【暴言の構造】(下) 言論崩壊を防ぐもの――実は“物書き”の文章は怪しいもの…それが読むに堪える代物に仕立てられるのは、プロの仕事が介在するからだ

何を血迷ったか、私の書いたものを入学試験に出す大学があった。昨年、中部地区の私立D大学というところから、拙著『衆愚の病理』を「国語の入試問題に使いました」という連絡を貰った。後日、問題を送ってきてくれたので「物は試し」と取り組んでみたが、中々難しい。特に、「筆者はなぜそう考えているか」とか「本文の趣旨と合致するものを選べ」とかいうものに迷うのである。因みに、“正答”はついていなかった。高校生の娘にも見せて「これってこっちだよなあ?」と聞くのだが、「違うよ、こちらのほうでしょ?」等と言われて考え込む。「そうかなあ? だけど待てよ、筆者って俺じゃないか。その“考え”が、『娘のほうが正しい』なんてことがあるのか?」。遂には、「ええい、大体こいつの書いていることはわけがわからん!」と叫んでしまう始末である。受験生には申し訳無いが、こんな問題で苦しむのは私のせいじゃないからね(そうか?)。その中で一番ショックだったのは漢字の問題で、「……のゴジセイになった」というものである。私はこれを覚えている。最初、本誌編集部に送った原稿には“御時勢”と書いていて、校閲さんから「“御時世”の誤りです」と指摘を受け、「そうだっけ?」と思った箇所だ。D大学は中部地区でも偏差値がかなり低いほうのようだが、これでは嘗ての受験秀才の私は、最早そういうところ(失礼!)にも入れないということになる。それ以来、私を見る娘の目が冷たいのは気のせいだろうか?

そんなことはどうでもいいが、斯くの如く、物書きの文章というのは怪しいのである。多分、私だけが例外的に酷いということではあるまい(コラ、娘! 何だその疑いの眼は!)。それをちゃんと意味の通じる、読むに堪える代物に仕立てるのがプロの仕事で、これは决定的に重要である。これ無くして、言論の自由は無い。なぜなら、それ無しに出てくる“言論”は“便所の落書き”という指摘にもある通り、抑々“言論”ではないからである。そういうことで、今回は出版文化を取り上げる。前回の続きとして、「それを防ぐ為にはどうしたらよいか?」の答えがこれである。先日、本誌2月号で『“出版文化”こそ国の根幹である』という特集を組んでいたが、「このフレーズは誇張ではない」と私も思う。




verbal abuse 05
世の中に『ブログ』とかをやっている人がどのくらいいるのか私は知らないが、「よくもまあ、あんな怖いことに手を染めているな」と思う。だって、編集も校正も無いんだろ? それでしょっちゅう言葉尻を捉えられたり、内容を非難されたりして“炎上”――というような話が出ているではないか。あれって“袋叩き”ということだよな? どこかの県会議員で、病院の対応に腹を立てて受付嬢に食ってかかり、揚げ句の果てには「会計をせずに帰った」と自慢気にブログに書いた人がいた。世の集中砲火を浴びて自殺してしまったらしい。この人がどんなに顰蹙を買う行動をしていても、ブログを書いてさえいなければ死ぬことはなかったのに。……こんな例は極端だとしよう。しかし、書くほうが確信犯として、その袋叩きにしようという連中と対決し、相手を論破・撃退するつもりであるのならまだしも、圧倒的多数は「配慮が足りませんでした」「表現が不適切でした」という言い訳と共に、ただ只管陳謝しているではないか。精神衛生上、さぞ悪いことだろう。では、どうしてそういう平謝りの羽目になるかというと、殆どは言い方の間違いとか事実関係の勘違いがある為である。そんなの、私の書くものにも山のようにある筈なのに案外出てこないのは、私が賢くて慎重であるからという筈がない。一にかかって、この出版社の校閲さんのおかげである。もっと一般的な言い方をすると、プロである第三者のチェックということになるのだろうが、ここでは特定して話を進める。読者の皆さんは校閲さんの仕事など馴染みが薄いであろうが、誤字脱字は素より、文章の繋がり、また例えば「『……ということ』という表現が続くようなら、一部を書き換えたほうがよい」等の字句の使い方まで、一々チェックしてくれる。所謂“不適切用語”の指摘もそうだが、これは別に「変えろ」と言っているのではなくて、「大丈夫か?」という念押しで、こちらが「このままでいってほしい」と言えば通してくれる(因みに、医学系の出版社には「表現を変えろ」と煩いところも多い)。

そんなのはまだ序の口で、書いた内容も事実関係に照らして正しいかどうか、許容範囲内に入るのか等を指摘してくれる。私が一度焦ったのは、「最近亡くなった数学者のA先生(原文では実名)が……」とうっかり書いてしまったのを、「亡くなった数学者は別人のM先生で、A先生ではありません」と訂正されたことである。大恥を掻くでは済まされないところだった。うろ覚えで書く私が悪かったにしても、そういう勘違いは誰しもよくあるものなのだ(だから娘よ! またそこで疑わしそうに見るなって!)。もっと凄いのは、私は時々英語の医学論文を引用するが、その原典を資料としてチェックし、引用が正しいかどうかを確認しているのだ! 「この意味でもOK」とか注釈がつけられているのを見ると、「あんたたちは一体何学部を出てるんだ?」と空恐ろしくさえなる。我々は何の為に物を書くのか? 人に自分の考えを伝える、わかってもらう為であろう。それがちょっとしたことで以て、言わんとすることが全く通じなくなり、只々バッシングの嵐に曝されるなんて、勿体無いこと夥しい。仮に、わざと喧嘩を吹っかけて論争を巻き起こそうという時があるとしても、先ずは自分の言い分を理解してもらわないといけない。その意図することと全く違うところで“炎上”してしまったら、喧嘩も何も相手に通じずに終わってしまうではないか。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。こう書くと、恐らく多くの読者が第一に思い浮かべるのが、大阪市の橋下徹市長であろう。あの人は喧嘩ばっかりやっているようであるが、「扨てどうして、何のことで喧嘩しているのか?」と聞かれると、今一よくわからない。お互いに罵声が飛び交っているが、抑々は何の論争だったのか? いや、というか“論争”だったっけ?

まだ多少とも何の話だったか記憶に残る“慰安婦発言”であるが、彼が当初主張した内容は、そこまでの大間違いではなかった筈である。と言って語弊があれば、橋下市長があの時主張しようとた(筈の)ことを言っている人は他にも沢山いる。少なくとも、一方の論陣を張るくらいはできただろう。ところが、実際には兎に角「下品である」という印象を与えただけで、後はただ悪口の応酬のようになってしまった。ここでその内容を下手に再録しようものなら、「それは違う」等とこっちが“炎上”する危険があるので止めるが、何だか売春とか風俗とか女郎買いが云々というような下世話な話になってしまった感じがする。私が橋下市長なら、論争を吹っかけたつもりが不発に終わり、ただの口喧嘩みたいになってしまって残念に思うところであるが、あまりそういった様子も見えないのは、あの人が“口喧嘩の名手”でもあるからだろうか。話の内容からして非常に微妙なものなのだから、それを扱う場合は極慎重にすべきであるのに、あれでは問題提起にもならない。前回も引用したタレーランの「物事は、『どういう態度でやるか』が全てである』という警句は誠に尤もで、事実関係を云々する以前に、「品格と知性の欠落」と判断されただけのようである。とはいえ、私もあまり偉そうなことは言えない。拙著『医師の一分』に関して、ある週刊誌のインタビューを受けたが、できあがった記事を見て暗然とした。いつもの乱暴な口調そのままで書かれていて、如何にもガラが悪い。これも内容以前の問題である。そういえば、あの記者は掲載する記事をチェックさせてくれなかった。「“そのまま”だとこんなものになるのか……」と嘆くと、我が担当編集者は「俺も同じ目に遭っている。全くのヤクザ口調で書かれて、誤解される」と言っていた。いや、彼の場合はそのまんまだから、“誤解”には当たらないと思うけど。それは兎も角、そうすると問題(若しくは解決法)は橋下市長や私の品格そのものというより、内容の提示プロセスにあるのではないだろうか? だから、なぜか橋下さんを買っている東京都の石原慎太郎元知事が、「橋下くんはツイッターなんかやらずに論文を書けばいいのに」と忠告してくれるのである。流石に石原さんは作家だけあって、その辺はわかっているのだろう。“校関と編集あっての言論”ということを知っているに違いない。

verbal abuse 06
私は「ブログは怖い」と書いたが、ツイッターなんてもっと怖いだろう。本来、短いものほど準備しなければいけないというのは、アメリカ第28代大統領のウッドロウ・ウィルソンが、「10分間のスピーチをするなら、1週間の準備期間が要る。15分間のスピーチなら3日、30分なら2日でいい。1時間のスピーチなら、今直ぐにでもできる」と言ったとかいう話にも現れている。しかし、ツイッターするのに沈黙思考してやる人はそんなにいないだろう。どうして、皆自分の“知性の閃き”みたいなものにそんなに自信があるのか、私には理解できない。第一、『ツイッター』とは“呟き”であるそうだ。そうすると、あれは不特定多数に向かって呟いているのか? 公の場で独り言を言っている人間なんて、アブナいに決まってるではないか。よく、その辺をぶつぶつ弦きながら歩いているのがいるが、少なくとも私は避けて歩く。それなのにまた、そういう“呟き”(というか独り言)に対して返事するのがいるのも驚きで、とても真面とは思えない。私も思わず独り言が出ることはあるだろうが、それを脇で聞いてた奴から「いいね!」なんて言われた日には、気味が悪くて仕方が無い。え? 「『いいね!』はフェイスブックで、ツイッターではありません」だって? どうせ大差ないだろ、そんなの。元に戻る。世の中の“暴言”の殆どは、内容に原因があって“暴言”とされるのではない。前回見た通り、その多くは実は“本当のこと”の指摘なのである。提示の仕方が全てを決める。またしても本筋から外れるが、よく週刊誌で『天下の暴論』という類の特集が組まれる。私は編集者ではないが、「あれを組むのはラクだろうな」と察しがつく。“事実”を、建前等のオブラートを排除してそのまま提示すればよい。あれが成立するのは、読者の側が元々出される“事実”に理解があって、「その通りだ」と思って読むから、オブラートが不要であるに過ぎない。昨日のテレビドラマの話をするのに、お互いに見ていれば直ぐ話が通じるが、相手が見ていないと中々噛み合わないというのと同じ原理である。そうでない状況で(つまり、一般的な言論の提示において)、思っていることをそのまま練らずに出して理解を得られるというような人は殆どいない。必ず誤解される。養老孟司先生は、聞き書きの原稿を“面倒臭がって”自分でチェックなさらないそうである。「誤解をされても構わないと思っておられるから」らしい。しかし、養老先生は別格であって、一般人が「相手にわからなくても構わない」とばかりに独り言を弦き続けるのは、まんま分裂症ではないか。

私は「喧嘩をするな」「皆仲良く」なんて主張したいのではない。喧嘩上等であり、やればいい。但し、やるのなら「お前の母ちゃんデベソ」レベルの言い合いをしても仕方が無い。飽く迄も自分の主張を理解させて、相手の言い分を理解して、その上での喧嘩でなくてはならない。私が知っているこの出版社の人たちは、我が担当編集者を筆頭にそういう喧嘩をやっていた。もっと言えば、殺し合いをやるのでも、相手の主張と自分の立場をお互いに十分に理解して、どうしても並び立たないから“決闘”で決着をつけるのなら、まあ仕方が無いのかも知れない。だが、現実はしかし「顔が気に入らない」「言い方が気に入らない」「生理的に受け入れられない」というような理由から、個人の争いや国同士の戦争になるようで、そんなのはやはり“野蛮人”のすることだろう。立川志の輔師匠に依ると、「一番難しいのは客を笑わせること。その次が泣かせることで、最も簡単なのは怒らせること」だという(その割に、志の輔さんの師匠である雲黒斎家元は客を怒らせていたけどな)。しかし、ただ表面上のことで怒らせて物別れになってはそこで終わりだが、その昔、中国の縦横家は先ず相手を怒らせて、そこから相手を議論に引き摺り込むという高等技術を用いた。さぞかし周到な準備をしてたことだろう。これぞ文明人である。だから、「インターネットに出てくる“事実”があれば、新聞も雑誌も要らない。出版社も無くてもいい」という議論は“文明の放棄”であり、“野蛮への回帰”である。プロの第三者のチェックというのは、人間が人間性を保持する上で必要不可欠で、それは権力に依る検閲等ということとは根本的に異なる。この違いがわからない人には、何を言っても無駄であろうが。

verbal abuse 07
私自身、医学論文を書いたり読んだりしているが、“真面な”雑誌には必ず専門家である第三者に依る査読(peer review)のシステムがある。それが無い雑誌に出た論文は、内容以前にその信頼性を疑われる。査読では、内容も表現もかなり厳しくチェックされる。「論文を書いて世に出そう」という著者は、一々それに回答しなければいけない。中には的外れな指摘もあるが、それでも相手の誤解を解くように説明しなければならない。実に面倒である。しかし、それを通らなければ、どんなに画期的な内容のものでも“科学的な論文”と見做されない。科学者も言論人も同じ人間であるのだから、一般の言論も同じである。改めて想像してみよう。出版社が消えたらどうなるか? より具体的には、校閲さんがいなくなったらどうなるのか? 言論はフィルタリング機能を喪失し、正誤不明の“便所の落書き”ばかりがこの世に溢れる。それに対する“反論”も然り。大学時代に、トイレの落書きに対してまた書き込みをしてるのを見かけたが、要するにあのレベルである。ぶつぶつ呟くキチガイの独り言に、別のアブナい奴が因縁をつける。よくわからない口論になる。殴り合いになる――。それが自由なのか? ただの混乱ではないか。「無政府状態は圧政に劣る」と曽野綾子さんも指摘している。そうすると、カオスの次に出てくるのは“皆が待ち望んだ独裁”か? そういうシナリオはよく聞く話であるが、その独裁者の候補に擬せられている1人が橋下市長であるのも、何となく暗示的である。


里見清一(さとみ・せいいち) 本名は國頭英夫(くにとう・ひでお)。臨床医・日本赤十字社医療センター化学療法科部長。1961年、鳥取県生まれ。東京大学医学部卒業。国立がんセンター中央病院内科等を経て現職。日本癌学会・日本臨床腫瘍学会・日本肺癌学会評議員。専門は呼吸器内科学・臨床腫瘍学。著書に『衆愚の病理』『見送ル』『医師の一分』等。


キャプチャ  2015年4月号掲載


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