【教育格差の正体】(03) 教育費について我々は何を考えるべきか――教育費負担の問題は社会の在り方の選択、学力検査の順位だけで政策が動くようでは話にならない

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所謂“格差問題”が社会的に認知されるようになり、教育の役割が問い直されている。一般に、教育は社会全体の生産性を高め、民主主義的価値観を定着させ、出自に囚われない業績主義を促進させると見做される。一方で、教育は成績学歴に基づき、階層的な格差構造を前提とした社会で地位の配分を行う。つまり、教育が格差そのものを無くす訳ではない。そうした地位の配分を正当化する為にも、教育機会の平等・教育を巡る競争の公平性は常に議論の的となる。日本の教育費の家計負担は非常に重い。日本政府の財政支出に着目すると、教育費への配分は国際的に(経済規模――つまりGDP基準で見ても、また財政支出総額の割合で見ても)最低水準である。このことは、教育の専門家の間ではよく知られている事実である。但し、日本は少子化が進み、全人口に占める子供の割合が小さい。だからそれは当然の結果で、「生徒1人当たりに換算すればOECD諸国平均と遜色無い水準だ」という反論が財務省からなされたことがある。図1は、生徒1人当たりの公教育費を物価水準の違いを考慮しつつドルに換算したもので、日本の公教育費は若干OECD平均を上回る。尚、図の注釈にあるように、この公教育は人件費や教材を含む教育機関に対する支出を指し、学校外教育・お稽古事・参考書・給食や学校の寮費以外の生活費は除外されている。図は省略するが、内訳を見ると、初等・中等教育(小中高)ではOECD平均を上回るものの、高等教育(短大・大学)ではOECD平均9221ドルに対し、日本は6384ドル。就学前教育(3歳以上の幼稚園・保育所・認定こども園)に至っては、OECD平均6043ドルに対し日本は2849ドルに過ぎない(数値は2011年)。教育費の総額に占める公的支出の割合では、日本はデータのあるOECD諸国の中で少ないほうから4位で7割未満である。それは就学前教育が半分以下(OECD最低)、高等教育が3分の1程度(下から4位)に過ぎないことに起因している。つまり、小学校から高校までは別として、幼児教育と高等教育は著しく家計に依存しているのが現状である。

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図2は、戦後の授業料の推移を示したグラフである。相対的に公立高校の授業料は低く抑えられているが、それ以外は1970年代半ばから急上昇している。但し、これは物価水準の変化が考慮されていない。負担の大きさを理解する目安として、給与所得者の平均給与に対する大学授業料の割合を示そう(図3)。この平均給与は国税庁発表の1年を通じた勤続者のもので、短期雇用は含まず、男女差や年齢・企業規模は考慮していない。指標としては粗いが、負担の大きさの1つの目安にはなる。これを見ると、1970年代前半に一旦曲線は低下するが、それ以降は右肩上がりで、現在の国立大学は高度成長期の私立大学の負担水準を超えている。家計負担がどのくらいなのかを正確に計算するには、世帯人員数や所得水準等を考慮する必要があるが、満足できるデータを得るのは難しい。これも目安に過ぎないが、総務省の『家計調査』における世帯人員4人の勤労者世帯に着目すると、年平均の教育費は9%前後で推移しており、その内の4分の1程度が補習教育(塾等)に充てられている。但し、これも世帯人員4人というだけで、教育費の支払いの無い世帯も含まれるから、実際の負担額は更に多くなる筈である。国際比較の点ではどうか。図4はILO(国際労働機関)のデータで、世帯規模・構成員や所得水準を一切考慮していない平均値なので、実質的な負担より小さな数値が出ていると思われる。データは稍古いのだが、日本については当時と大きな変化は無い。帯グラフの濃い黒の部分が教育費で、日本は韓国の次に黒の部分が多い。日本社会は年齢規範が根強く、多くの場合、通学するのは子供・若年層に限定される。つまり、特定の年齢の子供を抱えた世帯のみが一気に教育費を自ら負担する。教育費負担の重いことがわかっており、且つ給与の上昇が望めないとなれば、子供を抱える(或いは子供を産もうとする)世帯はせっせと貯蓄に励まざるを得ない。教育に限らず老後の不安も大きいので、基本的に個人は貯蓄を増やそうとする。脆弱な教育・社会保障システムの下では自己防衛せざるを得ないからだ。斯くして政府への信頼は失われ、そして信頼を失った政府は国民負担増の理解を得られない――という悪循環に陥る。




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重要なのは、教育の機会が平等に齎されているか否かである。しかし、どの社会でも高等教育への進学機会に階層間格差があるということは、社会学的には常識である。「長期的には教育機会の不平等は逓減傾向にあり、それには教育が一定程度貢献しているが、依然格差は残っている」というのが近年の標準的な理解である。但し、出身家庭の高等教育進学決定時の所得水準と、進学の有無の情報を網羅した長期時系列データは存在しない為、「最近、頓に家庭の所得水準の進学行動への影響力が強まったのでは?」という仮説を検証するのは容易でない。社会階層研究では、不平等・格差を示す指標としてオッズ比(Odds Rato・以下『OR』と表記)が用いられる(ここから稍専門的になるので、難しいと感じられる方は『★』まで読み飛ばして構わない)。仮に社会を上層と下層に分け、上層の大学進学率を50%とすると、非進学者も50%となり、上層の進学対非進学の比(オッズ)は50:50で1となる。一方、下層の進学率が20%だとすると非進学者は80%であり、その比は20:80で0.25である。ORとはこの2つの比の比(1:0.25)で、この場合は4になる。つまり、上層は下層より4倍進学する傾向があることを意味する。1955年から10年置きに実施されている『社会階層と社会移動に関する調査(SSM調査)』のデータから、高等教育進学の有無のORの変化を示したのが図5と図6である(※1)。“父学歴”は父が高等教育修了か否かの、“父職”は父が専門職・管理職か否か(※2)の、回答者の高等教育進学・非進学のORを示す。図6の女性については“母学歴”についても計算した。2つの図は、団塊世代を含む1946~1955年生まれのORを基準とした変化を示す。例えば、図5の父学歴のOR(=7.35)は基準となる1946~1955年生まれのORで、父学歴が高等教育の者はそうでない者に対し、高等教育に進学する傾向が7.35倍であること、図はその基準世代のORとの比の自然対数である。例えば、図5の父学歴で1906~1925年生まれは1.1程度である。これは、1946~1955年生まれに対しORが約3倍(3の自然対数は約1.10)である――つまり、父学歴が高等教育の者の高等教育進学傾向は22倍(7.35×3≒22)であることを示す。

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父学歴を見ると、1906~1935年生まれの数値は正で統計的に有意であり、1946~1955年生まれより機会の格差が大きかったと判定される。父職についても、1916~1935年生まれは有意に大きい。1936年以降の世代は戦後の進学率上昇の恩恵を受けていると考えられ、それ以前に比して機械の不平等は縮小している(男性1905年・女性1935年以前生まれは、高等教育進学者や親学歴が高等教育、父職が専門・管理職層の者が非常に稀で誤差が大きく、統計的にも有意でない)。但し、不平等自体が無くなった訳ではない。若年世代では格差が縮小しているように見えるが、(1966~1975年生まれの父職のORを除き)統計的には有意ではない。つまり、若年世代の進学機会が終戦直後生まれより平等になったと結論づけることはできない。図6の女性についてだが、1916~1935年生まれの母学歴の数値は大きいものの、男性と同じ理由で統計的に有意ではなく、全体を通しても有意な変化は無い。父学歴については1936~1945年生まれは正に、1976~1985年生まれで負に有意、父職は1966年以降生まれで負に有意である。つまり、「戦中生まれ世代では父学歴に依る格差が大きかったが、戦後は格差は縮小傾向にある」と結論づけられる。尚、ここで言う“高等教育”には短大・高専含まれ、専門学校は含まれない。高等教育を4年制大学以上に限定しても、結論の大筋は変わらない。纏めると、女性については不平等の縮小傾向が(指標に依って)観察されるが、格差自体が消えた訳ではない。男性については、「終戦直後生まれの不平等構造が、若年世代でも安定して存在している」と言える。【★】

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日本の社会保障政策の維持の上で避けて通れないのが、少子化の問題である。少子化の原因は、女性の就業と子育てを両立する環境や制度の未整備・性別役割分業的な価値観の根強さ等の多くの要因が複雑に絡み合っており、単一の原因に求めるのは乱暴だが、高過ぎる教育費が少子化の1つの要因となっていることは否定できないだろう。図7は、東京大学社会科学研究所の実施している若年層(1966~1986年生まれ)のパネル調査(※3)に基づき、女性が最初に子供を産むタイミングを推計したものである。曲線は各年齢における子供を産んだことのない女性の割合を示す。調査の特性から、曲線は政府統計より高めに(タイミングが遅れ、且つ出産をしない方向に)出ているようだが、大体の傾向は把握できる。高卒女性の曲線が50%を切るのは30歳なので、30歳時点で高卒女性の半分は子供を産んだことになる。大卒女性の場合、30歳で出産を経験しているのは4分の1程度である。ただ、個々の数値よりも学歴に依る明確な差があることに注目してほしい。一般的に、結婚相手は同等の学歴の者を選ぶ傾向があり(『学歴同類婚』と呼ばれ、一定の研究蓄積がある)、高学歴女性は高学歴男性と結婚する可能性が高い。そして、学歴と職業的地位や所得階層も当然相関がある。若し、子供1人当たりに費やせる教育費が一定ならば、高所得層ほど多くの子を育てる余裕がある筈である。しかし、現実には高学歴女性ほど結婚や出産のタイミングが遅い。第2子についても同様の傾向が観察されるので、平均すると高学歴女性ほど出産数も減る。そうなると、高学歴層は高所得層が多いから、より多くの経済的資源を子供1人に注げる。逆に低学歴層は出産年齢が若く、職業階層の点だけではなく年齢の点でも所得が低くなり易い。幼稚園・保育所ですら私費に大きく依存しているのだから、お稽古事等の幼児教育については言うまでもない。現状では、就学前教育の段階で所得階層に依る著しい質・量の格差が生じかねない。“小さな政府”と目されるアメリカでも、『へッドスタート』という就学前の児童を抱えた低所得層を支援する制度があり、相当な連邦予算が注ぎ込まれている。効果の大きさや持続性についての議論はあるが、一定の成果があるのも事実である。それに対して、日本の子育て支援政策は極めて不十分である。

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進路選択は個人の自由だが、授業料が非常に高い状況で家庭の経済的事情から進学を断念した場合、「その“断念”が自己決定であっても、即“個人の自由”とか“自己責任の結果”と見做すのは理不尽だ」という感覚は理解できるだろうし、日本社会でも広く共有されていた価値観であろう。ところが、現在の日本の財政状況では、支援する際の財源を議論することは避けられない。教育や社会保障・福祉は社会的に(租税負担や社会保障負担という形で)原資を拠出し合い、必要な人にサービスを提供するという支え合いの性質を持つ。ある時は負担と感じられても、いつか自分もそのサービスを受ける時が来るかもしれない。謂わば相互扶助の精神であり、再分配の役割を政府が担っているに過ぎない。どんな社会でも、教育・福祉のニーズ自体が消える訳ではない。しかし、公費は打ち出の小槌のように湧き出る訳ではない。公教育費の問題は結局、「皆が負担し合う社会にするのか」「特定の個人(受益者)が負担すべきか」という社会の在り方の選択なのだ。勿論、公共的意義や必要性を前提に、市場(民間)に依る供給に委ねると問題が起きる“市場の失敗”を政府が埋め合わせるという機能も、考慮する必要がある。財政赤字が膨大で、政府への信頼も薄い日本では、政府が税の使用に対する説明責任を果たさなければ、現実に国民が納得して負担増に応じるとは思えない。教育は聖域とされがちだが、効率性や費用対効果を一定程度社会的に示す努力をせざるを得ない。一方で、日本の学校は知育のみに特化してきた訳ではなく、部活動や行事等の様々な特別活動に教育的意義を見出す人も少なくない。「教育の効果や意義が学業成績のみに還元できない」とか、「効果が直ぐに観察される訳ではない」というのも一面の真理である。効率性を強調し過ぎると、学校の多様な機能については学業成績ほど明確な数値として実証し難いので、軽視されがちになる。筆者には「それでいいのか?」という躊躇もある。勿論、数値データを示すのは重要だが、数値に表れない学校教育の公的意義は存在する筈だし、そのことを教育関係者は社会に訴えるべきである。政策・実証側も、目に見えるデータや根拠を示す努力を怠ってはならないが、我々も数的評価に限界があることを認識する必要がある。

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就学前教育については、抑々公的な支援自体が不足している。高等教育については、低所得層への支援が手薄である。『奨学金(scholarship)』は国際的には給付のものを指すのが普通だが、日本には給付の奨学金は殆ど無く、事実上の“教育ローン”である。ローンの場合、将来の返済を懸念して二の足を踏み、進学を断念させることもある。「所得格差に依り、進学機会の不等がある社会を放置していいのか」という我々の社会観が問われている。若し、公的な負担増を行うのが難しければ、寄付を募って基金化して運用する仕組みを整備することも考えられる。そうして社会的に支援を受け進学した学生は、成果を社会的に還元しようという意欲も湧くだろう。但し、経済的な支援策が充実しても、恐らく進学機会の格差は完全には消えない。逆説的だが、支援策が充実すると、結果として生じた成績(学歴)差の原因を経済的なものに求め難くなるので、「個人の才能や努力のせいだ」という自己責任論が一層強まるだろう。しかし、成績や学歴の差は所得や才能だけで決まる訳ではない。「努力できる環境にあること自体が幸せなのかもしれない」という想像力を持つ必要がある。抑々、学校経験を始め人生の将来は偶然の条件にも左右され、不確定要素が大きい。にも関わらず、私たちはある結果の原因を認知し易い単純なものに求めがちである。現実社会がそうではないからこそ、社会的支援の仕組みが必要なのだ。高等教育に社会的意味の1つを付与するとすれば、そうした社会に対する広い視野と見識・的確な情報を基に思索し、判断できる力を養うことだろうか。情報があっても、それを読み取る知識や理解力が無ければ意味は無く、学力検査の平均値や順位だけで政策が動くようでは話にならないのである。民主主義社会では、私たち自らの判断が社会の在り方を左右する――。そうした判断のできる人間の育成に、教育は一定の貢献をしていかねばならないのである。

【注釈】
(※1) 1955年・1965年・1975年・1985年・1995年・2005年のデータを合併して使用した。但し、女性は1985年以降の調査のみに含まれる。尚、SSM調査の使用にあたり、2015年SSMデータ管理委員会の許可を得た。
(※2) 専門的な話だが、参考までに述べておくと、この“専門職・管理職”は社会階層の国際比較研究で使用される職業分類の“サービス階級”と呼ばれるものに対応している。
(※3) 本研究は、科学研究費補助金基盤研究(S)(18103003, 22223005)並びに基盤研究(C, 15K04359)の助成を受けたものである。東京大学社会科学研究所パネル調査の実施にあたっては、社会科学研究所研究資金・株式会社アウトソーシングからの奨学寄付金を受けた。パネル調査データの使用にあたっては、社会科学研究所パネル調査企画委員会の許可を得た。


中澤渉(なかざわ・わたる) 大阪大学大学院人間科学研究科准教授。1973年、埼玉県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。博士(教育学)。著書に『入試改革の社会学』(東洋館出版社)・『なぜ日本の公教育費は少ないのか』(勁草書房)等。


キャプチャ  2015年6月号掲載


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テーマ : 教育問題について考える
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