【54-財務省“最強世代”の研究】(上) 同期3人が事務次官に

霞が関では、入省年が重要な意味を持つ。同期のキャリア官僚の中で、最後まで残った1人が事務次官となる人事システムだからだ。だが今年、財務省で前代未聞の人事があった。同期3人目の次官が誕生したのだ。昭和54年大蔵省入省組は、如何にして栄光を掴んだのか? (取材・文 岸宣仁+本誌取材班)

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7月7日、香川俊介(58)は36年務めた財務省を去った。与野党捻じれの民主党政権下で、消費税増税を成し遂げた大物官僚。事務次官となった後は病と闘い、最後は松葉杖をつきながら官僚生活最後の日々を過ごした。後任は、主計局長の田中一穂(59)だ。財務省次官は、木下康司(58)・香川・田中と3代続けて昭和54年(1979年)に旧大蔵省に入省した同期が務める。戦後初めての出来事である。霞が関のトップに君臨する財務省、そのまた頂点に立つ事務次官は、“官僚の中の官僚”と言っていい。東京大学法学部卒を中心とする同期入省者20数名が昇進を重ねる内に、1人に絞られて次官に就任する。それが、霞が関の基本人事システムである。財務省の戦後の歴史を紐解けば、同期2人の次官が出たのは“22年組”(前期は大倉真隆、後期は長岡實)・“28年粗”(旧制は吉野良彦、新制は西垣昭)・“49年組”(杉本和行、丹呉泰健)の3つの年次に過ぎない。“22年組”には前期・後期、“28年組”には旧制・新制と但し書きが付くように、前者は戦後の混乱、後者は高等学校制度の変革に依るものであり、純粋に実力の上で同じ年次から2人の次官を生んだのは“49年組”が唯一と言っていい。昭和56年に記者クラブ『財政研究会』(財研)に異動して以来、30有余年に亘って財務省を見つめてきたもの書きとして、異例の同期3人次官誕生の経緯を検証してみたい。それは、「“54年組”の歩みが、霞が関の人事システムの変遷と重なる」と考えるからだ。

財務省に古くから伝わる隠語に“ピカ5”がある。「同期入省者の中にピカッと光る優秀な人材が5人いれば、その期は安泰」という意味合いで使われる。ここで言う“安泰”とは、現役時代に前後の期に比べて枢要のポストに就く可能性が高まるだけでなく、天下り先もより格の高い組織やポストを奪い取ることができるという意味だ。今から20数年前、2度目の財研を担当していた頃、必ず話題に上るピカ5の年次があった。古くは高木文雄・橋口收の事務次官争いで有名になった“18年組”、丁度その当時に長野庬士文書課長・武藤敏郎秘書課長・中島義雄総理秘書官が三つ巴の次官争いを演じていた“41年組”である。“18年組”は田中角栄が推す高木が、“41年組”は大蔵省不祥事の中で生き残った武藤が勝者となった。そして、まだ入省10数年目にも関わらず、“54年組”もその一角に名乗りを挙げようとしていた。“54年組”が“ピカ5の年次”として省内スズメの口の端に上り始めて間もなく、新聞社を辞めてフリーランスになっていた筆者は、18年・41年・54年組の3つの年次を、ある雑誌のコラムで取り上げたことがある。多少の反響を呼んだことを憶えている。実は、反響は読者だけでなく、当事者である田中一穂からもあった。半ば真面目、半ば脅しの表情で、正面切ってこう言われた。「変な記事を書くのは止めて下さいよ。うちの役所であんなことを書かれると、前後の期から潰されるだけですから」――。“潰される”とは大仰な表現だが、言わんとするところはわからないではなかった。同期の中から1人の次官を生む為の熾烈な出世競争が繰り広げられる霞が関では、自分たちの年次が“次官ゼロ”にならないように、前後の期の間で激しい潰し合いが演じられるのが珍しくないからだ。




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財務省には、外部から次官レースが窺い知れる“観測地点”とも言うべき関門がある。先ずは、筆頭課長補佐のポストだ。大体、入省15年目・30代後半の頃である。この頃から、「○○年組の次官候補は××」と初めて対外的に噂が流れ始める。これは、政治介入を防ぐ財務省の“知恵”でもある。“18年組”は、高木を田中角栄が推し、橋口を福田赴夫が担ぎ、“角福代理戦争”の禍根を省内に残した。その反省に立って、30代後半の頃から省内外(特に永田町)に向けて将来の次官候補生を表明し、一種の組織防衛を図ってきたのだ。ここで、既に1人に絞られる期、ライバル2人がコンビで語られる期もあるが、“54年組”は“ピカ5”に恥じぬ多士済々ぶりだった。では、ピカ5とは誰だったのか? 筆者が当時のコラムに書いたのが次の5人だ。桑原茂裕・道盛大志郎・香川俊介・木下康司・田中一穂。だが、正直に告白すれば、筆者が将来の次官候補と見ていたのは桑原と道盛だった。これは、周囲の前評判とも一致していた。入省から10年が経った頃、桑原と道盛が先頭を走っているように見えたのには訳がある。1つは、入省時の配属部署だ。桑原と道盛は官房文書課だった。当時は、“一に文書課、二に官房秘書課、三に主計局総務課”の順番が強く意識される時代だった。しかも、彼らの文書課配属は、東大時代の“勲章”を背負ってのものだった。2人は、揃って東大の成績が“全優”。大学紛争の激化以降、総代(銀時計)の表彰が中止になって、対外的に明らかにはならなかったが、採用する秘書課は成績を把握し、国家公務員試験の成績とも勘案して、文書課に配属したものと思われる。東大在学時だけでなく、桑原と道盛は公務員試験の成績もトップクラスだった。

“54年組”の国家公務員試験の上位を列記してみる。

1番 永長正士
2番 桑原・道盛・細田隆

2番に3人が並ぶのを奇異に感じる向きもあると思うが、公務員試験は1次・2次合わせて出題数が50問に満たない(2次は論述試験)為、同点が何人も並ぶケースが出る。“54年組”は、1番から4番までが揃って大蔵省に入った。彼らが入省した当時、公務員試験の成績と最初の配属先(振り出し)は、ある程度の法則性を持っていた。大きく分けると、成績のトップクラスが文書課、その中でも人柄のいい人物が秘書課、そして、それに準じるクラスが主計局総務課に配属されるのが粗定例のパターンだった。そうした人事の法則性を忠実になぞるように、桑原・道盛・渥美恭弘の3人が文書課振り出しとなる。秘書課への配属は例年1人で、永長が就いた。主計局総務課には木下康司・田中一穂・森郁夫の3人が配属され、次官レースの幕が切って落とされた。香川は国際金融局総務課に配属された。公務員試験の順位とその後の出世の関係は、議論が分かれる。筆者の取材が正しければ、1番で旧大蔵省に入り、次官の椅子を射止めたのは、戦後の入省者で1人しかいない。『日本開発銀行』総裁を務めた“28年組”の吉野良彦だけである。ピカ5で言えば、桑原・道盛が2番、木下が40~50番、香川が70~80番、そして田中は150番前後。実は、田中はピカ5で唯一、学年が上。東大時代、剣道に打ち込むあまり留年した為だ。

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入省時の成績とその後の出世が必ずしも比例しない現実を、もう1つの事例から説明してみたい。先述したように、公務員試験のトップクラスが文書課に配属される慣例が、戦後長く続いてきた。それを裏書きするように、昭和39年の田波耕治から昭和49年の杉本・丹呉まで9人の次官が生まれたが、このうち5人、率にして5割以上が文書課振り出しだった。ところが、昭和50年の勝栄二郎以降の5人の次官、昭和57年までの3年間の次官候補数人を見ても、スタートが文書課だった人物は1人もいない。入省時の成績・振り出し部署である程度、将来への期待はわかるものの、それだけで上がっていけるほど財務省は楽な職場ではない。ピカ5は、その仕事ぶりで先頭グループに立った。財務省の人事スクリーニングで重要なのは、主査時代だ。財務省の中枢とされる主計局。主計局長の下に3人の次長が並び、その下に各省庁別に主計官(課長級)がいる。主計官を補佐するのが、数人の主査(主計官補佐)たちだ。財務省幹部が解説する。「我が省は、30代で主査を経験させて鍛える。主計官が省の予算を全部見ることは不可能なので、主査にある程度決定権を与えて、各省の課長クラスと渡り合わせる。自分の段階で決めてしまって、『主計官はここで出てきて、こう言って下さい。次長はここでお願いします』というシナリオが描けているのが出来る主査。『主計官がダメでも、主査が優秀なら予算はできる』と言われるほど、役割は大きい」。入省時から人材豊富で知られた“54年組”だけに、11人が主査を経験している。特に平成3~4年にかけては、木下が企画担当、香川が公共事業、田中が厚生、桑原が文部、道盛が農林と、主査の中でも難しいとされる枢要ポストをピカ5が独占した。この頃、先頭を走っていたのは道盛だったかもしれない。同期で最初に主査になり、農林担当を4年務めた。だが、ピカ5で真っ先に脱落したのも彼だった。“54年組”は同期28人中、10人が主計官を経験している。歴代の中でもトップクラスだが、その10人の中に道盛の名前は無いのだ。

こうした人事と関係するかは定かではないが、筆者には忘れ難いエピソードがある。当時の大蔵省はただ頭がいいだけでなく、夜の遊びも人並み以上にできると、“優秀”の折り紙が付けられることが多かった。そんな清濁併せ呑む腹芸ができる人物が、より出世する時代だったのだ。主計局の会議で主査としての抱負を語る際、道盛がこんな挨拶をしたことが語り草になった。「主査のポストに就いたら、色々なところから接待攻勢を受けて、10kgも太ってしまいました」。時の主計局長は、こういう“遊び”に最も厳しかった小粥正巳(後に次官)。小粥は、キッとした厳しい目で道盛を睨み返した。道盛は、農林関係の主査から銀行局課長補佐に異動するが、それ以降は主計局に戻ることはなかった。それから10年も経たないうちに、大蔵省は不祥事に揺れた。証券不祥事に始まったスキャンダルは、民間金融機関からの過剰接待に発展。接待汚職事件では、4人の大蔵官僚が逮捕された。大蔵省は、過去5年間に金融関連部局に在籍した職員、計1050人から接待の実態を聞き取り調査し、処分を決定した。処分の重かった長野厖士証券局長・杉井孝銀行局担当審議官らは辞表を提出した。道盛は、銀行局課長補佐時代に接待を受けたとして、減給20%2ヵ月。上から4番目の重い懲戒処分を受けた。ピカ5で懲戒処分を受けたのは道盛だけだった。続いて、桑原がコースから外れた。文部科学担当の主計官から金融庁に転じた。桑原の嘗ての同僚は、こう振り返る。「真面目で人当たりも良くて頭もいい。『この人には敵わない』と思うほど仕事ができた。ただ、大蔵不祥事という乱世には稍、線が細過ぎたのかもしれない。同期が人材豊富なので、金融庁行きは『次官級ポストの長官を狙わせよう』という人事担当者の親心だったのではないか」。実は、出世コースの先頭ランナーが失速し、逆転を許すケースは財務省でも少なくない。多いのは、“自分の庭しか掃かなくなった”と言われるタイプだ。守りに入り、リスクを冒すのを避ける姿勢が、省内から厳しい目で見られるようになる。

一方、これとは逆に、ポストを昇るに連れて“いぶし銀”の光を放つケースがある。田中などは、その代表と言えるだろう。入省時、霞が関でも秀才揃いの省内で、「何で、あんな成績が下のを採ったの?」と噂になっただけでなく、「オレはビリに近い成績で入ったんだ」と自分で部下に語っていた田中が、秘書課長に就いた。ある次官経験者は、こう話す。「あの頃は、明らかに田中がトップだった。主計局の厚生労働担当主計官の時に、相手省庁との折衝をスムーズに熟し、『彼の下には人が集まる』という評価が高まった。敢えて課長時代の順番を付ければ、田中-木下-香川というところだったでしょうね」。筆者が思い出すのは、主税局税制第2課課長補佐時代の田中だ。平成元年に導入された消費税に国民の反発は頂点に達し、夏の参議院議員選挙で社会党が圧勝、廃止運動が盛り上がりを見せた。省内では見直し案を打ち出し、国民の怒りを収める対応策に腐心する毎日が続いていた。ある夜、田中とこんなやり取りを交わした。

田中「消費税の見直しにかける我々の思いが国民に伝わる、何か心に響くような言葉が欲しいなぁ」
筆者「例えば、どういうイメージの言葉ですか?」
田中「要するに、大蔵省が『国民の皆さんの為に、誠心誠意、見直しを検討しています』ということを、ストレートに伝える言葉ですよ」
筆者「だったら、『きめ細かい見直しをします』と、“きめ細かい”を強調したらどうですか?」
田中「よし、その言葉貰った。有り難う」

嬉しそうに顔を綻ばせ、喜びを身体全体で表わした。感情を表に出さないエリート然とした官僚が多い中で、異色の存在だった。

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香川も頭角を現していた。小沢一郎官房副長官の秘書官を経て主計局に戻ると、公共事業担当等の主査を5年務める。主計官としては防衛係として、“聖域”とされたアメリカ軍への“思いやり予算”に手をつけ、初の減額に踏み切って省内で話題になった。更に、公共事業担当の主計官を3年。当時、政界の中心にいた小沢の存在感も相俟って、香川の名前は永田町でも知られるようになる。一方、“予算のプロ”として名を馳せたのが木下だった。主計局には、予算の大枠を作る総務課企画係という部署がある。主計局の参謀本部とも言うべき中枢だが、木下はここに課長補佐や主計官として7年いた。木下については、記者としてほろ苦い思い出がある。接点が無かったこともあって、次官候補に上がる度に筆者は疑問符を付けていた。だが、同期のトップランナーが就く企画担当主査になったのは木下だった。振り返ればヒントはあった。ある幹部は、木下についてこう洩らしていた。「オレが支えてやらないとダメなんだよ」。一見学生のような風貌と、冷静で緻密な頭脳。派手なタイプではないものの、省内での評価は高まっていた。木下が一歩先んじたのに気づかなかった、自らの不明を恥じるばかりだ。主査・主計官を経て、“54年組”は次官レースの第2関門である課長職を迎える。財務省の場合、官房の文書課長・秘書課長・総合政策課長(旧・調査企画課長)に加えて、主計局総務課長の4課長の何れかを経験しない限り、次官になるのは粗不可能だ。戦後入省の次官31人で4課長を経験していないのは、大倉真隆と薄井信明の2人だけだ。“54年組”は、秘書課長を田中、総合政策課長と文書課長を木下、主計局総務課長を香川が務めた。つまり、この時点で次官候補は3人に絞られたのだ。だがこの後、“54年組”は次官のイスを巡り、“政治主導”の嵐に翻弄されることになる。 《敬称略》


岸宣仁(きし・のぶひと) 経済ジャーナリスト。1949年、埼玉県生まれ。東京外国語大学卒業後、読売新聞社に入社。横浜支局を経て経済部に勤務し、大蔵省・通商産業省・農林水産省・経済企画庁・日本銀行・証券・経団連機械・重工クラブ等を担当した。1991年に読売新聞社を退社後は経済ジャーナリストとして、知的財産権・技術開発・雇用問題等をテーマに活動している。著書に『知財の利回り 世界の頭脳が収奪される』(東洋経済新報社)・『職業砂漠 働きすぎの時代の悲劇』(朝日新聞出版)等。


キャプチャ  2015年7月23日号掲載
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