にどんな専門家も及ばない比類のない足跡を残したが、デュルケームは社会学に移行した哲学者であり、ド・ラ・ブラーシュは地理学者であった。2人とも、いわゆる歴史学者とはみなされていなかった」 (翻訳・西泰志)


Emmanuel Todd 1951年フランス生まれ。人口動態や家族形態・識字率の上昇などから社会を分析してきた。主な著書に『新ヨーロッパ大全』『帝国以後』など。


キャプチャ  2014年秋号掲載
スポンサーサイト
Categories
Profile

KNDIC

Author:KNDIC
Welcome to my blog.

Latest articles
Archives
Counter
I'm participating in the ranking.

FC2Blog Ranking

information
Search
RSS Links
Link
QR Code
QR