【日本型雇用システム大解剖】第3部・ニッポンの労働時間(01) 働き過ぎが当たり前の国――誤解だらけの『残業代ゼロ法案』

201X年。大手消費財メーカーで商品開発を手掛ける40代の男性・Aさんの年収は約1000万円。専門的知識を生かして、市場の分析や企画運営・商品開発支援等に携わる。新製品開発が近づけば、夜遅くまで仕事に追われることも屡々だ。2015年の『労働基準法』改正を受けて、Aさんは『高度プロフェッショナル制度』(高プロ制度、下図右上表)の対象者になった。高プロ制度は、高度な専門能力を持つ労働者を労働時間規制の適用除外とするもの。高プロ制度への契約変更時に、会社側は従来の平均残業時間に相当する残業代も基本給に反映してくれた為、Aさんの手取りの給与は殆ど変わらなかった。「これで時間に関係無く、より自由に働けるならいいかな」とAさんは思った。ところが、暫くすると上司は「会社の業績が苦しいから理解してくれ」と、有無を言わせず業務ノルマを増やしてきた。Aさんの業務は増える一方で、以前に比べ深夜残業や休日出勤は大幅に増加。体調も悪化し始めた。「高プロ制度の対象になっていなければ、その分の割増賃金も増えたのに、これではやっぱりメディアが言っていた通り、“定額働かせ放題”制度だな」と今では後悔している――。これは、高プロ制度を導入した場合、現実に起こりかねない状況をシミュレーションしたものだ。貴方はどう思っただろうか? 若し、「会社は残業代を払わないなんてケシカラン」と考えたなら、貴方は日本独特の雇用環境に染まり過ぎて、問題の本質が見えなくなっている。どういうことか、以下に説明していこう。

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上図の左上表を見てほしい。高プロ制度が適用除外とする労働時間規制は、大きく2つに分けられる。1つは物理的労働時間規制、そしてもう1つが賃金規制だ。2つの内、より重要なのは物理的労働時間規制である。これは生命や健康に直結するもので、歴史を振り返ってもイギリスで1833年、日本でも1911年に『工場法』が制定され、安全衛生規制として物理的な労働時間の上限が設定されたことから始まっている。割増賃金の規制は寧ろ補足的な位置付けであり、実際、先進的なドイツでは物理的労働時間規制が強化される一方で、1994年に割増賃金規制は法制度から削除された。「賃金の話は飽く迄も労使交渉で」というスタンスだ。ところが、日本は特殊な状況だ。労基法は、「1日8時間、1週40時間を超えて労働させてはならない」(第32条)と定めているが、第36条で例外を設け、労使協定(36協定)を結べば事実上、特別条項に依って無制限の残業が可能になっているからだ。これは戦後の復興を急ぐ為に導入されたものだが、職務無限定で長時間労働という日本型雇用慣行とセットになって、現在も生き続けている。36協定の存在に依って、日本は1919年のILO(国際労働機関)第1号条約(1日8時間・1週48時間)を未だに批准できていない。




ヨーロッパにも労働時間規制の適用除外はある。ただ、その対象は飽く迄も物理的労働時間規制で、上図の左下表のように勤務間インターバル(休息)規制や週休は維持されるから、適用除外でも無制限ではない。これに対し、日本は一般労働者における物理的労働時間規制が抑々機能していないのに、“適用除外”ということ自体が言葉として変なのだ。結局、2つ目の割増賃金規制の適用除外に話が集中することになる。“残業代ゼロ法案”“定額働かせ放題”という批判はその典型だ。しかも、一般の労働者にとってこれは切実な問題でもある。日本の雇用慣行では長時間残業がデフォルト(標準)である為、中小企業等では残業代は低い基本給を補う生活給の一部になっている。労働組合の中でも、ナショナルセンターの連合は物理的規制を重視し、「最優先すべきは過労死ゼロに向けた過重労働対策だ」(総合労働局の新谷信幸局長)と主張する。しかし、「適用除外の対象者が下の年収層に広がるのではないか?」という不安から、中小企業系の組合には「労働時間が長くても賃金が高ければいい。適用除外で残業代を払わない企業が出てくるのが怖い」と訴えるところがある。これでは長時間労働は無くならない。問題は、世の中全体で後者の声が大きくなってしまい、肝心要の物理的労働時間規制の問題が忘れられていることなのだ。尚、一部の議論をわかり難くしているものとして、アメリカの事例がある。アメリカは“解雇自由”と並んで、この点においても“世界の例外”であり、物理的労働時間規制が最初から全く存在しない(上図左下表)。労働時間規制で存在するのは割増賃金規制のみだ。この為、アメリカにおける適用除外(ホワイトカラーエグゼンプション)は割増賃金規制の適用除外のことであり、物理的労働時間規制は関係無い。日本の適用除外の議論で残業代に話を引っ張られるのは、海外事例としてアメリカを見てしまうことからミスリードされているのもある。

高プロ制度導入や裁量労働制拡大等を盛り込んだ労基法の改正案は、6月以降に衆議院で審議入りする見通しだ。与党安定多数の中、法案成立の可能性は高い。仮に法案が成立すると、働き方にどのような影響があるか? 高プロ制度は、年収1075万円以上で職務の範囲が明確な金融アナリストやコンサルタント・研究開発職等が対象になると見込まれている。ある証券大手のアナリストは、「若し私が高プロ制度の対象になっても、今と殆ど変 わらない。既に管理職なので残業代は払われていないし、部下の多くも裁量労働制の採用で残業代込みの固定給になっている」。彼らからは、世間で言われるような“定額働かせ放題”への危機感等は感じられないのも事実だ。高プロ制度は、「日本の雇用慣行を前向きに変容させる契機になるかもしれない」という期待もある。第一に、職務を限定した海外のような働き方が日本に定着することだ。改正法案では、高プロ制度を導入するには第2部の(02)で紹介した職務記述書等に依って、職務の内容について労使間で合意する必要がある。欧米のようにきっちりと職務内容が記述されていれば、冒頭のシミュレーションで起きたような“有無を言わせず業務ノルマを増やす”ということは不可能になる。逆に、法律や省令が骨抜きになり、従来通りの職務内容が融通無碍に変えられるようなことがあれば、この制度は“過労死促進法”になる可能性がある。つまり、職務限定をしっかりと運用で確保できるかが、この制度の運命の分かれ道となる。もう1つの期待は、物理的労働時間規制が事実上存在しない状況に穴を開けるかもしれないことだ。高プロ制度では労働時間規制が適用除外となる為、健康確保措置として、①ヨーロッパのような勤務間インタ ーバル規制(但し、休息時間は後の省令で決定)②1ヵ月80時間等残業時間の上限③1年間での休日109日以上確保(有給休暇5日分含む)――の何れかの措置を講ずる必要がある。

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これらの措置は決してレベルの高いものではないが(②と③)、全体の労働者に物理的労働時間規制が実質存在しないのに、適用除外者にはそれがあるというのは何とも錯綜した話だ(右図)。真っ当な物理的労働時間規制に対する感覚が日本社会に定着すれば、全体の労働者に対する労働時間規制も改善していこうという機運が生まれるかもしれない。具体的には、先ずは高プロ制度で勤務間インターバル規制を定着させ、適用除外者である高プロ制度の規制を一般の労働者に入れるのは当然という理屈から、全体に拡大適用するというのも1つの手かもしれない。ヨーロッパの労働時間規制適用除外においては、24時間につき11時間の休息期間というインターバル規制が導入されており、1日の労働時間は13時間が上限となる。日本でも、情報サービスやソフト会社に依る情報労連加盟労組の企業21社等で導入が拡大している。更には、予てから課題だった36協定の残業時間に厳密な上限を設けることが考えられる。従来の日本型雇用慣行のまま高プロ制度が活用されれば、深刻な健康被害を生む一方で、物理的労働時間規制の改善の契機になるなら意義は大きい。高プロ制度は両刃の剣だ。

■ホワイトカラーエグゼンプションを“残業代ゼロ”と考えるのは間違っている  神戸大学教授・大内伸哉
私は以前から、『ホワイトカラーエグゼンプション』(以下『WE』)の導入を主張してきた。それは、労働の中身や働き方が従来と変わってきて、現行の労働時間規制が実態に合わなくなってきたと考えているからだ。日本の労働時間規制は、一見すると先進各国の中でも強いように思える。1週40時間・1日8時間の法定労働時間が罰則付きで強制され、これを超えて働かせる為には、企業は労働者の過半数代表と36協定を結び、労働基準監督署に届け出なければならず、更に割増賃金(残業代)の支払いも必要だ。ところが、現実には日本の労働者は長時間労働で、深刻な健康問題が生じていることからもわかるように、この規制が十分には機能していない。その主たる原因は、①労働者の過半数代表は企業の言いなりで、チェック機能が働いていない②36協定で定めることができる残業の上限規制が緩い③割増賃金が払われない残業(サービス残業)が広がっている④割増賃金がある為に、残業に前向きな労働者も多い――等である。先ずはこうした問題を踏まえ、規制の改善を図ることが急務だ。他方で、知的労働のウェイトが高まるに連れ、現行の労働時間規制ではこの変化に対応し切れなくなることも問題だ。

今後の日本の雇用社会の在り方を考えた時、知的労働の重要性は益々高まる。人間の知能に刺激を与えるのは、雇用主の指揮命令ではなく、自ら「何かを創造したい」という労働者の欲求である。こうした知的労働者に適した賃金体系は、成果に対するインセンティブを重視したものでなければならない。ところが、現行の割増賃金規制では時間と賃金を完全に切り離すことはできない。WEは、労働時間規制に適しない働き方をする労働者が存在することを認めた上で、そうした労働者には労働時間規制を適用せず、逆にそうでない労働者には規制を厳格に適用しようとする試みなのである。WEに対しては、「現行の管理監督者制度(管理職に対する適用除外)や裁量労働制でも十分に対応できる」という反論がある。しかし、管理監督者制度には適用対象が不明確で、裁量労働制には制度の導入手続きが煩雑という課題がある。政府は『高度プロフェッショナル制度』という名称で、WEに相当する制度を導入する法案を今国会に提出しているが、職種の限定や1075万円以上の年収要件の設定等、適用範囲を限定し過ぎている。私は、裁量労働制や管理監督者制度を包含した統一的なWEの導入こそ目指すべきことであり、その意味で、現在の法案は中途半端と考えている。世間では、「WEの適用対象者が済し崩し的に増えるのではないか?」「“残業代ゼロ”が広がるのではないか?」と懸念する声も多い。しかし、寧ろ日本社会の真の問題は、「WEに適した労働者が少ない」ことにある。高い付加価値を生み出すようなホワイトカラーが出てこないと、日本の将来は暗い。創造性に富んだ労働者の働き方を支援する法制度を整備するという観点から、WEを考えるべきであろう。


大内伸哉(おおうち・しんや) 法学者。神戸大学大学院法学研究科教授。1963年、兵庫県生まれ。東京大学法学部卒。東京大学法学修士・神戸大学法学部助教授を経て、2001年より現職。専攻は労働法。著書に『どこまでやったらクビになるか サラリーマンのための労働法入門』(新潮新書)・『雇用はなぜ壊れたのか 会社の論理vs労働者の論理』(ちくま新書)等。


キャプチャ  2015年5月30日号掲載


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テーマ : 働き方
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