【日本近現代史がわかる最重要テーマ】(07) 日中戦争(1937-1945年)――蒋介石が準備した泥沼の戦争

1937年7月7日の盧溝橋事件に依り、日中戦争が始まった。それから1945年8月に日本がポツダム宣言の受諾を決めるまで、日中間の戦いは長く継続され、解決を見なかった。この戦争は従来、“侵略した日本-侵略された中国”という固定された歴史観で語られることが多い。しかし、それは中国側の“主体性”を過小評価する見方でもある。筆者は「日本と中国は近代化を目指したライバルであった」という観点から、林思雲氏との共著で『日中戦争 戦争を望んだ中国、望まなかった日本』(PHP研究所・2008年)を上梓している。林氏は、中華人民共和国側の研究資料に基づき、詳しくは知られていなかった中国側の実態を明らかにし、筆者は中国・台湾・欧米・日本側の研究資料に基づき、独ソ英米が如何に日中戦争に関与したかを論じた。本稿では中国の側の動きを中心に、日中戦争が何故ここまで長引き、解決できなかったのかを見ていきたい。

1931年の満洲事変と翌年の満洲国の成立に依り、中国国内では領土を放棄して日本との戦争を避けようとする和平派と、日本と開戦して領土を取り戻すべきという主戦派との論争が沸騰した。指導者層の多くは和平派であったが、学生を含む都市の住民たちと、国民政府の支配に服従したくない地方の軍事指導者たち(軍閥)、更には国共内戦中の中国共産党が、“抗日”(即ち、日本との即時開戦)を主張した。マスコミの多くも、即時開戦の主張に同調した。民衆に依る、日本人を対象としたテロ事件も繰り返された。和平派の代表的知識人は胡適である。胡適は1910年に18歳でアメリカに留学してプラグマティズム哲学を修め、1917年に帰国した後は北京大学の教授に就任した。中華人民共和国成立後にアメリカに亡命した後は台湾に移り、中央研究院長を務め、1962年に死去した。胡適は自身が主宰する『独立評論』の紙上で、1933年4月の時点で次のように感情的な主戦論を戒めている。「……私の理性が私の希望を許さないのである。即ち、“鍛治屋の鍛えた大刀”を引っ提げて、“荷車やラクダや人夫”という輸送手段により、運を天に任せて近代的な日本軍と戦う、という希望である」「(第1次世界大戦で)ベルギーがドイツに全国土を占領された時には、国土の回復に4年を費やした。(普仏戦争で)フランスはドイツに2つの県を割譲し、48年後に取り戻した。……1000万年の国家の生命から見れば4、5年或いは4、50年など、なにほどのことであろう」【()内は筆者注】。政治と軍事の指導者である蒋介石も満洲事変勃発後に、「……当面の国力は抗日するには十分ではない。戦争を引き起こしたならば、必ず亡国の渦にみまわれる。それゆえ恥を忍んで戦争を避けるのである」(『蒋総統集』・国防研究院、台北)と述べていたが、主戦派からの批判を逸らす為に『安内攘外』(内を安んじて外を攘う)を提起し、「共産党を滅ぼし国力を集中して抗日を実現するまでは、時間稼ぎの為に日本とは妥協する」という方針を掲げていた。




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和平派の主張は、政治と経済の状況にも起因する。中華民国国民政府(首都は南京、国旗は青天白日満地紅旗。以下『国民政府』)は、1928年6月に中華民国政府(首都は北京、国旗は5色旗。清朝崩壊後の中国を国際的に代表した。以下『北京政府』)を滅ぼし、英米の支援を背景に、矢継ぎ早に国家資本主義政策を推進していた。1928年6月に上海で経済会議を開催し、財政部長の宋子文の主導下に、関税自主・釐金(物資移動に課される国内税)の廃止・金融の安定と統一・運輸の復活・中央銀行の設立を決議した。11月には宋子文を総裁に中央銀行を設立し、12月には自主関税率を公布し、欧米諸国を手始めに1930年5月には日本との間に関税自主権を回復し、その後に釐金も廃止された。国民政府は揚子江流域の江西省・逝江省・江蘇省を地盤としたが、共産党支配地域への攻撃と並行して、半独立の状態にあった各地の軍人指導者たちを服属させた。1930年5月から開始された国民政府軍と反国民政府軍の大激戦(『中原大戦』)では、双方で30万人の死傷者が発生したが、満洲の張学良が蒋介石支持を表明して国民政府側が勝利した。国民政府が最優先したのは、孫文の定めた『国民政府建国大綱』(1924年公布。軍政・訓政・憲政の3段階を経て、最終的に民選の政府が樹立される。後年の台湾の民主化の基礎となった)に準拠する国内建設であった。そして、国民を訓練する訓政時期が開始された途端に満洲事変が勃発して満洲国が成立し、“抗日”(対日即時開戦)の叫びが全国に蔓延したのである。

日本との戦争が始まれば、経済建設と国家統一が水泡に帰すのは明らかであり、蒋介石は行政院長の汪兆銘(号は精衛)に責任を負わせる形で、1933年5月に日本と『塘沽協定』を結び、長城以南の非武装地帯の設置に依り満洲国を黙認した。更に1936年10月には、抗日を主張する全国各界救国連合会の幹部7名を逮捕する。主戦派の学生と都市住民たちの抗日は愛国心の発露であり、マスコミの多くも同調した。彼らは「日本と開戦しても勝てる」と考えていた。その理由は、

①中国には200万以上の陸軍兵力があり、更に1000万人を動員できる。日本の現役兵は25万人で、200万人しか動員できない。日本海軍は陸戦に参加できない。中国兵は軍閥内戦で実戦経験が豊富である。
②資源に乏しい日本は長期戦を維持できない。また、日本製品の最大市場は中国であり、輸入ボイコットで日本を瓦解させられる。
③欧米諸国は満洲を「日本の勢力圏」と認めて干渉しないが、戦争を全国に拡大すれば彼らの権益への脅威となり、日本に干渉する可能性がある。

この3点を検討してみよう。①は軍事力を兵員数だけに求める強がりで、根拠に乏しい。日中戦争開始直後の上海から南京までの攻防戦では、ドイツ式装備の蒋介石直属の精鋭部隊が投入されたが惨敗を喫し、以後も国民政府軍は連戦連敗を重ねる。②も一面的観測で、日本の輸入は40%をアメリカに依存し、大量の屑鉄や石油及び綿花を供給されていた。輸出についても、当時の日本の主要な貿易相手はアメリカ・イギリス植民地(インド・ビルマ・マレーシア)及び中国・満洲国の3地域であり、中国市場の喪失が直ちに日本の瓦解には繋がらない。しかし③は、外交戦略に長けた中国人の面目躍如である。実際に、日中戦争を巡るアメリカとの軋轢が軈て日米戦争を誘発し、日中戦争に最終決着を齎した。

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地方軍閥の抗日は、愛国心よりも蒋介石の中央軍が“共産党攻撃”を理由に、自分たちの地盤に侵入するのを防ぐという打算に基づく。1936年12月に発生し、蒋介石に抗日の実践を強要した『西安事件』も、張学良と並ぶ首謀者の楊虎城が陝西省の地方軍閥であり(西安は陝西省の省都)、“地盤の保全”を目的に蒋介石を拘束したという側面を持つ。この時、楊虎城は蒋介石を殺害しようとしたのではないのか? その証拠に、西安事件では蒋介石を保護する立場にあった張学良は、西安事件後に政界から完全に引退し、軟禁下で100歳の天寿を全うしたのに対し、楊虎城は暫くして逮捕され、家族と共に10年以上監禁され続け、1949年9月に重慶で家族と共に処刑されている。蒋介石が楊虎城に抱いた深い憎悪を示す。中国共産党の“抗日”であるが、共産党は『第1次国共合作』(1924-1927年)の後に国民党と内戦状態に陥っていた。共産党は、地主の土地没収と再分配に基づく社会主義の実現を掲げ、各地に“ソビエト区”を樹立した。しかし、実態は伝統的な遊民の反乱に過ぎず、新しい内実を備えていなかった。国民政府はソビエト区を殲滅する為、江西省瑞金を拠点とする中央ソビエト区に対し、1930年から1934年まで5回の包囲攻撃を加えた(最大の第5回攻撃はドイツ軍事顧問団が指導)。その結果、1934年10月に中央ソビエト区は崩壊し、共産党は1年余の逃避行の後に陝西省北部に封じ込められ、延安を新たな根拠地とする。「抗日戦争の為に内戦を停止せよ」と主張することは、共産党が国民党の攻撃を防ぐ絶好のスローガンであった。これに依り、共産党は沸騰する抗日気運の波頭に乗り、民族の存亡に責任を有する政治集団として、中国政治の中心的存在となる絶好の機会を手に入れる。

こうして、様々な勢力が其々の思惑で“抗日”を唱える中、指導者である蒋介石は、満洲事変以後も対日戦争の回避に腐心していた。1937年、盧溝橋事件に依り始まった日中戦争は、蒋介石の恐れを現実のものとした。国民政府は5ヵ月後には南京を占領され、僻地の四川省重慶への首都移転を余儀無くされ、逼塞状態に陥る。経済建設も崩壊した。これに対し共産党は、国民政府の行政機関が消滅した広大な農村部に浸透し、日中戦争開始直前のジリ貧状態を脱する。そして、日中戦争中に人口約1億人を擁する勢力圏を構築し、日本敗戦後の国共内戦に勝利する決定的基盤を構築した。この共産党の躍進に対抗する為にも、蒋介石は対日戦争から身を引くことは出来なかった。蒋介石は1933年の段階で、日本と全面戦争になった場合の持久戦略に言及していた。「我々が1つの戦線だけに依り日本と決戦する計画を採用するならば、……一度破れれば復興の望みは無い。……日本が我々の第一線の部隊を打ち破れば、我々は第二線・第三線の部隊でこれを補充する。……一線また一線と陣地を作り不断に抵抗して少しも怠ることがない。……若し3年か5年も抵抗できれば、国際上において必ず新しい発展があると思う。……死中に活を求める一筋の希望があるのである」(奏孝儀主編『総統蒋公大事長編初稿』。民国22年4月12日条、1978年台北)。そして、1920年代から軍事援助を受けていたドイツとの関係を深め、1933年、ナチスの政権奪取後もゼークト参謀総長を軍事顧問に招いて軍の近代化を進める等、戦争準備を着々と進めた。中国からは希少金属のタングステンが提供され、ドイツの軍備拡大に大きく貢献している。『日独伊三国同盟』締結後も、ナチス・ドイツは第三国経由で中国への軍事援助を続けていた(1941年7月まで)。こうした事実は、中国では(特に台湾では)長年に亘って研究上のタブーであった。

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日中戦争が始まってからも、中国国内では巨大な内部矛盾が存在していた。一方では国民党の政治主導権が承認され、建前上では国内統一が促進された。『第2次国共合作』が成立し、共産党軍(紅軍)は1937年に『八路軍(国民革命軍第八路軍)』と『新四軍(国民革命軍新編第四軍)』に改称し、国民政府から給付を受けた。共産党のソビエト区も辺区と名を改め、地主の土地没収も停止され、小作料の軽減へと後退した。1938年7月には、蒋介石を議長に共産党や政治諸党派が参加する国民参政会が組織され、1948年3月まで最高の民意機構として機能した。しかし、その“抗日統一戦線”の建前とは裏腹に、国民政府軍と共産党軍の間では共産党の支配地域拡大を巡る軍事衝突が頻発していた。1941年の1月には、蒋介石の移動命令に違反して勢力の拡大を図ったことを理由に、新四軍が国民政府軍の包囲攻撃を受けて壊滅する事件が安徽省南部で発生した(『院南事変』)。そして、これをきっかけに国民政府から共産党に支給されていた補助金は途絶し、国民政府軍は陝西省の延安を中心とする共産党の根拠地一帯を経済的に封鎖した。国民党vs共産党の深刻な対立を辛うじて繋ぎ止めたのが、“抗日統一戦線”という建前上の団結だったと言っていい。日本側は国民政府に対して、南京占領直後の『トラウトマン調停』(ドイツ政府の仲介)を含め、参謀本部を中心に太平洋戦争勃発までに4回の和平交渉を試みた。副産物として、1940年3月に南京に汪兆銘政権が成立したが(日本側の承認は11月)、肝心の蒋介石との停戦は実現せず、戦線は膠着した。しかし、蒋介石からすれば、この状況下で対日戦争終結を選ぶのは“民族の裏切り者”として批判され、統一戦線の主導権を放棄することを意味した。日本側は、政府・陸軍参謀本部合同の第4回目の和平提案で中国戦線からの撤退さえも提言したが、“日中戦争不拡大”は中国側の国内事情が許さなかったのである。


北村稔(きたむら・みのる) 立命館大学特別任用教授。1948年、京都府生まれ。京都大学文学部卒。専攻は中国近代現代史。著書に『第1次国共合作の研究 現代中国を形成した二大勢力の出現』(岩波書店)・『中国は社会主義で幸せになったのか』(PHP研究所)。林思雲氏との共著として『日中戦争 戦争を望んだ中国、望まなかった日本(The Reluctant Combatant:Japan and the Second Sino-Japanese war』(PHP研究所・University Press of America)。


キャプチャ  2015年春号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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