最北の島、続いた戦禍…“終戦”後、占守島にソ連侵攻――3000人死傷、「避けられたはず」

Shumshu Island 01
『終戦の日』の15日、国内外で戦没者を追悼する行事が行われた。70年前のこの日に終戦を伝える“玉音放送”が流れて以降も続いた戦禍がある。千島列島の最北端に浮かぶ小島・占守島。1945年8月18日、ソ連軍と日本軍守備隊が衝突した。双方で3000人以上が死傷したとされるが、今も正確な経過はわからない。島には遺骨が取り残されている。占守島で陸軍伍長として任務に当たった小田英孝さん(87)に依ると、日本の無条件降伏が軍当局から正式に伝えられたのは1945年8月16日。翌日夜には酒や羊羹等の備蓄食料が配られ、兵舎では細やかな宴会が開かれた。「これでやっと家族の元に帰れる」「故郷へ帰ったら何をしようか」――兵士たちに安堵感が広がっていたという。就寝前、島の北側から砲撃の音を聞く。同年2月に着任してからアメリカ軍機の散発的な空襲はあったが、敵軍と交戦したことは一度も無かった。占守島は、カムチャツカ半島まで海峡を挟んで僅か12kmの距離。この時も、「ソ連兵が遊びで撃ってるのかな?」という程度にしか考えなかった。「敵が上陸した。戦闘準備にかかれ」――状況が一変したのは18日未明。兵舎に非常呼集の声が響き渡った。戦車第11連隊の兵士が戦車に乗り込み、約20台でソ連兵が上陸した島北部を目指した。小田さんが乗った戦車がハンノキの林に入った時、上官が「撃て」と叫んだ。機関銃の引き金を引くと、ソ連兵が次々に倒れた。戦車の装甲を貫通した弾に当たって負傷した上官や、動かなくなった戦車を降りて戦い、死亡した同級生もいた。

戦史叢書や『北鎮記念館』(北海道旭川市)に依ると、8月21日に戦闘が終わるまでに日本側約600人、ソ連側約3000人が死傷(ソ連側の記録では日本側1018人、ソ連側1567人)したとされる。ただ、ポツダム宣言の受諾後、辺境の地で起きた戦闘に関する公的記録は限られ、正確な数はわかっていないという。小田さんは停戦後、島で1枚の写真を握ったソ連兵の遺体を見つける。ソ連兵が妻子と一緒に写っていた。「さぞ心残りだったろう。戦争は惨いものだとつくづく嫌になった」。幸せそうな家族写真が今も目に焼き付いている。ソ連軍は、9月5日までに千島列島や北方領土を占領。占守島の工場で働いていた女性らは、戦闘中に船で北海道に向かい無事だったが、小田さんら生き残った兵士はシベリアに抑留されることになった。ロシア史に詳しい東京大学の和田春樹名誉教授は、「武力で千島列島を制圧して存在感を示したいソ連と、自衛の為の戦闘を辞さない日本。両国の思いがぶつかり、本来なら避けられる戦いで不幸な死者が出た」と指摘する。戦後、占守島占領について日本側は「不当な侵略」、ロシア側は「血で払った島」と主張してきた。和田名誉教授は、「現在の領土問題を考える上でも正しく知ることが大切だ」と話している。


占守島 1875年の『樺太・千島交換』条約で、千島列島の他の島々と共に日本領になった。戦時中も、島には缶詰工場で働く女性ら民間人が居留した。終戦時の部隊の状況を示した資料に依ると、陸軍第91師団等約2万3000人の軍人・軍属が配置されていた。日本は、1951年の『サンフランシスコ講和条約』で領有権を放棄した。2005年までの間に3回の現地調査や遺骨収集が行われた。しかし、交通手段が少なく、埋葬場所もはっきりしないことから、これまでに収集できた遺骨は16柱に留まる。厚生労働省に依ると、次回の調査予定は無い。ロシアとの合同慰霊祭も検討されたことがあるが、具体化していないという。


≡日本経済新聞 2015年8月16日付掲載≡


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