【日本近現代史がわかる最重要テーマ】(08) 日独伊三国同盟(1940年)――“幻の同盟国”ソ連に頼り続けた日本

第2次世界大戦後の冷戦期を通じて、日本はアメリカ合衆国との同盟関係の下、ソ連を安全保障上の脅威と見做し、ソ連に対抗する外交・安全保障政策を追求してきた。こうした戦後日本の反ソ政策は、戦前の日本にも投影され、「戦前の日本は一貫して反ソ(反露)的な外交・軍事政策を展開した」とのイメージが現在も定着している。しかしながら、日露戦争から第1次世界大戦の時期、日英同盟と日露協商は日本外交の根幹であり、ロシアはイギリスと共に日本の重要な同盟国であった。更に、第2次世界大戦においても、日本は通説的なイメージとは逆に屡々親ソ的な政策を追求してきた。ここでは、日独伊枢軸と絡めながら、日本の対ソ政策の変遷を辿ってみたい。そこからは、“幻の同盟国・ソ連に頼り続けた日本”の実像が析出される筈である。

日本とドイツは、イタリアを加えて1940年9月27日に『日独伊三国同盟』を形成したが、その淵源は1936年11月25日に調印された『日独防共協定』に遡ることが出来る。この協定は、表面上は『コミンテルン(国際共産党)』に対する日独の課報面での協力関係形成を謳ったが、付属の秘密協定において、日ソ戦争乃至独ソ戦争が勃発した場合の相互の行動について合意しており、明らかにソ連をその仮想敵としていた。このような日独協力の反ソ的性格は、翌1937年11月6日にイタリアが原署名国として防共協定に加わったことに依り、若干の変化を来すことになった。なぜなら、当時のイタリアはソ連との間では然したる外交的紛争要因を抱えておらず、逆にスペイン内戦を巡り、地中海で英仏と厳しく政治的・外交的に対立していたからである。イタリアの加入に依り、日独関係には“反英仏”の色彩が加わった。防共協定にイタリアが加入する前日の1937年11月5日、ヒトラーは陸海空軍及び外務省のトップを集めて今後の外交構想を語った。その時ヒトラーは、近い将来、チェコスロヴァキアとオーストリアを軍事的に解体・併合する計画を明らかにした。しかし、ヨーロッパの国際秩序を撹乱するそのような行動は、当然のことながら、イギリス及びフランスとの対立をも想定せざるを得ないものであった。このヒトラーの意を受けて、1938年1月2日、駐英大使のリッベントロップは『総統の為の覚書』を起草し、“反ソ”よりも“反英仏”に重点を置いた日独伊三国同盟の形成をヒトラーに提案した。こうした考えに基づき、1938年夏より日独伊三国の軍事同盟交渉が本格化するが、締結すべき同盟の反英仏的な色彩を薄める為、日本ではこの交渉は意図的に『防共協定強化交渉』と呼ばれた。日本陸軍は日中戦争の最中、中国国民政府への英仏の支援に手を焼いていた為、英仏を牽制する三国同盟案に賛成したが、政府と海軍は飽く迄も反英仏同盟に反対であった。ドイツとイタリアは日本を見限り、1939年5月22日、日本抜きで『独伊鋼鉄同盟』を締結した。




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とはいえ、ヒトラーは独伊2国だけでは英仏(場合に依ってはアメリカ合衆国を含む)に対抗できないことを承知していた。脱落した日本の代わりにドイツが選んだ提携相手は、ソ連であった。1939年8月23日、こうして『独ソ不可侵条約』が締結されたのである。ソ連を主たる仮想敵として独伊と交渉していた日本は、そのソ連とドイツが提携する事態に直面し、茫然自失状態に陥った。首相の平沼騏一郎は、8月28日に「欧州情勢複雑怪奇」と声明して、内閣を放り出した。日本は、対独政策及び対ソ政策を根本的に見直す必要に迫られた。日本陸軍の内部では、「防共協定は既にその効力を失った」との判断が浮上した。独ソ不可侵条約と並び、やはり対ソ政策の根本的再検討を促す契機となったのは、同年5月に発生していた『ノモンハン事件』であった。戦闘での死傷者数こそ搭抗していたものの、ソ連の圧倒的な軍事力が示され、9月15日に日本は敗北的な停戦に追い込まれた。独ソ不可侵条約及びノモンハン事件が、日本政府・日本陸軍(とりわけ関東軍)に与えた衝撃は甚大であった。関東軍は将来の対ソ戦争遂行を重要な任務としていたが、その関東軍の中にさえ、「この際、ソ連とは協調政策を採ることに依り、英米と対抗すべきだ」という主張が現れた。例えば、関東軍の植田謙吉司令官は1939年8月27日、「ノモンハン方面のソ軍に対し徹底的打撃を与えつつ、他面ドイツ・イタリアを利用してソ連より休戦を提議せしむると共に、速やかに日ソ不可侵条約を締結し、更に進みて日独伊ソの対英同盟を結成し、東洋における英国勢力を根本的に芟除すべきである」と述べていた。ソ連の位置づけは、仮想敵国から潜在的な同盟国へと変化したのである。

1940年9月27日に締結された日独伊三国同盟は、“現に欧州戦争又は日支紛争に参入しおらざる一国”に攻撃された時に、3国が相互に援助すべきことを規定しており、一見米ソが対象とも思えるが、第5条では独ソ不可侵条約を始めとする対ソ関係の現状維持が確認されていた。即ち、日独伊三国同盟は対米同盟であり、ソ連は三国同盟の仮想敵ではなかったのである。更に付属文書では、「ドイツが日ソ両国の“友好的了解”を増進し、“周旋の労”を執る」と規定されていた。つまり、この条約では寧ろ日独伊とソ連の四国提携が目指されていたのである。この規定を受けて、日本の外務省は早速1940年10月3日、『日ソ国交調整要綱案』なる文書を作成している。注目すべきは、その第7条であろう。そこでは、「日独伊三国はソ連をして世界における新秩序建設に協力せしむ。同盟が同一ベーシスにおいてソ連を加えたる四国同盟に発展することを辞せず」と述べられていた。即ち、ソ連はこの案では、近い将来の同盟国として位置づけられたのである。1941年4月13日に締結された『日ソ中立条約』は、その1つの帰結であった。ソ連に対する日本の期待は、1941年6月22日に勃発した独ソ戦に依って一旦頓挫する。日本は対ソ戦争に参戦するか(『北進論』)、或いは背後の安全を利用して天然資源の豊富な東南アジアに進出するか(『南進論』)という選択を迫られることとなった。ここで日本は南進を決定し、それに反発したアメリカ合衆国との政治的対立を深めていく。対米戦争を決意した日本は1941年11月15日、大本営政府連絡会議において『対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案』を決定した。ここでは、「独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに努む」とされ、イギリスに対するドイツの勝利が戦争終結の前提とされていた。更に、独ソ戦については「独ソ両国の意嚮に依りては両国を講和せしめ、ソを枢軸側に引き入れ、他方日ソ関係を調整しつつ場合に依りては、ソ連の印度イラン方面進出を助長することを考慮す」とされ、独ソ和平の実現が期待されていた。日本は相変わらず、日独伊ソの四国提携実現に戦争終結の展望を託していたのである。

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1941年12月8日の日本に依る真珠湾奇襲攻撃後、日独伊三国の間では『単独不講和条約』が締結され、日独伊枢軸は運命共同体となった。一方、日本陸軍の一部には、翌1942年に『北方戦争』(=対ソ戦争)を遂行したいという衝動も存在したが、太平洋戦争の動向に規定され、1942年春頃までには日本の大本営政府連絡会議では対ソ戦争遂行論は粗姿を消し、寧ろ戦局の打開の為、独ソ両国の和解を推進するという方針が以後一貫して追求されることとなった。独ソ和平の達成に依り、日独伊ソの連携を実現し、対英米戦争遂行に全力を傾注しようというのである。日本外交は尚もソ連に期待していた。しかしながら、“人種的絶滅戦争”としての対ソ戦争遂行に固執するヒトラーを説得することは出来なかった。日独伊ソ協力に期待をかける日本を動揺せしめたのは、1943年9月8日のイタリアの降伏であった。外相の重光葵は9月20日、「ソ連に地中海及び小アジア地方に対する出口を約束して、独ソ和平を結び得ば、ドイツの力は軍事的に政治的に大に増加すべし」と述べていた。これは即ち、“イタリア無き日独ソ連合構想”とでも言うべきものであった。翌1944年7月22日、東条内閣に代わり小磯内閣が成立した。8月19日の御前会議では、“ドイツが内部的に崩壊するか或は単独和平するが如き万一の場合”をも考慮しておく必要があるとされた。第2次世界大戦の戦局は、ドイツの脱落をも想定せざるを得ないところまで来ていたのである。こうした判断を受け、9月21日の最高戦争指導会議では『ドイツ急変の場合における対外措置腹案』が策定され、日本はドイツ“急変”の場合を想定したシナリオを描くに至った。そこでは、ドイツの方針転換のあり得べき形態として、以下の4つの場合が想定された。

第1に、ドイツが単独不講和条約を遵守し、和平に関し日本に連絡してくる場合。この場合は、日本としては「出来る限り独ソ間の妥協を図り、対米英戦争継続の方向にドイツを誘導するに努む」とされた。第2に、ドイツが米英ソ3国と単独講和を結ぶ場合。この場合は、日本としては「一切の対ドイツ戦争協力を停止す」とされた。第3に、ドイツが英米と単独講和し、且つ対ソ戦を継続する場 合。この場合は、「ソ連をして積極的に対日提携をなさしむるに努め、可能であれば英米に対する日ソ同盟を締結するに努む」とされた。第4に、独ソが講和する場合。この場合は、「ドイツとの提携を愈々緊密にすると共に、ソ連をして積極的に対日提携をなさしむるに努め、出来うれば英米に対する日独ソ同盟を締結するに努む」とされた。即ち、英米に対抗する為の日独ソ同盟、更に最悪の場合には、そこからドイツが脱落した日ソ同盟を締結しようというのである。しかしながら、ドイツ降伏の悪夢は遂に到来した。1945年4月24日にヒムラーが米英側に単独講和を申し入れ、更に4月30日のヒトラーの自殺を受けて成立したデーニッツ政権は、対米英降伏を暗黙の前提としつつ、対ソ戦争の継続を強調した。これは、約半年前に日本の最高戦争指導会議が想定した第3のケースであり、日本は「可能であれば英米に対する日ソ同盟を締結するに努め」なければならない事態となった。しかし、この選択肢に関しては、日本の指導層もその実現の困難を認識せざるを得なかった。例えば、4月25日の陸軍の“世界情勢判断”は、「欧州戦局の推移に伴い英米ソ間の遂次杆隔を萌すべきも、これをもって直ちに東亜の情勢に大なる影響を期待し得ざるべし」とされ、日ソ関係改善が実現困難であることを確認していたのである。

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1945年4月26日、ソ連軍が東方に移送されているとの情報が日本の参謀本部に伝えられた。ソ連及びスターリンが対日戦争に備えている明確な証拠であった。これに対し、参謀副長の河辺虎四郎中将は日誌に注ぎのように記した。「スターリン氏はついに意を決したのであろうか。私は何故彼スターリン氏にこの決意があるのかを信じることが出来ない。彼の対日好感、対米英不信を期待するものではないが、打算に優れた彼が今の時点で東洋に新戦場を求めることはないに違いないと密かに判断するのみ。これはただ私の希望のみであろうか」。1945年5月7日のドイツ敗北後、日本はこのような驚くべき非現実的な対ソ観をも一部に持ちながら、絶望的な対ソ交渉に最後の期待を繋ぐことになる。1945年6月3~4日、元首相の廣田弘毅と駐日ソ連大使のマリクとの会談が箱根で開かれた。その後に交渉は中断し、近衛文麿のモスクワ派遣を巡って遷延した。しかし、その結果は広島と長崎への原爆投下及びソ連の参戦であり、8月15日の敗北であった。敗戦前の対ソ交渉は、それだけを取り出してみれば確かに唐突なものであったし、“日ソ中立条約への幻想”や“ソ連に通じた和平工作の非現実性”故に、現在でも屡々批判の対象となっている。和平交渉自体が外交的な誤りであったというのである。しかしながら、以上に見たように、1930年代末から太平洋戦争下にかけ、日本は常に対英米戦争遂行の為の潜在的提携国としてソ連を想定し、それは戦争末期には実際に“日ソ同盟”の幻を生むまでに至っていた。第2次世界大戦後の冷戦イデオロギーから自由になれば、戦争期日本におけるソ連依存の外交政策の実像が見えてくる筈である。


田嶋信雄(たじま・のぶお) 成城大学教授。1953年、東京都生まれ。北海道大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。著書に『ナチズム極東戦略 日独防共協定を巡る諜報戦』(講談社)等がある。


キャプチャ  2015年春号掲載


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テーマ : 歴史
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