【暴言の構造】(上) “本当のこと”は取り扱い注意――病名告知・余命宣告…何れも本当のことなのに、場合に依っては“暴言”として受け止められるのはなぜなのか?

医者が吐く言葉を“暴言”として、深く恨みに思う患者は多い。私の患者にもいるだろう。しかし、実際に“言ってしまった”内容は、我々からすると極当たり前のことで、「何がいけなかったのかよくわからない」という場合も屡々である。因みに、私が研修医を怒鳴りつける、若しくは私が研修医の頃に怒鳴られた“罵声”は“そのつもり”で飛ばされるので、これとは異なる。そこで、「一般論として、“暴言”は如何に生まれるか?」を今回と次回で考察してみよう。

話はその昔、私が癌の病名告知を始めた頃に戻る。当時はこれを“暴挙”と考える医療者も多かった。25年前、初期研修を終え、一人前の医者になったつもりでいた私は、大学に居場所を見つけられず、横浜の市中病院に就職した。そこでは、上司となる部長を始め、主要職員は皆慶應卒であり、東大出の私は好奇の目で見られた。その病院で多くの肺癌の患者を抱えていた部長が、「もう、患者には癌の病名を言わないと仕方が無いよな?」と診療の方針を転換することを決め、私も「そうですね」と直ぐに賛同した。当時、癌の病名告知はアメリカでは一般的になっていたが、日本では殆どされていなかった。“院内政治家”として敵も多かった部長と、慶應閥の中に1人だけ入り込んだ東大卒の若僧のコンビは、その意味でも突出していた。「先生、『癌だ』って患者に言うんだってね」と何度物珍しげに言われたことか。「『時代は告知に流れつつあった』とは言いながら、病院のバックアップも無しに蛮勇を振って一歩を踏み出した部長は偉かった」と、今にして思う。院内から揶揄の声はあったものの、表立っての批判は無く、且つ部長は看護部を抱き込んで、そういう患者のフォローやケアの協力態勢も取り付けてしまった。とは言いながら、おっかなびっくりであった。先ずは家族に、「我々はご本人に病気のことを申し上げます」という了解を取り、それから本人に告知をする。随分渋る家族も多かった。そして本人には、いきなり「肺癌だ」とは言わない。「肺の悪性腫瘍である」と告げる。本人から「癌ですか」と訊かれたら、「そうです」と答える――というステップを踏むことにした。病名告知が一般化していたアメリカでも、「“cancer”という言葉を使うのはできるだけ少なくしろ。その単語は不必要に“死”を連想させる」という“注意”を喚起する論文が多かった時代である。




verbal abuse 01
諸君、聊か年寄り臭いが、私には隔世の感を禁じ得ない。あの当時の、「言葉を選んで慎重に」という薄氷を踏む雰囲気など、今の現場には跡形も無いようだ。当たり前のように、「貴方は手術不能の肺癌で、余命は1年程度と推定されます」という宣告がなされる。私なぞがそれに眉を顰めると、君らは意外な顔をしてこう言うのだろう。「だって先生、以前から癌の告知をやってたんでしょ? 患者に事実を知らせる為なんでしょ? 僕も本当のことを言っただけです。何が悪いんですか?」。そういう君達にはこの言葉を紹介しよう。「誹謗中傷よりも酷いことが1つある。それは真実だ」「物事は、『どういう態度でやるか』が全てである」。何れも、フランスの外交官で政治家のシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(1754~1838)の警句である。

勿論、ここで「真実を告げるな、隠せ」等と言うつもりは毛頭無い。だが、真実は真実であるからこそ“取り扱い注意”なのである。我が担当編集者のいるこの出版社は、「真実を暴き、日の下に曝し、世間一般での正義に抵抗する」という反骨精神を掲げている……のかどうかは知らない。しかし、やっていることはそういうことだと私も思っていた。ところが、実際には「私が考えていた以上に“大人”である」と知ったのは、拙著『衆愚の病理』を上梓した時である。この本は、今も続いている本誌のこの連載を纏めたものであるが、その中で、私は鳩山由紀夫元首相について「精神を病んでいる」と、具体的な診断名をつけて繰り返し指摘した。本になる時に、G編集長が「ここを削りませんか?」と提案してきた。理由は2つ。1つは、何回もそれを書いているので、同じ本の中での繰り返しは諄くなる。そしてもう1つは、「ここまで書くと訴えられる可能性があります。毎月出てくる雑誌と違って、本は後に残りますからね。そして、訴えられたら負けます。医者であるだけに、余計に悪質であると判断されかねない」。私はこの申し出に戸惑った。「だってGさん、鳩山元首相が正気だと思う? どう見たって病気でしょ、あれ。私は指摘してあげて『お大事に』と言っているのだから、親切のつもりだけれど」。G編集長はこう答えた。「勿論、真面でないのは明らかですが、この際、それは問題ではありません」。「ははあ、なるほど」と思ったね。向こうからすれば、本当であるだけに余計に目の敵になるという訳だ。タレーランの指摘の通りである。私は、「真実の“指摘”は、誹謗中傷以上に喧嘩の覚悟がいる」ということを学んだ。鳩山さんと違って、私は世の為人の為の仕事をしなければならない身であり、ビョーキの人間と裁判をしている暇は無い。G編集長の忠告を受け入れて表現を変更し、トラブルを防ぐことにした。尤も、我が担当編集者は「何だ、相手が訴えてくれれば売り上げが伸びたのに」等と残念がっていたが。

verbal abuse 02
ところで、考えてみればタレーランに教えてもらわなくても、「本当のことは慎重に」という感覚は寧ろ日本人のほうが鋭いのではないだろうか? 諸君も、寅さんの「それを言っちゃあおしまいよ」というセリフを聞いたことがあるよな? これは、皆が知らないことの暴露を指しているのではない。“それ”は、皆が知っていることなのである。欧米人は、これを聞くとわけがわからなくなるらしい。「だって、皆が知っていることなんだろ? だったら、どうして『それを言ってはいけない』ということになるんだ?」。「どうしてか?」に理路整然と答えられなくても、我々には何となく「それを言っちゃあおしまい」の心持ちがわかる。そして、「皆が知っている“それ”を指摘するにはデリカシーが要る」ということが理解できない人間は、“空気を読めない奴”と見做されるのである。以前は、「世の中はやっぱりカネだよね」という“真理”を喝破するのに、心理的抵抗は少なかったように思う。それは、「カネで全ては決まらない。決まる筈はない」という建前が残っていて、そのことが多数派の総意であったからではないか。ドラマも映画も、「貧しくも心清く、美しい人々が幸福になる」というのが相場であった。だからこそ、「そんなこと言っても所診はカネだ」という主張が却って新鮮であったし、“確信犯的敵役”として受け入れられる余地があった。私は世間に疎いので、景気がどうの格差がどうのということについてはよくわからない。しかし、何となく最近は「世の中はカネだ」というセリフを大っぴらに聞くことが少なくなったような感じがしている。若しこの感覚が正しければ、実際の数字は兎も角として、また「他の国と比べて」ということは措いて、「“格差”が社会の負担として実感されているのではないか?」と思う。これが例えば、国を挙げて“拝金主義”に驀進している今の中国で「世の中はカネだ」等と公言しようものなら、白け渡って酒落にもならないだろう。述べられている命題は万古不易の真理であっても、それが受け入れられるかどうかは時と場合に依る。あまりに自明と思われる時には心理的に寧ろ拒否される、というより皆聞きたくないのである。まさに、「それを言っちゃあおしまいよ」である。

これは拙著『希望という名の絶望』に書いた話だが、レジデントに病名告知と病状説明の“練習”として、肺癌の女性患者への面談をやらせたことがある。その患者さんは既に十分に病気のことを理解していたので、「若い医者の少々未熟な説明でも大丈夫だろう」と考えていたのだが、甘かった。病名の確認・病態の確認・治療方針の確認(つまり、転移があって治癒は望めないこと、一定期間の延命が治療の目的であること)を、教科書通り「いいですね?」「おわかりですね?」と念を押しながら話していくレジデントに、患者さんはわっと泣き出した。「私はわかっている。わかっていて治療を受ける気になっているのに、どうしてそんな重たいことを改めて言われなければならないのだ!」。彼女が泣いたのは初めてで、私もちょっとびっくりした。私が「癌だ」と告知した時はあれほどしっかりしていたのに。しかし、最初に「癌だ」「治らない」と言われた時は真っ白になる。そこから徐々に病名を受け入れ、前向きになろうとする。何とか気持ちを立て直したところで、傷に塩を塗り込むようなことを言われるのは、さぞ辛かったのだろう。私が悪かった。“わかっている”人に説明するのは、“わかっていない”相手に話すのよりも難しいことがあるのだ。

verbal abuse 03
カナダのダニエル・レイソンという先生がこういう話を紹介している(Rayson, D. J Clin Oncol 2013; 31: 4371)。再発癌の化学療法を受けている患者を回診した後で、レジデントがこう報告した。「この患者は『気分上々』と言っています。ずっとニコニコしています。明らかに否認の状態にあります」。「お前何様?」という上から目線のトーンでのその報告にカチンときたレイソン先生は、レジデントに尋ねる。「否認ってどういうこと?」「現実と向き合っていません。ご自分の病状を理解しているとは思えません」。確かに、この患者は再発し、かなり厳しい状態で治療を受けている。“否認”とは、「自分が死ぬなんてことがある筈がない」と決めつけ、否定し、その嫌なことから目を背け続ける――ということであるから、それに該当しないとは言えない。しかし……。レイソン先生はその晩、別の癌患者のところへ行った。その患者とは6年間の付き合いで、ずっと治療を続けてきたが、徐々に肝転移が悪化し、遂には肝不全の状態になっていた。この患者は、ずっとご主人と一緒だった。そして患者とご主人は、治療が上手くいかないとなったら、いつも次の治療についてのことをレイソン先生から引き出し、そちらに向かうのだった。「もう止めたほうがよい」と先生が言い出そうとする時には上手く話をはぐらかし、やはり次の治療に繋げてしまう。「ターミナルになったらどうする」「愈々の時の蘇生術について」なんて話は一切できなかった。2人とも、ずっと“否認の状態”にあった。しかし、その日は違った。ご主人はレイソン先生の腕を掴み、哀願したそうだ。「うちのかみさんは死ぬんだろ? かみさんもわかっている。動かさないでくれ。余所の(ホスピス)病棟なんかに移さないでくれ。もうあと数日だ。誰もそう言わないが、俺にはわかる。かみさんもわかっている。あと数日の為に、転院させたりさせないでくれ。希望を奪わないでくれ」

諸君、進行癌の患者に限らず、我々だっていつかは必ず死ぬのだ。しかし、諸君も私もそれに目を背け、そのことを忘れて日々の生活を送っている。というより、そんな暗闇の深淵を覗き込みながらの日常生活なんてできないのである。「disce ut semper victurus, vive ut cras moriturus(永遠に生きるように学べ、明日死ぬかのように生きよ)」という格言はガンジーの言葉ともされているが、元がラテン語なのだからガンジーもどこかから引用したのだろう。少なくとも、前段の学ぶ態度を説く部分からすると、死ぬことを棚上げしていないと勉強もできないことになる。だから、死が迫った患者がそのことを忘れて、仕事に生活に没頭するのは当然ではないだろうか。それは、“潰れてしまわない”為の生物の本能的な適応行動と言える。「常に死を忘れずに、且つ精神を強く持って恐怖に打ち勝て」なんて、我々は患者に要求できる筈がない。「真実に向き合え」なんて、どの口で言うか。それこそ、「お前何様?」ではないか。レイソン先生が6年間診た斯の患者は、先生が見舞ってから36時間足らずで転院せず亡くなったそうだ。その前の化学療法を受けている患者は、相変わらず微笑みながら治療を続けている。先生はこう締めくくられている。「患者には終わりが来ることがわかっている。我々も終わりが来ることがわかっている。我々は皆、生き続けていかなければならないのだ」。つまりはこういうことだ。真実は必ずしも受け入れられない。それはわかっていないからではなく、「十分にわかっているからこそ」という時もあるのだ。そこで、「どうして言ってはいけないんだ? だって本当のことじゃん」と諸君が抗議しても無意味である。ただ、「空気を読め」という叱責が返ってくるのがオチだ。だから、“真実の指摘”と“暴言”は紙一重なのである。何より証拠に、どこかの誰かが“暴言”を吐いて批判の対象になると、必ずそれを擁護する意見が出てくる。そしてそれは決まって、「あの、これこれという暴言は言い方は悪かったかも知れないが、言っている内容は事実である」というものである。そう、これは今までの議論の延長線上でいくと、「だったら本当な分だけ尚悪い」という結論になるだけである。

verbal abuse 04
では、“本当のこと”をちゃんと言う為にはどうしたらいいのだろう? ソチオリンピックのフィギュアスケートで浅田真央選手がジャンプに失敗した後、森喜朗元首相は「あの子、大事な時には必ず転ぶんですよね」とコメントして、満天下の顰蹙を買った。肩を持つ訳ではないが、森さんに悪気が無いのは明らかである。あの人も浅田選手を応援していて、残念がって出たセリフであろう。そんなことはわかってはいても、思い当たる節があるだけに(つまり、“本当のこと”であるからこそ)、日本中が激昂したのである。こういう“暴言”を避ける為にはどうしたらいいか? 先ず、“思わずポロッと言ってしまう”閾値の低さを戒め、タイミングを見計らってコメントするようにせねばならない。練ってから発言すれば、“暴言”も“率直な発言”になるのである。「お前が言うな」って? 私のような“ただのオヤジ”と、一国の元宰相が同じであっていい筈はないだろう。もう1つは、キャラクターの問題であろう。同じことを言っても、“可愛気がある”かどうかで印象はがらっと変わる。仮に、人気絶頂期の小泉元首相が同じことを言ったとしたら、皆苦笑いして許すという雰囲気になったかもしれない。森さんとしては不本意で残念であろうが、世の中は抑々不公平で不条理なものなのだ。ここは諦めてもらうしか仕方なかろう。だから、諸君も自分のキャラをよく把握しておく必要がある。然もなくば、「何を言っても『それを言っちゃあおしまいよ』で終わり」になりかねないぞ。


里見清一(さとみ・せいいち) 本名は國頭英夫(くにとう・ひでお)。臨床医・日本赤十字社医療センター化学療法科部長。1961年、鳥取県生まれ。東京大学医学部卒業。国立がんセンター中央病院内科等を経て現職。日本癌学会・日本臨床腫瘍学会・日本肺癌学会評議員。専門は呼吸器内科学・臨床腫瘍学。著書に『衆愚の病理』『見送ル』『医師の一分』等。


キャプチャ  2015年3月号掲載


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