【異論のススメ】(04) 日米安保と憲法、国を守るのは誰か

政府が進めようとする安保法制に関して、集団的自衛権の合憲性が論議の的になっている。確かに、法制化となれば憲法との関係は無視できないし、また瑣末な論点まで詰める必要もあろう。しかし、現状のように粗全てが合憲か否かといった論点に集約されてしまったのでは、我々は何やら“憲法”の一語の前に佇んで、そこでフリーズしてしまったように見える。抑々、問題の発端は“憲法”よりも“防衛”にあった。冷戦以降、確かに“国際環境”は変化しており、アメリカの力は低下し、アジアは不確定要因に包まれている。集団的自衛権の部分的容認を求める安倍首相の今回の提案は、その賛否は兎も角、この状況への新たな対応を目指すものであった。だから、野党が若しもこれに反対し、「従来の平和憲法の下で対処できる」と言うのなら、その根拠を示さなければならないだろう。それを回避している限り、国会での論争は生産的なものにはならない。現在、野党のみならず多くの識者が「集団的自衛権の行使は違憲だ」と言っている。そこで、仮に違憲の可能性が高いとしよう。とすれば、問題は「では、日本の防衛はどうあるべきか?」という点に移る。若し、「日米同盟が日本の防衛上不可欠であり、集団的自衛権の行使が必要だ」と言うならば、憲法改正を提案すべきである。しかしそうではなく、若し「憲法の平和主義を堅持すべきだ」と言うのなら、改めて、「日本の防衛は如何に?」という問いの前に立たされる。というのも、戦後日本の防衛の核は、実際上アメリカ軍に依る抑止だったからである。“防衛”という面から見れば、平和憲法と日米安保体制はセットであった。「憲法平和主義の背後には、実はアメリカ軍が控えていた」という欺瞞をどう釈明するのだろうか。

昔、初めて憲法を読み、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という9条の条文を読んだ時、聊か唖然としたものだ。文字通りに読めば、確かに自衛隊は“戦力”に当たらないという他ない。若し戦力であれば、自衛隊は憲法違反である。しかし、戦力が無ければ、他国の攻撃に対してどのようにして戦うのか? 私には、自衛権そのものが否定されているようにしか思えなかったのである。流石に、今日一切の自衛権まで否定されているとは考え難く、政府解釈では通常、「個別的自衛権は行使できる」とされる。だが同時に、「戦う為の“戦力”は保持しない」と言う。依然として、不可解かつ不透明と言う他ない。扨て、憲法論議が今回のコラムの趣意ではなかった。抑々の“防衛2ということについて少し考えてみたいのである。近代国家の尤も重要な役割は、人々の生活の安全を保障すること、とりわけ外敵から国民の生命や財産を守ることである。従って、国の主権者の第一の義務は社会秩序を維持し、人々の生命や財産の安全確保にある。だからこそ、国家には巨大な公的権力が委ねられている。だから、若しも主権者が王であれば、王は国民(臣下)の生命・財産を外敵から守る義務がある。では、民主政治の下ではどうなるのか? 民主主義では国民が主権者であるから、国民が自らの手で自らの生命・財産を守る義務がある。これは、端的に言えば“国民皆兵”ということだ。民主主義とは、市民に大きな権利を与えるが、同時に厳しい義務も要求するものである。




これが民主社会の“原則”なのだ。勿論、「“原則”がそのまま“現実”である」という理由はない。現実の防衛体制は、実効性や軍事的効率性や国民感情等の多様な要因に依って決定されるであろう。しかし、民主主義を標榜する近代国家においては、国民皆兵に依る防衛こそが“原則”であることを知っておかなければならない。だからこそ、近年に至るまで多くの民主主義国では徴兵制が敷かれていたのである。従って、戦後日本のように、民主主義と平和主義の結合を自明視するほうが特異であった。それでも、「日本は“平和主義”に依って国を守ってきた」と言うとすれば、それは日米安保体制から目を背けた欺瞞という他なかろう。防衛をアメリカ軍に委ねる限り、日本は本来の意味で(或いは厳密な意味で)主権国家とは言えない。実際に、憲法9条の「国権の発動たる戦争と……を放棄する」の部分の英語(原文?)は次のようになっている。「renounce war as a soverrign right of the nation」。これを直訳すれば、「国家の主権的権利としての戦争を放棄する」となろう。日本は主権を一部、「自ら放棄する」と言っていることになる。ここでも、私に言えることは原則論だけである。それがそのまま現実になるものではない。自主防衛等といっても、現実には不可能に近いであろう。しかし、近代国家にあっては「主権者が自らの生命や財産を守る義務を持つ」という原則は、仮に現実化されないにしても、それ自体が1つの精神の在り方を示している。福沢諭吉が口を酸っぱくして述べたように、“独立”とは先ずは“独立の気風”なのである。“個”として“自立”するというその同じ精神が“国”の“自立”を求めるという。勿論、諭吉の明治とこの平成では時代は大きく違うが、国を守るという精神の基本において全く異なるとは私には思えない。

佐伯啓思(さえき・けいし) 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に『反・幸福論』(新潮新書)等。


≡朝日新聞 2015年7月3日付掲載≡


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