【本当の教育を取り戻す!】(03) “効率性”という言葉に見え隠れする教育現状の危うさ――“急務”にされた『学校選択制』で格差は益々広がっていく

企業が経営危機に陥ると、決まって打ち出してくるのが“人員削減”である。人員削減には「組織を整理した結果の余剰人員を無くす」という目的もあるが、手っ取り早い経費削減が最大の狙いである。企業の経費で大きな部分を占める人件費を減らせば、その効果は大きいからで、バランスシートだけは経営改善されたように見える。しかし、中々思うようにはいかないのが現実だ。人件費は減らしたものの業績は伸び悩み、中々経営再建できない企業が世の中には溢れている。考えてみれば当然で、人員削減は人的資源、所謂マンパワー(ここにはウーマンパワーも含まれる)の損失に繋がっているからだ。人が少なくなれば営業力も開発力も落ちるので、業績が落ちてしまうのも当たり前である。「人員削減に依って去るのは有能な社員から」というのも現実だから、企業の力は急激に損なわれる。これで業績が上がるほうが不思議だ。それでも、経営者が人員削減という手を使いたがるのは、一時的にではあれ、目に見える変化を求めたがるからに他ならない。それは、経営者が自らの力量不足を露呈しているのと同じことである。そうした企業の人員削減と同様の考え方が、教育の世界にも持ち込まれつつある。

昨年10月、財務省は「公立小中学校の教職員数を減らせば、人件費抑制に効果がある」との試算を纏めた。財務相の諮問機関である『財政制度等審議会』に示したもので、小中学校の標準学級数は1学校当たり12~18と学校教育法で決められているが、少子化で標準を満たさない学校も出てきている為、これを標準的な規模に統廃合すれば5462校を減らすことができ、それに伴って、教員数は小学校だけでも約1万8000人を削減できるとの内容である。「統廃合で簡単に予算は削減できる」という訳だ。それの為に、財務省は公立小学校の1年生に導入されている“35人学級”を“40人学級”に戻すことも、財政制度等審議会に提案している。小学校生活に馴染めない、所謂“小1プロブレム”や苛め等に対応する為、教員1人当たりが担任する子供の数を従来の40人から35人に減らして、きめ細かな対応をする為に2011年度に導入されたのが35人学級だが、それを「元に戻せ」という訳だ。それに依って教員数は約4000人減り、人件費の国負担を年間約86億円削減できるというのが、財務省の試算だった。「35人学級にしても、苛め等の問題は無くなっていない。ならば、40人学級に戻して経費削減すべきだ」というのが財務省の理屈である。確かに、35人学級を導入したからといって苛めが激減したという調査結果は無い。逆に、導入前5年間の平均が10.6%だったものが導入後2年間の平均では11.2%になったと、悪化を示す数字すらある。かといって、「これを以て、35人学級を維持する意味は無い」という財務省の主張は説得力を持たない。言うまでも無く、苛め問題は35人学級の導入だけで解決するような単純なものではないからだ。




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抑々、日本の教員は忙し過ぎるのが現状である。2013年に、OECD(経済協力開発機構)加盟国等世界34の国と地域を対象にした『国際教員指導環境調査(TALIS)』において、教員1人当たりの1週間の勤務時間が平均で38.3時間だったのに対し、日本の場合は53.9時間と断トツで最長だった。その最長の勤務時間の多くが子供と接する時間に向けられている訳ではなく、「雑用が多くて、子供と接する時間が少な過ぎる」という声が現場からは普通に聞こえてくる。こうした現状からは、35人学級を見直すどころか、「小1だけでなく、もっと対象学年を広げるべきだ」としか思えない。財務省の発想が如何に学校現場を無視した、予算削減優先のものでしかないことがわかる。当然ながら、学校統廃合と35人学級見直しを提案する財務省は大きな批判に曝されることになる。そして、2015年度予算編成に35人学級見直しが盛り込まれることはなかった。財務省が自らの提案を撤回する結果となったのだ。しかし、今年5月1日に財務省は、財政制度等審議会に再び教職員数を減らす提案を行っている。「公立小中学校の教職員数を2024年度までに全体の6%に当たる4万2000人ほど減らせば、人件費の国負担を780億円削れる」との試算を示したのだ。“性懲りも無く”というか、昨年よりも削減幅を強調したところに財務省の執念を感じる。財務省が公立小中学校の教職員数の削減を求め続けてくることは間違い無いだろう。審議会が財務省に異を唱えることも無い筈だ。11日の会議後、審議会会長での東京大学大学院経済学研究科の吉川洋教授は、「財政が厳しい中、ただ『先生の総数を減らすな』と言うだけの議論は可笑しい」と述べている。財務省と協調して、教職員削減の流れを作る気満々のようだ。教育をどうするのか、どう子供たちを育てていくのかということより、経費削減を優先する動きが加速しかねない。事業そのものの根本的な改善より、人件費を削減して当面のバランスシートを綺麗にしようという企業の経営改善策と同じである。それで企業が改善しないように、教育も良い方向へ向かうとは思えない。

そうした方針を採る財務省に、文部科学省は抵抗を示している。40人学級に戻す案が見送りになったのも、文科省の力が大きく働いたからということは事実である。しかし、文科省が財務省と真逆の立場を採るかといえば、そうでもない。今年1月、文科省は公立小中学校の適正規模・適正配置の手引きを見直した。約60年ぶりという見直しである。少子化は、既に目に見える形となって現れている。小学校の児童数は、ピークだった1950代後半には全国で約1340万人だったが、2013年には約656万人となっている。それに合わせて、学校数も約2万7000校から約2万1000校に減ってきた。そこで出てきたのが、文科省の見直しである。これまで、文科省の適正規模・適正配置の手引きでは、小中学校の規模を12~18学級を標準とし、通学範囲を小学校で4km以内、中学校で6km以内での徒歩や自転車で通える範囲としていた。それが、今回の見直しでは規模の標準は据え置いたが、通学範囲を“概ね1時間以内”として通学手段にバスも加えた。この見直しの意味するところは、「標準規模に達しない学校は廃止し、近くに学校の無い子供たちは遠くからでも通えばいい」ということでしかない。つまり、学校の統廃合を急ぐ姿勢を文科省も明らかにしたことになる。目指しているところは財務省と同じという訳だ。「児童数が半減しているのだから、学校数も半分にして当然ではないか」という考え方もあるのかもしれない。その代表格が財務省で、「それで経費が削減できるのだから万々歳ではないか」という訳だ。但し、それは“経済効率性”からだけの話であって、子供のことを考えれば万々歳どころではない。通学するのに1時間、それもバスを使って1時間となると、通うのは大変である。大変なだけでなく、放課後に学校の友達と遊ぶ等はかなり難しくなる。通学範囲は見直したものの、規模の標準は残した。その理由は、政府が『まち・ひと・しごと創生総合戦略』で、地域活性化の為に小規模校の活性化や休校学校の再開支援を謳っているからだ。政府の一員である文科省としても、政府方針に咋に逆らうことは避けたかったのかもしれない。とはいえ、見直しの中では“1学年1学級以下”の学校については先送りせず、統廃合の検討を急ぐことを求めている。小規模校の活性化に反対しないように見せて、統廃合も積極的に求めている訳で、この辺りのちぐはぐさが教育行政の実態である。

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こうした手引きの見直しに依って、統廃合の権限を持つ自治体の中には統廃合に前向きな動きも現れてきている。大阪市教育委員会は今年4月、市立小学校の中で児童減少に伴う統廃合を進めた区や学校に、優先的な予算配分を検討する方針を示した。直ぐに大阪市教委は、文科省が手引きを見直す以前の2010年に市立小学校を統廃合する基準を独自に決めている。「全学年の児童数が20名以下、全学年が1学級、全校児童が120人未満という学校については、廃校して他校に統合すべき」としているのだ。この基準に照らし合わせると、全292校の内の83校が対象になるという。大阪市としては早急に進めたい意向だったのだが、地元からの反対も強く、中々実現できなかった。そこに、文科省に依る手引きの見直しという追い風を受けたことで、“優先的な予算配分”という“エサ”をぶら下げて一気にやってしまおうとしている訳だ。自治体が学校統廃合に乗り気なのも“経済的効率性”を優先するからなのだが、それだけではない。統廃合を進めるに当たって大阪市の橋下徹市長は、「教育環境を整える為に、学校の適正配置は必要」と述べている。「規模の小さな学校・1学年1学級のような学校は、教育のできる環境ではない」と言っているのだ。それは文科省も同じである。

見置しが行われた手引きの正式名称は『公立小学校・中学校の適正規模・適正配置等に関する手引』(以下、便宜的に『新手引』と呼ぶことにする)で、今年1月27日付で公表されている。そこには、「学校規模の適正化に関する基本的な考え方」の「教育的な観点」として、一定規模が必要な理由を次のように述べている。「学校では、単に教科等の知識や技能を習得させるだけではなく、児童生徒が集団の中で、多様な考えに触れ、認め合い、協力し合い、切磋琢磨することを通じて思考力や表現力・判断力・問題解決能力などを育み、社会性や規範意識を身につけさせることが重要になります。そうした教育を十全に行うためには、一定の規模の児童生徒集団が確保されていることや、経験年数・専門性・男女比等についてバランスのとれた教職員集団が配置されていることが望ましいものと考えられます。このようなことから、一定の学校規模を確保することが重要となります」。多様な考えに触れて経験し、問題解決能力や社会性を身に付けるという目的そのものには、疑問を差し挟む余地は無い。しかし、その為には“1学年1学級”ではダメなのだろうか? そこに、大きな疑問を感じない訳にはいかない。更に、「一定の教職員集団が必要」という説明にも素直に頷くことはできない。1学年1学級でも、1校数人の教職員でも、子供たちが社会を学んで成長していくことは可能な筈だ。“一定の規模”だけを優先することは、少数の可能性を否定することにしかならない。前述したように、政府の『まち・ひと・しごと創生総合戦略』に従って、文科省も小規模を完全否定できないでいる。『新手引』には、「学校が小規模であることのメリットを最大化すると共に、具体的なデメリットをきめ細かく分析し、関係者間で十分に共有した上で、それらを最小化するような工夫を計画的に講じていく必要があります」と記されているだけだ。その「小規模であることのメリットを最大化」する工夫について、具体的には何も述べられていない。文科省が小規模校を積極的に認めるつもりは無く、飽く迄も“一定規模校への統廃合”の方針しかないことは明らかである。

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小規模校を廃して、“一定の規模”の学校に纏めることで、文科省は何を狙っているのだろうか? それは、“教育実績の効率化”である。規模が色々であれば、それに合わせた教育の姿が必要になり、学校毎に違う教育環境になりかねないし、その方向性もバラバラになる可能性がある。政府や文科省は、「学校がバラバラな方向に向かって勝手に走ることは望ましくない」と考えている。文科省は『学習指導要領』を定めて、学校で教えるべきことを細かく規定している。文科省の考える学校の適正規模とは、その学習指導要領に沿った教育を、より効率的に実施できる規模に他ならない。政府や文科省が指し示す方向に、全国の公立小中学校が足並みを揃える為には、全校が同じ方向を向き易い環境と、教育内容を整えられる一定の規模の学校である必要があるのだ。教育の効率化にとっては、一定規模の学校への統廃合は必要な条件なのだ。その為に文科省は手引きの見直しをやり、全国で統廃合に拍車を掛けようとしているのである。政府や文科省が教育実績の効率化の為に実施してきたのは、学校の統廃合だけではない。1997年1月に、文部省(当時)は各都道府県教育委員会教育長宛に『通学区域制度の弾力的運用について』という通知を出して、“学校選択制”の導入を急ぐよう要請している。学校教育法施行令第5条において、「公立の小学校と中学校では就学予定者が通うべき学校については、市町村教育委員会が指定する」と決められている。1997年の通知は、これを見直し、通う学校を本人や保護者が選択できるような制度改正を行うように教育委員会に指示している訳だ。この通知をきっかけに学校選択制が普及していき、2012年に文科省が調査したところに依れば、小学校で15.1%・中学校では15.6%となっている。思いの外、実施しているところは少ない。

但し、政権は学校選択制を普及したいのが本音である。現在、安倍晋三政権において教育行政に大きな発言力を持っているのが下村博文文科相だが、2004年秋に自民党が派遣した“サッチャーに依る教育改革”の調査団の1人として渡英している。その成果を纏めた『教育正常化への道 英国教育調査報告』(PHP研究所・2005年発行)で、下村は次のように書いている。「子供の教育に対する親の関心を高めることが子供の学力水準の向上につながるとして、辿りついた1つの結論が、ベーカー元教育大臣が指摘する第3の原則、“親に我が子の通う学校を選ぶ権利を与える”ということであった」。つまり、学校選択制である。下村を始めとする自民党の調査団は、サッチャー政権が教育改革に依ってイギリスにおける学力水準が向上したことを高く評価している。その力になったのが学校選択制だったことに、下村は注目しているのだ。続けて書いている。「親に学校選択の自由を与える以上、その判断材料となる学校に関するさまざまな情報を親に提供しなければならない。そこでイギリスでは、“国定カリキュラム”とその学習達成度を測る“全国共通テスト”、そしてその“結果の公表”という3点セットによって、我が子の通う学校が果たしてどの程度の教育水準にあるのか、我が子の教育水準は全国的に見てどの程度なのかを、親がきちんとしたデータの裏付けによって知ることができるようになった」。全国的な学力調査(『全国学力・学習状況調査等』)、所謂『全国学力テスト』の公表に拘る動きが強まっている原因は、 この辺りにあるに違いない。

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学校選択制が浸透すれば、全国学力テストの結果が選択基準とされ、人気校と不人気校の格差が生まれる。その為、学校間の競争は激しくなり、それに依って学力は向上した点がイギリスに学ぶべきところと考えているようだ。その結果として、一定の規模を維持できない学校が出てくる可能性は否定できない。そうなると、今年1月の適正規模・適正配置等の手引きの見直しが生きてくる。不人気校は統廃合を迫られることになり、そうならない為に選ばれる学校作りを目指して、学力向上に取り組まざるを得なくなる。政権が考える教育の実績が学力だとすれば、これ程効率的に結果が期待できる仕組みはない。それで、結果を出せない学校を統廃合すれば、経済的な効率性も実現できる。既に、文科省が定める従来の適正規模である12学級を下回っている学校は、中学校だけでも全体の半数に及んでいる。学校選択制で選択されない不人気校になれば、廃校に追い込まれる可能性のある学校は山ほどあることになる。経済的効率性と教育実績の効率を追求できる素地は十分にあるという訳だ。しかも、安倍首相はそうした統廃合を強権で以てやりかねない。政権奪取を狙っていた2006年7月に出版した『美しい国へ』(文春新書)で、安倍は「ぜひ実施したいと思っているのは、サッチャー改革が行ったような学校評価制度の導入である。学力ばかりでなく、学校の管理運営・生徒指導の状況等を国の監査官が評価する仕組みだ。問題校には、文科相が教職員の入れ替えや、民営への移管を命じることができるようにする」と述べているのだ。まだ学校選択制の導入や統廃合の推進を促されている段階だが、強権的に改革を強いられる日も遠くないかもしれない。学校選択制や統廃合という政府・文科省の方針に、学校現場が軽率に乗っかっていけば、経済の効率性と教育実績の効率性という2つの効率性が幅を利かす教育になっていくに違いない。抑々、安倍政権が手本とするサッチャーの教育改革は、今日では「教育を荒廃させた」とさえ言われている。また、学校現場も競争を煽られ、自らの存続にまで発展しかねないのだから慎重だ。前述したように、学校選択制の導入率が意外に低いことにもそれが現れている。そして、既に見直しを始めている地域さえある。

群馬県の前橋市は、2004年度から市内全ての小中学校で学校選択制を導入した。その利用者は年々増えていたのだが、5年後の2010年度入学者を以て学校選択制を廃止している。その理由について前橋市教育委員会に訊ねると、次の答えが戻ってきた。「他の地域に通う子供が増えると、地域意識が希薄になって地域行事等に支障が出るようになったこと、あと小学校では安全の為に登下校時に“ウォーキングバス(集団登下校)”を実施していますが、地域が違うと利用できない為、安全面で問題があることが理由としてあります。それと、選択される学校と選択されない学校での生徒数に偏りが出てしまい、学習環境が確保できないという問題もありました。人数が足りなくて部活ができないという問題も起きます」。何故偏りが出てしまうのか、選択される理由について訊ねてみると担当者は、「指定だと遠くなってしまうので、近くの学校を選ぶとか、やりたい部活のある学校を……というのが選択理由として挙がっていました」と答えた。しかし、それだけなら保護者と自治体の話し合いで簡単に解決できるものだ。態々制度まで変える必要はない。そこには、「もっと大きな理由があったのではないか?」と想えた。“学校の学力水準”である。それを訊ねると、意外な答えが戻ってきた。「選択理由についてはアンケートで調べたのですが、実は選ぶ答えの中に“学力”という項目は入れていませんでした」。そこで、単刀直入に「選択の理由として、実は学力水準が大きな比重を占めていたのではないでしょうか?」と質問してみた。担当者は答え難そうだったが、重い口を開いた。「お察しの通りです。保護者の本音としては、それがあるのかもしれません」。行政も本音の部分に気付いているのだ。

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学校統廃合と学校選択制という方針を徹底していくと、学力に依る格差が選択の基準とされ、学力についての学校問競争が激しくなることは避けられない。それに依って、廃校に追い込まれる学校も出てくるようになり、子供と地域の関係が希薄な地域が生まれてくる。そういうところの住民は減り、地域の活性化、延いては自治体の衰亡に繋がりかねない。そういうことに前橋市は気付いたようだ。東京都江戸川区も学校選択制を導入しているが、通学区域外から受け入れられる人数を学校毎に公表するという制度の手直しを行っている。「希望者が多くて抽選をやる学校もあったので、事前に受け入れ人数を発表することで、保護者にも考えてもらう為です」と、その理由を江戸川区教育委員会では説明する。一種の牽制策な訳だが、それよりも偏りの原因を是正する策を優先すべきではないだろうか? 「学力水準に依る選択に依って、偏りが起きているのではないか?」と質問すると、次の答えが戻ってきた。「それもあるかもしれません。しかし、選択の理由は訊かないのが選択制の前提です」。可笑しな話である。前橋市もそうだが、敢えて選択制と学力を結び付けないようにしているように思える。最初から消極的な自治体も多い。それは、教育で効率性だけを求めることに依る問題を察しているからなのだろう。

抑々、学校選択制が導入されるきっかけとなった文部省の通知が出されるについては、1996年12月16日付で行政改革委員会が公表した『“規制緩和の推進に関する意見(第2次)”――創意で造る新たな日本』が選択制導入を求めたことに始まっている。しかし、学力だけが選択の基準とされるような制度作りを提案している訳ではない。「学校の序列化・学校間格差の発生に対する懸念は、受験戦争の激化と同様、我々国民が学校の在り方を学力という単一の価値で判断するかどうかにかかっている」。その上で、学校の教育内容を多様にしていくことを求め、「学校間に多様性が存在することが“格差”であるならば、今後はこのような“格差”を義務教育制度の中でも積極的に肯定していく必要がある」と続けている。にも関わらず、現実の学校選択制は学力という単一価値に引っ張られた格差の拡大を加速し、経済効率性でしかメリットのない統廃合を招きかねないものでしかない。そこに歯止めをかけているのが、簡単に政府・文科省の方針に応じなかったり、見直しを決断している教育委員会や学校でもある。現在、学校の多様性の為に特色ある学校作りを推進している自治体も少なくない。ただ、残念ながらその多様性が学校選択の基準として優先されていないのも実情である。それこそが問題である。企業は効率性を優先し過ぎた為に、自らの存在価値を見い出せない状況に陥っている。同じように、効率性ばかりを追っていく教育は、存在価値を失うことにもなりかねない。 《敬称略》


前屋毅(まえや・つよし) フリージャーナリスト。1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒。立花隆氏・田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。経済・社会・教育の問題をテーマに取り組んでいる。著書に『シェア神話の崩壊』『グローバルスタンダードという妖怪』(共に小学館文庫)・『洋上の達人』(マリン企画)・『学校が学習塾にのみこまれる日』(朝日新聞社)・『日本の小さな大企業』(青春出版社)等。


キャプチャ  2015年7月号掲載


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テーマ : 教育問題
ジャンル : 政治・経済

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