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「すべては僕の驕りでした」――懺悔告白! 猪瀬直樹×田原総一朗

徳洲会からの借入金問題で辞任して10ヵ月余。マスコミに対して沈黙を続けていた猪瀬直樹前都知事が取材に応じた。田原氏の問いに初めて明かした、激動の1年間の苦悩と悔悟。

田原「猪瀬さんが東京都知事に就任したのは一昨年(2012年)12月、そしてその1年後の昨年(2013年)12月に知事を辞任しました。その1年間だけで都知事就任、東京オリンピック招致運動とその成功、ゆり子夫人の病気の発覚と急逝、徳洲会スキャンダル、知事辞任が続いたわけです。僕はね、1人の人間にこんな天国と地獄のような激動の1年が訪れることは、そうそうあり得ないと思う」
猪瀬「そうかもしれません」
田原「今日は、徳洲会からの5000万円の資金提供問題でマスコミに沈黙を続けてきた猪瀬さんに、あらためて事実を質したいと思います」




猪瀬「まず、この場でお詫びをさせてください。選挙で433万余という、史上最多の票を投じていただきながら、僕の軽率な行動によって都民の皆さんの期待と信頼を裏切ってしまったことを、本当に申し訳なく思っています。都政に混乱をもたらし、停滞させたこと。支えてくれた秘書・スタッフに辛い思いをさせたこと。妻ゆり子に自分勝手な行動について詫びることができないまま逝かせてしまったこと――悔いても悔やみきれません」
田原「まさに痛恨の極みでしょうが、いま、猪瀬さんはなぜこんなことになったと思っていますか」
猪瀬「やはり……自分の中にあった驕りが根本の原因だと思います。責められるべきは、僕1人です」

田原「順を追ってお聞きします。知事選前の一昨年11月6日、徳洲会の湘南鎌倉総合病院で徳田虎雄理事長(当時)に会いましたね。そもそもなぜ、徳田理事長に会ったんですか」
猪瀬「当時、僕は石原慎太郎さんから後継指名を受けたところでした。けれど、僕は選挙のことを何も知らない素人で、何をどうしていいか分からなかった。そんな中、業界団体から大小の宗教団体から、様々な人がやってきては選挙の話をしていくわけです」
田原「前知事に後継指名された有力候補だから」
猪瀬「具体的に何をしてくれるのかは分からないまま、とりあえず頭を下げて、『選挙の時にはよろしくお願いします』と言っていました。今思えば、事態が思わぬスピードでどんどん進んでいく、一種の混乱状況だったと思います。そんな時に一水会(民族派団体)の木村三浩さんがやってきて、『選挙大丈夫ですか、徳洲会の徳田理事長を紹介しますよ』と言ってくれた」

田原「木村さんとは、それまでどういう付き合いだったんですか」
猪瀬「木村さんは尖閣諸島の問題のときに、4~5回都庁を訪れて、副知事室でも会っています」
田原「その年の春に石原都知事が尖閣の購入計画をぶち上げていた時ですね」
猪瀬「木村さんは石垣市長を連れて来たりしましてね。それから連絡が来るようになっていたんです。9月には一水会代表が鈴木邦男さんから木村さんに代るパーティーがあって、僕も出席しています」
田原「そのパーティーには僕も行きました。木村さんは人懐っこいところがあるんだよね。それで鎌倉の病院で徳田理事長に会った時には、支援の中身について具体的に頼んだんですか」
猪瀬「いいえ、その時は、よろしくお願いします、と挨拶しただけでした」

田原「しばらくして木村氏から連絡が入り、今度は11月14日に麻布の和食レストランで徳田理事長の息子・徳田毅衆議院議員(当時)に会った。この時はどんな話だったんですか」
猪瀬「資金面での支援について話題になりました」
田原「先ほど選挙のことは何も知らなかったとおっしゃったが、資金面で不安があったんですか」
猪瀬「当時はまだ僕の支援体制が固まっていませんでした。この2日後に労組の連合が支援を表明してくれたことをはじめ、自民党本部や公明党中央幹事会が支援を決定し、渋っていた自民党の東京都連も本部一任を決めてくれた。徳田毅議員に資金援助を依頼したのは、一気に支持基盤が出来上がる、その前の段階だったんです」
田原「当時、猪瀬さんは自己資金はいくらぐらいあったんですか」
猪瀬「4000万円くらいはありました。で、結果的にはこの範囲で選挙資金は足りました」
田原「しかし、選挙前は足りないかもしれないと思っていた?」
猪瀬「ええ。1億円かかると言う人もいましたから」

田原「そして猪瀬さんは1週間ほどたった11月20日に、議員会館を1人で訪ねて、徳田議員からお金を受け取った」
猪瀬「はい。前日に議員から電話がかかってきて、僕に『1人で来てほしい』と。『木村さんじゃないんですか?』と尋ねると、『いや、(猪瀬さんが)直接おいでください』ということでした。後から思うと、この電話でもう不要になったと言えばよかった。支援体制がまとまって、資金の不安は解消されつつあったわけですから」
田原「でもそう言わなかった」
猪瀬「そもそもこちらからお願いした話でしたし」
田原「やっぱり出してくれるなら借りておこうという気持ちもあったのでは?」
猪瀬「……当時の僕には驕りがあったと思います。みんなが僕を支援してくれるのは当然というような傲慢な部分が確かにあった。結局、ひとり議員会館を訪ねることになりました」
田原「しかしそんな時期に議員会館で現金の受け渡しなんて、目立ちませんか」
猪瀬「ちょうど4日前に衆議院が解散して選挙態勢に入り、開館は空っぽだったんです。その日、人気のない廊下を歩いて徳田議員の部屋に入ると、もう応接間のテーブルの上に紙袋が置いてありました。議員が『5000万円ご用意しました』と言い、紙袋を覗きこむと紙幣の束が見えました」

田原「その時に、後に問題となる借用証を書かれたわけですか」
猪瀬「はい。徳田議員が『ここにサインを』と言って差し出した紙はA4判1枚で、“借用証”“徳田毅殿”とその日の日付があらかじめ印字されていました」
田原「金額は?」
猪瀬「空欄になっていたので、そこに5000万円と記入して、罫線の部分に住所と名前を書きました」
田原「後にこの借用証が明らかになった時に、印紙が貼っていないことが問題になりましたが、当日は変に思わなかったんですか」
猪瀬「お恥ずかしい限りですが、印紙を貼らなければならないということを僕は知らなかったんです。ですがその時、これは借りてはいけないお金かもしれない、という思いが過りました。でも、そこでストップする勇気も僕にはなかった」
田原「そこは分からないでもない。こちらから頼んで用意させておいて、やっぱりいらないでは相手の厚意を無にすることになりますからね。それをしたら、敵対関係になっても仕方がない」
猪瀬「断る勇気はありませんでした」

田原「これはもう明らかになっていることだからいいと思うけど、僕も政治家と金についてはとても苦労したことがあります。1990年代の終り、野中広務さんが官房長官だったときに、お茶が届けられたと思ったら中身が現金1000万円だった」
猪瀬「それは官房機密費のお金という話でしたね」
田原「そう。受け取るわけにはいかないが、返し方が難しい。面子を潰すことになりかねないから、いろんな政治家に仲介を打診してみたがみんな当時の野中さんに恐れをなして何もしてくれない」
猪瀬「結局、どうしたんですか」
田原「長い手紙を書いて、自分で京都まで返しにいきました。猪瀬さんはまずいとどこかで思いながら借りた5000万円を、どうする気だったんですか」
猪瀬「そもそもの話は選挙支援ということだったわけですが、このお金は選挙には使わず、僕個人の借金として、しばらく保管してから後日返すしかないと思いました。それで帰って妻にお金を渡して、『このまま貸金庫に入れて保管しておいてほしい』と言った以外は、誰にも言わなかったんです」
田原「そういうお金関係は、奥さんが担当されていたんですか」
猪瀬「いえ、会計担当は別にいますが、これはあまり人に言えないお金だし、そのまま返すものだから、広めたくないという気持ちがあって妻に頼みました。その一方で、選挙に落ちたりお金がなくなってしまったらという不安も確かにあって、万一のためにお金を借りていたいという狡い気持ちも僕の中には混在していました。それを選挙の多忙と昂揚感の中で適当に放置してしまったわけです」

田原「そして12月16日の選挙で当選。結局、貸金庫の5000万円はそのままだったわけですか」
猪瀬「ええ。その時点では手つかずでした」
田原「そこから木村さんに謝礼として500万円払ったのは、その後?」
猪瀬「当選してほっとしている時に、木村さんがお金を貸してほしいと言ってきたんです」
田原「謝礼ではなく、借金の申し込みだった?」
猪瀬「はい。5000万円の中から一時的に500万円を木村さんに貸し、後日返していただきました。残りの4500万円はずっと貸金庫で保管していましたが、後に都議会の質疑で、まったく手つかずだったと説明したのは正確な表現ではありませんでした。この点もお詫びします」

田原「ところで猪瀬さんは、知事として東京をどうするつもりだったんですか」
猪瀬「副知事時代から地下鉄の一元化や羽田の国際化、東京を24時間都市にするための深夜バスの運行などの課題に取り組んでいましたが、やはり最大はオリンピックの招致を実現することでした。今の日本を覆っている閉塞感を打破するためには、オリンピックで気持ちを変えたいと思いました」
田原「すぐに招致活動が始まった?」
猪瀬「年が明けて2013年1月7日が立候補ファイルの提出の締切日で、ここから招致活動が解禁となったんです。僕はロンドンに行って、妻とともに記者会見に臨みました。その他、予算の査定などもあり……」

田原「忙しいのは分かりますが、借りたままになっている5000万円はどうするつもりだったんですか」
猪瀬「ロンドンから帰って、すぐ木村さんに連絡を取りました。徳田議員にお金を返す段取りをする夕食会を設定してほしいと」
田原「段取りなんかせずに木村さんに持っていかせようとは?」
猪瀬「僕と徳田議員のやり取りでしたから、それは思わなかったですね。まず議員に会って、お礼とともに結果的に使わなかったことを説明するつもりでした。そして、2月4日にレストランで徳田議員と会うことが決まったんですが、当日午後になって、約束が急にキャンセルになったんです」
田原「なぜ?」
猪瀬「週刊新潮が徳田議員の女性スキャンダルの取材に来たというんです。そしてこの日、議員は国交省の政務官を辞任。会食どころではなくなったということでした。その記事は実際にその週発売の号で大きく掲載されていました」

田原「この2月4日に徳田議員に会えていれば、猪瀬さんは知事を辞めなくてもよかったかもしれない。その後、なぜすぐに会うことができなかったんですか」
猪瀬「安倍内閣最初の政府高官辞任ですからね。徳田議員の周囲は大騒ぎで、とても近づけない状態でした。しばらく時間を置こうと思っているうちに、予算議会やオリンピック招致活動などに忙殺されてしまいました。3月にはIOC評価委員会が来日し、彼らを案内して東京の施設や開催能力の高さをプレゼンテーションしていましたし、4月にはニューヨークに出張もしました。この時のニューヨークタイムズ紙のインタビューで、僕が『イスラムは喧嘩ばかりしている』という発言をしたと騒ぎになりました」
田原「ああ、あの時」
猪瀬「引っかけ質問にやられた僕も脇が甘かったんですが、また身動きが取れなくなってしまった。それでも機会があったときにお金を返しやすく出来るようにと、生活の拠点のあった郊外の自宅近くの銀行の貸金庫に移したんです」
田原「それはいつごろ?」
猪瀬「5月の初旬ですね」
田原「奥さんに指示して」
猪瀬「そうです。そうしたら、5月下旬に妻の病気が判明しました。悪性の脳腫瘍でした」

田原「……予兆のようなものはあったんですか?」
猪瀬「体重が減ったり、テニスのボールが当たらなくなったり、言葉に言い間違いがでたりして、軽い脳梗塞かもしれないと思って病院に連れて行ったんです。それがまさか……。5月26日、僕が大相撲5月場所で優勝した白鵬に都知事杯を手渡し、国技館を出た時に医師から電話がかかってきて、余命数ヵ月と伝えられました」
田原「まったく突然だったんですよね」
猪瀬「ええ、まったく思いもよりませんでした。翌日夜に僕はロシアのサンクトペテルブルクに発ち、多くのIOC委員の前でプレゼンテーションをしなければならなかったのですが、病院のベッドに妻を残したまま出発するのは本当に後ろ髪を引かれる思いでした」

田原「奥さんの状況は誰にも言わなかった?」
猪瀬「言っても、周囲を動揺させるだけですからね。メディアも知りません。僕がロシアから帰国した後の6月12日、妻は5時間余に及ぶ手術を受けました。延命効果はあると聞き、期待していましたが、術後4日で意識がなくなり、9日で容体が急変、昏睡状態に陥りました」
田原「しかし、また海外に行かなければならなかったんでしょう?」
猪瀬「ええ、7月初めにスイスのローザンヌです。その時にはもう、危篤でした。結局、7月21日に息を引き取りました」
田原「あまりにもあっという間ですね」
猪瀬「急展開過ぎて、心が追いつきませんでした」

田原「僕にも経験があるけれど、女房が死ぬと、どこに何があるのかまったく分からない」
猪瀬「情けないけれど、預金通帳ひとつ、どこにあるか分からなかった。5000万円の現金を入れてある貸金庫の鍵は見つかりましたが、銀行に聞くと、名義が妻のものなので、夫の僕でもそのまま開けることはできないというんです」
田原「名義変更は大変でしょう」
猪瀬「正式な相続人だと証明するために、20種類近い書類が必要でした。結局、金庫が開いたのは8月24日になってからでした。特別秘書に事情を説明していたので、彼に返却を頼みました。彼は木村さんに貸した500万円を返してもらった上で、9月25日に徳田議員の母親に5000万円を返却、借用証を受け取ってきてくれました」
田原「金庫が開いてから、どうして1ヵ月もかかったんですか」
猪瀬「9月7日にブエノスアイレスでIOC総会が開かれ、2020年東京開催が決定しましたが、そこに彼も同行していましたから、なかなか時間が取れなかったのだと思います」

田原「そこに大きな問題がありますね。その間、9月17日に選挙違反事件で、東京地検特捜部が徳洲会を強制捜査しているわけです。普通の人は、猪瀬さんは強制捜査があったから、慌てて5000万円を返したんだ、でなけりゃ返すつもりはなかったんじゃないかと思ったんですよ」
猪瀬「そう思われるのは仕方ないですが、実際には先ほど説明した通りなんです。もっと早く返したかったが、なかなかその機会を持てなかった」
田原「それは決定的な失敗だった。5000万円が後ろ暗い金ではないかと疑われる余地ができましたから」
猪瀬「そこは後に、特捜部の調べに対して、預金通帳など資料も提出し、また聴取も受けましたが、個人の借入であり、選挙に使ってはいないことや、返却をめぐる経過も明らかになっています」
田原「その結果、今年(2014年)の3月に収支報告書の不記載で略式起訴されたわけですね」
猪瀬「はい」

田原「この問題が発覚してからの猪瀬さんの言動が二転三転したのも残念だった。最初は朝日新聞のスクープで、5000万円を返してから約2ヵ月後の昨年11月22日付の報道だった。今年、この報道が新聞協会賞を受賞して、朝日は取材経過について記事を書いています(9月4日付)。それによると、報道前日に朝日の社会部の記者が猪瀬さんを直撃すると、『知らないと言ったら知らない』と言ったという。これはどういうことなんですか」
猪瀬「気が動転してとっさに否定的に反応してしまいました」
田原「突然で?」
猪瀬「深夜にパーティーを終えたところで……」
田原「それから都議会でいろいろ突っ込まれますよね。しかし猪瀬さんが借用証を提出したのが26日になってから。4日も空いているから、あれは偽造したんじゃないかと言われてしまった」
猪瀬「はい。でも僕としては借用証も書き借金であることは明らかで、徳田毅議員に聞いてもらえればすぐわかると高を括っていたんです。すぐに出せばよかったんですが……。しかも徳洲会が鹿児島2区の公選法違反事件で強制捜査を受けていて、なかなか徳田議員が公の場に姿を見せなかった。結局、徳田議員が借用証を認めたのは、選挙違反問題がすべて終わった翌年(2014年)の2月になってからでした」

田原「東電病院の問題も言われましたね。猪瀬さんは東電病院は売却すべきだと言っていて、徳洲会は買いたいと思っていた。それで猪瀬さんが東電と徳洲会の間に入って斡旋し、この5000万円を謝礼として得たという疑惑が出ましたね。そこはどうなんですか」
猪瀬「徳洲会の徳田虎雄理事長や毅議員からも何らの依頼を受けた事実も便宜を図った事実もいっさいありません。東電病院は社員だけの診療をしていて、赤字なんですね。僕は副知事時代、料金値上げを発表した東電に対し、その前にコストカットを、と提案していましたから、当然それは売却すべきだと言いました。売却となると、これは公募になります。何十社もが手を挙げるでしょう。そういう中に徳洲会が手を挙げていたとしても、僕が何か働きかけられる余地はありません。東京地検特捜部は徳洲会側の資金の流れを追う中で、僕の件も調べたわけですが、その中で2014年になってから、僕自身は一度も徳洲会側と接触していないということが確認されています」

田原「結局、昨年12月19日に知事を辞任されたわけですが、何を思って辞められたんですか」
猪瀬「……やはり、徳洲会にお金を借りたことは、僕が政治家としてあまりにも軽率過ぎたということだったんです。何も便宜は図っていませんが、利害関係者からお金を借りたこと自体、政治家としての認識が甘かった。僕は道路公団の時でも副知事の時でも、政策を作ってきたんです。しかし、政治家としての自覚に乏しかった。選挙で負託を受けた立場になっているのだという認識が、足りなかったと反省しています。そしてこれ以上、僕のことで都政やオリンピックの準備に停滞をもたらせないと思いました」
田原「猪瀬さんは傲慢とか威張りん坊と言われてきたけれど、さすがにこの1年はこたえたでしょう。しかし、表舞台から姿を消して蟄居されている間に書かれた“さようならと言ってなかった”が今度出版されますが、読んで文章の見事さに僕は驚きました。今日はいろいろ訊きましたが、作家・猪瀬直樹の今後には、僕は期待しています」
猪瀬「ありがとうございました」


キャプチャ  2014年11月6日号掲載


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