【総理の影・菅義偉の正体】(03) 父・和三郎が満州で見た開拓団“集団自決事件”

安倍晋三の憲法改正への思いが、祖父の岸信介に繋がることはよく知られている。一方、菅義偉には一見してそうした血筋への拘りなど見えてこない。だが、政治家としての彼には、否応なく父親の影が見え隠れする。しかも、菅の父は“満州”というキーワードで岸信介と交差するのだ。安倍と菅の因縁は、70年前の戦争に遡る。

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「お父さんが東京にお見えになる時は、私が運転手として案内していましたから、よく知っていますよ。官房長官とは違い、早口でよく話される方です。ただ、かなり秋田の訛りが強いので、私には何を仰っているのかさっぱりわかりませんでした」。そう振り返るのは、横浜市議会議員の遊佐大輔(34)である。2011年4月の市議選に当選するまで、菅義偉の秘書を務めてきた。遊佐は、豪放磊落な菅の実父・和三郎のことが強く印象に残っているという。菅は、父・和三郎と母・タツの長男として、1948(昭和23)年12月6日、秋田県雄勝郡秋ノ宮村に生まれた。故郷は1955年4月、雄勝郡内の秋ノ宮村・院内町・横堀町が合併して雄勝町となり、更に2005(平成17年)年4月に湯沢市に編入された。湯沢は小野小町の出生地で、人気のブランド米『あきたこまち』の産地としても知られる。新潟県魚沼市と同じく、雪深い米どころだ。終戦から3年経た、所謂“団塊の世代”の菅自身も、農家の長男として育った。が、実家は米づくりをしていた訳ではない。菅の父・和三郎は、終戦から間もなく、「これからは米だけでは食っていけない」と言い、苺の栽培を始めた。地元の『こまち農業協同組合』に対抗し、『いちご生産集出荷組合』を創設。専ら、地元の『秋ノ宮いちご』の生産に熱を入れた。湯沢は全国的に知られる苺の産地ではなかったが、豪雪地帯の寒冷地故に、出荷を遅らせた。これが大成功する。本人の名前から付けた“ニューワサ”というブランドで、秋ノ宮いちごを売り出した。2010年6月28日に92歳で鬼籍に入るまで、和三郎はいちご組合の組合長として、独自の生産・出荷・販売ルートを築く。

この間、時折上京し、東京や千葉・神奈川を訪ねた。国会議員となった息子の秘書に運転手を頼んだのは、観光のためだけではなく、出荷・販売ルートを作る挨拶回りだったのである。「おっかない親父でしたよ、官房長官のお父さんは。兎に角、声の大きなお父さんというイメージがありますね」。そう懐かしむのは、湯沢市議会議長の由利昌司だ。由利は、小学校時代から高校まで菅と同じ学校に通った幼馴染である。「和三郎さんは、『稲作農業だけでは、生活が豊かにならない。もっと高収入の作物に切り替えないといけない』というのが口癖でした。それが苺だったんです。『甘いだけでは駄目で、日持ちがよくないといけない』と改良を重ねてつくったのが、“ワサ”というブランド品種でした。それを自ら、東京や大阪の卸売市場に持ち込んで営業に行ったもんです。ベテランの東京の市場関係者なら、大抵今でも“ワサ”というと和三郎さんが作った苺だと覚えています。私が議員になって、築地の卸売市場に市場調査に行った時等は、専務さんが応対してくれてね。その時も和三郎さんの話題が出て、相当有名なんだなと感心しました。まだ湯沢と合併する前の雄勝町の頃でしたけど」。息子の義偉は、そんな発想豊かな父親の背中を見て育った。苦労人というイメージがあるが、菅の実家は頗る裕福とは言えないまでも、貧農ではない。由利が続ける。「まあ、貧しくはなかったでしょうね。当時、“冒険王”という月刊の漫画雑誌があって、義偉君の家にはそれが毎月配達されていました。冒険王を買ってもらえる子供なんて、1学年に2~3人いるかどうか。当時はそんな時代でした。義偉君の家は、小学校から直線で100mほどしか離れていませんでしたので、漫画を読みたい友達が家の前で並んで待っていたのを覚えています。本が届くと、義偉君は友達に封を開けさせて、先に読ませていました。多分、自分自身は夜に読んでいたのでしょうね」




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菅の父・和三郎は、いちご組合を率いる傍ら、雄勝町議会の選挙に出馬し、町会議員となる。地元の名士として、頼りにされる存在だった。「和三郎さんが雄勝町の町会議員になったのは、義偉君が中学校を卒業した頃ですが、そこから4期(16年)議員をやりましたね。次は議長という5期目の選挙の時も、楽々当選と言われていたのですが、あまりに余裕があり過ぎた。『俺は応援せんでええから』と他の候補者の支持に回ってしまい、本人が落ちてしまった。それ以来、政治の世界からすっぱり引退しました。もう義偉君は東京に出ていました」(前出の由利)。上野に夜行列車で向かった集団就職組だという話は嘘ではないが、巷間伝えられているように、大学に行けなかった家ではない。半面、息子の義偉は、いちご組合や町議会の活動を通じて名を成した父親に反発したのだろう。秋田を離れることになったのもそのせいだと、友人たちは口を揃える。実際、父親はインパクトのある人物だった。秋田県湯沢市にある実家近くを歩くと、矢鱈と菅姓が目に留まる。親戚筋も多いが、アカの他人も少なくない。例えば、戦時下の1942年に23歳4ヵ月の最年少横綱に昇進した照国も、本名を菅万蔵といった。1918(大正7)年生まれの菅和三郎と同じ学年だ。近所に住んで同じ小学校に通い、2人はよく相撲を取った。少年時代は、和三郎のほうが強かったらしい。「大抵、俺が勝った」。長じて、そう自慢していた。農家出身と言われる菅の父親が、本格的に農業を始めたのは戦後からである。

「和三郎さんは、男6人・女5人の11人兄妹の長男でした。1つ違いの次男の亀三郎さんが戦死してしまいましたが、三男の栄二郎さんは戦後、東北電力に入って湯沢支店長になりました」。そう説明してくれたのは、雄勝町に住む小島貞助(87)だ。小島は、和三郎が亡くなった2010年から2013年9月まで、2代目のいちご生産集出荷組合の組合長を引き継いできた。菅家とも縁が濃く、当人は頗る記憶力がいい。「義偉さんの祖父である喜久治さんが明治26(1893)年生まれで、うちの親父の隆之助と同級生で兄弟分でした。家も50mほどしか離れていないので親しくしていたのですが、そこに菅の本家もあった。本家は後に無くなり、喜久治さんたちの分家が残りました」。和三郎の実弟で三男の栄二郎は、秋田大学の前身である秋田鉱山専門学校を卒業して東北電力入りしたように、元々菅家は電力会社に勤務した者も多い。義偉の祖父である喜久治は、増田水力電気という秋田県内の電力会社の社員だった。先の小島が記憶を辿る。「明治33年に秋ノ宮に椛山発電所という水力発電所が作られ、そこの所長になったのが菅本家の菅喜一郎さん。分家の喜久治さんが、その下で椛山発電所に勤務していました。これを運営していた増田水力電気が、終戦の昭和20年以降に東北電力になるのです」。菅の祖父たちの働いていた椛山発電所は、秋田県内にある院内銀山という鉱山開発に電力を供給する為の会社だった。元はと言えば、院内銀山は江戸時代に秋田藩が進めた鉱山事業だ。明治維新後、財閥系の古河鉱業所に払い下げられた。時の鉱工業の近代化政策の下で設立されたのが椛山発電所である。日本に現存する発電所の中で2番目に古いその建物は、院内銀山から切り出された石材を用いて造られた石造切妻屋根が目を引く。貴重な歴史遺産と言える。縦長の窓枠の上部が半円のアーチ状になっていて、洋館を思わせる瀟洒な外壁や柱もまた風情がある。

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椛山発電所までは、菅義偉の育った秋ノ宮の実家から徒歩で10分くらいだろうか。戦後も、喜久治はそこに勤めていたという。菅自身、お爺ちゃん子で喜久治に可愛がられた。『あきたこまち』の産地であるこの一帯はどこも農地を持っているが、菅家の家計における農業の比重はあまり高くなかったかもしれない。11人兄妹の長男として生まれた和三郎は、生来、進取の気性に富んでいたのだろう。尋常高等小学校を卒業後、戦時中の1940(昭和15)年頃に満州に渡った。戦前から戦中にかけ、秋田県を始め、全国の農村地域の住人が開拓団を結成して満州に入植した。が、和三郎は違った。『南満州鉄道』に入社し、エリート職員として終戦を迎える。安倍晋三の祖父・岸信介が、商工省の高級官僚として満州政策で辣腕を振るったのは知られたところだが、奇しくも菅一家も満州と深く関わってきた。『南満州鉄道』(通称『満鉄』)は、1906(明治39)年から1945(昭和20)年まで存在した。本社を中国の大連に置いた半官半民の特殊会社だ。鉄道事業を中核とし、炭鉱や製鉄・学校・農地に至るまで広い事業を展開した。満鉄は満州国の都市開発構想に則った国策会社であり、1931(昭和6)年の満州事変以降、関東軍の管理下に入った。と同時に関東軍は、『満蒙開拓団』と呼ばれる満州と内モンゴルへの入植事業を進める。100万世帯・500万人という満州国への移民政策を掲げ、日本政府を通じて全国の市町村にノルマまで課した。1936年までの5年間を“試験的移民期”と位置付け、年間3000人が移住し、1937年から1941年までの5年間の“本格的移民期”には、年3万500人に急増する。そして、折からの昭和恐慌に依って疲弊した農村や都市部の失業者たちが、その国策に乗せられた。おまけに、政府は混迷を極める対中戦争の兵力を補う為、農村から『青少年義勇隊』を募った。

因みに外務省に依れば、建国時に僅か24万人だった満州国全体の日本人は、終戦時に155万人に増えている。その内、凡そ27万人が開拓団関係者だ。諸説あるので正確な数は不明だが、1956年に外務省と開拓民自興会が作成した資料に依ると、全国の開拓団入植者は19万6200人、義勇隊は2万2000人としている。この内、死者・行方不明者は8万人を優に超える。急激な移民政策の挙げ句、多くの農民が戦争の犠牲になったのは間違いない。中でも、9500人ほどの秋田県の開拓団と義勇隊のうち、引揚者は3500人しかいない。菅の父・和三郎が満鉄入りした時期は、正しく日本が国策として満州の移住を進めた“本格的移民期”に当たる。対中戦争が泥沼化し始め、対米開戦を間近に控えた頃だ。「和三郎さんは、『満州へ行って一旗上げるぞ』と向こうへ行った。それで満鉄の試験を受けたと聞きました。その昭和15(1940)年頃は、ここら(雄勝地域)から沢山、開拓団として満州へ入植したけど、和三郎さんが満鉄に入れたのはそれなりのコネがあったんじゃないか? あんまり満州時代のことは喋ってくんねかったけど、事務屋ではねがったそうだ。『鉄道敷設の為に現場を歩いてた』って話してたっけな」。元いちご組合長の小島(前出)が回想する。となれば、和三郎が満州に移り住んだのは22歳の頃だ。本人は満鉄入社後、地元に残してきたタツを呼び寄せ、新婚生活をスタートさせた。広い官舎に住み、中国人の家政婦を雇って、裕福な暮らしができたという。「奥さんのタツさんは、和三郎さんが満州に行った頃、秋ノ宮第1尋常高等小学校で先生になったばかりだったんだ。多分、許嫁だったんでねぇべか。タツさんは大正10年生まれだから、和三郎さんの3つ下。和三郎さんが好きで、昭和18(1943)年に追いかけて満州さ行ったっていう話だったな。タツさんはうちのかあちゃん(夫人)の受け持ちの先生で、あの時は突然いなくなって子供たちが騒いだそうなんです」(小島)

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2人が満州で所帯を持った翌1944年には長女が生まれた。だが、幸せな暮らしは長くは続かなかった。対中戦争の先行きが見えず、戦況が悪化の一途を辿る中、“日本の生命線”と位置付けられた満州国内では、殆どの成人男性が徴兵されていった。和三郎のように、満鉄の職員として満州で働いていたケースは稀であり、大多数は開拓団や青少年義勇隊として満州に移り住んだ。開拓団で入植した一家の主は、家族の元を離れ戦場に駆り出された。日本が『ポツダム宣言』を受け入れて無条件降伏する1945年8月15日から遡ること1週間前の8日、ソビエト連邦が宣戦布告し、満州に攻め入った。すると、満州国の“守護神”として満鉄や開拓団の事業を推進してきた関東軍は、闘うどころか敗走を重ねた。ポツダム宣言の受諾後、武装解除に応じた後は文字通り無力になる。この間、最も悲惨だったのが満蒙開拓団の農民たちだ。本来、守ってくれる筈の関東軍が既に逃げてしまっている。或いは、捕虜になってシベリア送りを待っている。村に残された女子供と老人たちは、どうすればいいか判断がつかず、逃げることもままならなかった。そんな満蒙開拓団の中で、最近まで明らかにならなかった悲劇がある。それが、菅の生まれ故郷である秋田県雄勝郷開拓団の集団自決である。雄勝郷開拓団の多くの農民は、満州の哈達湾という地域に入植した。『満蒙開拓団雄勝郷の最後』(編著・伊藤正)と題した小冊子に、その悲劇の一端が記されている。雄勝郷開拓団の沿革概要の一節を紹介する。「8月9日、蘇聯(ソ連)の宣戦なるに及び、17歳より50歳までの男子根こそぎ動員となり、(開拓)團内は老幼婦女子のみとなり、悲壮の決意を以てその運営に當たらねばならぬ状態となりました」

ソ連軍の侵攻と共に、中国人の満州反乱軍が村を襲った。開拓団には銃や手榴弾・日本刀等の武器もあったが、女子供だけでは太刀打ちできない。「8月19日午後4時頃、多少小康を得たるも、手持ちの弾丸残り少なとなり、且つ疲労甚しく、このまま生きて恥を宙外に曝さんより死して護國の鬼と化さんと、老幼婦女子260餘名、遥か東方を伏し拝み、互に相擁し、相勞はり、あわれ痛ましくも手榴弾により、従容悲愴の最後を遂げたのであります」。秋田県の調査に依れば、開拓団の在籍376人の内、死亡者は273人、19日の死者は253人となっている。この集団自決のうち、15歳以下の子供が、男子73人・女子66人もいる。雄勝郷開拓団の妻たちは終戦も知らされないまま、戦地に向かった夫の足手纏いになるまいと決意し、命を絶ったのだという。「死にたくない」と泣き叫ぶ子供と無理心中した。中には、逃げ出して行方不明になり、残留孤児になった子供たちもいる。母親を亡くした遺族の1人である畑山陣一郎が言った。「雄勝郷開拓団の悲劇がわかったのは、2007年2月に編著者の伊藤正先生が事実を書いてからです。歴史家の伊藤先生は、8月19日になると、密かに供養に集まっていた開拓団の男たちの存在を知ったといいます。私の父も生き残りの1人ですが、妻たちを死なせて自分だけが生き残った罪の意識が強く、息子の私にすらこのことを話してくれませんでした。しかし、悲劇を闇に葬っては決してならない」。菅の父・和三郎は引揚者の1人でもある。いちご組合の小島が声を落とした。「和三郎さんも向こうで召集されたそうだなす。兵隊に取られて、あの辺りを守っていたんだな。遠くまでいかなかったから、その後に開拓団と一緒になって引き揚げてこられたんだな」

和三郎は、ソ連軍や中国反乱軍の脅威から必死で逃れた。朝鮮の国境に近い通化に逃げ延び、そこで偶々生き残った雄勝郷開拓団の隣人に出くわした。集団自決を知り、放心状態になっている友人を自宅に匿った。終戦1年前の1944年に満州で生まれ、父親の和三郎と一緒に帰国した菅の長姉が言葉少なく語った。「終戦を迎えた時、母は妹を身籠っていました。1歳の私に記憶はありませんが、後から聞かされたところでは、妹は逃げる途中で生まれたんです。当時の奉天――今の瀋陽ですけど、そこの小学校のような建物に隠れ、母は妹を産んだ」。和三郎は、一家3人の身を守りながら、まさに命辛々秋田に引き揚げてきた。戦後生まれの菅義偉は、成長するに連れて、戦争の惨劇を潜り抜けてきた豪胆な父親や生まれ故郷を意識せざるを得なかった。 《敬称略》


森功(もり・いさお) ノンフィクション作家。1961年、福岡県生まれ。岡山大学文学部卒。『週刊新潮』記者等を経て、2003年にフリーに。政治・経済・事件等の分野で数多くの作品を発表する一方、航空問題にも造詣が深く、『血税空港 本日も遠く高く不便な空の便』『腐った翼 JAL消滅への60年』(共に幻冬舎)等の著作がある。近著に『紛争解決人 世界の果てでテロリストと闘う』(幻冬舎)。


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