【若者50年の足跡】(04) “お祭り”暗転、漂う――91世代、優秀な若手に苦慮も

こんな時代がかつてあった。就職活動生は企業主催のパーティーに参加したら、一次面接に合格。内定をもらうと研修と称した旅行で拘束され、入社式は豪華客船で開かれた。バブルの末期、1991年のことだ。だが、バブルが崩壊し、1992年は一転して“氷河期”と呼ばれ始めた。1年の差は大きかった。採用環境だけではない。若者の職業観も『91世代』を境に大きく変わっていった。

フリーアナウンサーの薮本雅子(46)。1991年4月、日本テレビ放送網に入社した。同期のアナウンサーは男女2人ずつ。狭き門だったが、例年よりは多かった。他社の面接がある日はハイヤーが迎えに来て、“番組の打ち上げ”に呼ばれたという。入社後はバラエティー番組にいきなり起用され、熱湯に入ったり踊ったりした。『DORA』という女子アナユニットを結成し、CDも出した。「言われたら何でもやった。それが仕事だと思っていた」と薮本。時代の空気もあったが、「次第に疑問もわいた」と振り返る。




お祭り騒ぎが日本中を覆っていた。話題になったのがエンジニア派遣のメイテックだ。大卒内定者460人が東京・晴海から『にっぽん丸』に乗船。日の出を見ながらの入社式で、「メイテックマンはセックスアピールを持て」など同社の“7ヵ条”を唱和した。大手企業による大量の新卒採用はこの年がピーク。大学生の上場企業就職率も過去最高に達した。入社後も学生は優遇された。金融機関に入った谷村隆夫(仮名・47)は地方勤務を免除され、希望者が多かった証券部門に配属された。会社には「入ってもらった」、新入社員には「入ってやった」という意識がどこかにあった。

「デートがある日に残業を命じられたら」。日本生産性本部が毎年実施する新入社員調査の回答に世相が映し出されている。1991年は「デート優先」の回答が37%に達した。翌年以降、37%を超えたことはない。『リクルートという幻想』の著者・常見陽平(40)は6年後輩としてこの世代をみていた。「先輩の多くが外車に乗り、モノの面で豊かさを感じる昭和の残り香を感じた。共感する部分もあり、好きな人は多い」と言う。だが「この世代は入社しやすかったことを自覚し、バブル後は自分たちより優秀な人間が入ってくる恐怖心をずっと抱いてきたのでは」と分析する。実際、バブルは終わりを告げ、暗転する。採用枠は1992年から大幅に絞られ、自分たちと異質な新入社員が入ってきた。メディアでは“就職氷河期”の言葉が初めてとりあげられ、組織に世代間の断層が生まれた。リクルートワークス研究所の主幹研究員・豊田義博(55)は「91世代は会社でしたいことを主張して通った初めての世代。一方で集団が好きで会社を頼る傾向が強く、下の世代とどこか合わない」と話す。氷河期の92世代以降は目の前でシャッターを閉められた記憶が鮮烈で、大手企業に入れた人も組織より個人重視の思いが強い。「飲み会があっても断り、退社後に学校に通うなど自分のキャリアを磨くことに関心がある」(豊田)という。

91世代はポストの問題も深刻と言われる。同期が多く、リストラでポストが減った。年功序列が崩れ、自分より若い世代が上司になる可能性も出てきた。「職業観をしっかり持とう」。就活生向けに毎週更新されるブログがある。あるじは生命保険会社勤務の長嶋明(47)。91世代だ。長嶋は青山学院大を出て住宅設備機器メーカーに入り、2002年以降、私大・外資系企業と転職した。入社翌年がバブル崩壊。住設メーカーが合併で社名がなくなる前に退社した。「自分は運良くぎりぎりのところで氷河期やリストラとは無縁でいられただけだ。友人にはリストラなどで苦労している人が多い。僕ら世代は時代に流されていただけかもしれない。就活中の若い世代にはどんなことをしてでも、したたかに生き抜く心づもりをしておいてほしい」。ブログを続けるのには、こんな思いがある。

インターネット勃興という転換点に直面していた91世代。少数派ではあったが大企業に依存しない層はいた。インターネット広告のオプト社長・鉢嶺登(47)は森ビルに入ったが、3年で起業することを決めていた。2004年に会社は株式を上場。自身の経験をもとに『ビジネスマンは35歳で一度死ぬ』を昨年出版した。「スキル・顧客を35歳までにどれだけ蓄積できたかで差は大きく開く」と語る。データセクション(東京・渋谷)社長・沢博史(45)も富士通などを経て独立し、ソーシャルメディア分析を手掛ける。「今の30代・20代のために新しい産業をつくらないと」と話す。もう1991年のような時代は来ない。高度経済成長型の時代を引きずったままマインドチェンジできずにいる人。新しい社会に順応できた人――。様々な経験をした91世代にも50歳の節目が間もなくやって来る。 《敬称略》

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■僕は本来、リスクに慎重  KADOKAWA DWANGO会長・川上量生氏
大学時代はパソコン用ソフトを作っていて就職活動をしていない。1991年春はソフトを売ってくれていた会社の世話になった。

振り返ればバブル崩壊以降2つのことに僕らは乗り遅れたんじゃないか。1つは日本のピーク、もう1つはパソコンのブームだ。例えば、パソコン用ソフトは西和彦さんら第一世代の時代が終わり、その後は米国に主導権を握られた。「マイクロソフトは日本が育てた」「日本のIT(情報技術)産業は勝ちすぎだから米国にも勝たせろ」という上から目線の声もどこへやら。パソコン・ゲーム・携帯電話向けサービスと、日本は米国に全部持っていかれた。多分、逆転は難しい。僕は一泡吹かせてやろうといつも思っているが、米国はすぐにもっとすごい技術を繰り出してくる。だから勝つというより「生き残ろう」と考えている。米国がやらないようなニッチ市場をたくさんつくる。それが続く間は大丈夫だ。

大企業? 経営者にお会いするといい人が多い。“いい人大量生産”の仕組みというか……。安定しているせいだろう。だがそれでグローバル競争に勝てるだろうか。IT産業はやり尽くし感が出てきた。だから出版の大手企業と経営統合した。シャッフルしたら何か新しいものが出てくるだろう、と。同世代より僕はリスクをとったと言われている。だが本当は「起業は慎重に」と思っている。起業が賭け事だとしたら成功確率は非常に低い。ドワンゴをつくる時、父の退職金を使わせてもらった。運転資金がなくなっていくのをみて怖かった。実は起業と同時に、社長の僕だけ知り合いのソフト会社に“就職”して昼間働いた。親の老後を考えれば失敗できない。僕は本来、リスクに慎重なのだ。


かわかみ・のぶお 1991年京大卒。1997年ドワンゴ設立。2014年にドワンゴとKADOKAWAが経営統合し、現職。愛媛県出身。46歳。

               ◇

■今ようやく自分らしく  フリーアナウンサー・薮本雅子さん
バラエティー番組によく出ていたので“女子アナのタレント化”と言われた。とにかく有名になりたいと思っていたので最初は何でも仕事を受けていた。だが、悪ふざけがエスカレートしていって、こんな仕事していていいの?と思い始めた。気がついたら番組で無理してテンション高く笑っている自分がいた。

たまたま災害現場に駆り出されて中継をした。ぼろぼろだったが、しゃべれないほうがかえって様子が伝わったのか、結構評価された。その後もニュースを読めといわれたが、報道の部署では違和感を持たれた。バラエティーの人間がなぜここにいる、と。だが、思ったのは、取材をして編集して放送するところに居場所を見つけようということだった。そういう女性の先輩が1人いて自分も独自の世界をつくらなきゃと考えた。アナを外れ、記者になった。英語はうまくないし、時事問題も詳しくない。だが、やりたいことが見つかり、ハンセン病問題などを一生懸命取材するようになった。関係者と会うたび、これはやらなきゃと。バブルのお祭り騒ぎに踊らされ、苦しくなっていた私がようやく地に足がつき始めた感じだった。結婚・出産で退社したが、もう一度仕事をするため、大学院に行ったり、本を書いたりして一から出直した。ハンセン病のことも勉強し直して、人に話せることが増えた。

今、ラジオや講演の仕事をしている。アナウンサーと呼ばれるのは一時期嫌だったが、今やっていることはアナだと思っている。ジャーナリストと少し違う。私は口でしゃべっているからアナだ。もう夢の実現とか自分のことは終わったと思う。社会のためにできることはないかと探しながらやっている感じ。今の方が自分らしい。ようやくやりたいことが見えてきたような気がしている。


やぶもと・まさこ 1991年早大卒、日本テレビ放送網入社。バラエティー番組などで人気に。退社した2001年まで記者も。京都府出身。46歳。

               ◇

編集委員・中山淳史が担当しました。


▼91世代 1991年に社会人になった大卒を指す。バブル期の超売り手市場の中で就職活動をした最後の層で、1967~1969年生まれが多い。都会生活・ブランド品への愛着が強く、郊外型・無印良品好きとされる次の団塊ジュニア世代と一線を画す。


キャプチャ  2014年10月26日付掲載


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