【戦後70年・漂流する日本】(03) “第3のガラガラポン革命”が起こる周期

インターネット上で、「こんな世の中、いっその事何もかもぶっ壊れたらよいのに」というような書き込みを見ることがある。そんな風潮は“ガラガラポン願望”と命名されている。我々青年を取り巻く空気が「今やもう少しも流動しなくなつた」とした、石川啄木の『時代閉塞の現状』(明治43年)はよく知られている。だから、閉塞感に基づくガラガラポン願望も、いつの時代にもある若者の特有な感情だとスルーすればよいだろうか? 否、戦後70年の今というのが歴史的サイクルの因縁を感じさせる。私には、歴史的エポックを象徴する閉塞感のように見える。そこで、ガラガラポン革命という視点で戦後70年を、今年を明治148年とする歴史幅の中で見ていきたい。つまり、こういうことである。近代日本は、明治維新という“ガラガラポン革命”で出発した。この“第1のガラガラポン革命”から78年目が、戦後70年の起点となる敗戦という“第2のガラガラポン革命”があった時である。そして、今は敗戦(=第2のガラガラポン)から丁度70年である。“第3のガラガラポン革命”が起こる周期に入っているのである――そう思うから、今の若者の“ガラガラポン願望”を徒や疎かにできない。明治2年、関所の廃止と居住移転の自由が布告される。人の移動のガラガラポン革命が始まる。以後、日本の近代化は農村の次男・三男を中心に、大量の地方人を大都市に吸収することに依って行われた。江戸時代にも、農村から江戸等の大都会への人口移動は、出稼ぎを含めてかなりあった。しかし、江戸時代の人々の移動は“人別送り”という証明書が必要な上、移動の為の交通手段が整っていなかったことから、離村向都には足枷があった。こうした足枷が、明治維新後の居住移転の自由や鉄道の発達に依って解かれ、大量の人材が都市に移動した。

明治30年代後半から大正期辺りまでは、東京の人口増加の7割が地方からの流入者に依るものだった。しかし、電気・水道・革靴の都市と、ランプ・井戸水・草鞋の地方のように、大都市と地方の生活格差は時代が下るに連れて広がった。そのことが“都鄙雅俗”(都が雅で田舎は俗、柳田國男)の烙印を浸透させ、地方からの人口移動を促進する要因になった。こうして、人材が吸い取られる一方の地方は疲弊していく。2.26事件の引き金になったという農村の窮状は、その象徴である。昭和初期になると、ガラガラポンに依って人口(人材)を大都市から地方に逆流させる外なくなっていたのである。そのガラガラポンが、敗戦に依る思わざる結果から起きた。それは私の自分史と重なるので、以下、私事を交えることを許して頂きたい。昭和20年5月の東京山の手大空襲。その時、私は母親に背負われて街中を逃げ惑っていた。いや、3歳になったばかりだったから逃げ惑っていたことをわかってはいない。空が真っ赤になり、強風が吹いていたことは憶えている。それから、父の郷里の佐渡島に疎開することになる。疎開先は、敗戦で休業中の女郎屋の2階の1部屋。廊下に七輪が置いてあり、煮炊きはそこで行われた。疎開者や海外からの引揚者が食べ物を分かち合い、肩を寄せ合って生きていた。しかし、こうした悲惨さにも拘らず、敗戦には思わざる帰結が伴った。女郎屋の2階に取り敢えず疎開した私の家族を含めて、多くの人々が外地や都会から地方に逆移住(疎開)する事態が起きた。東京都の人口は昭和15年は735万人だったが、昭和20年には半分以下の349万人になった。かなりの東京人が地方に逆流した。外地から帰国した人は600万人と言われる。合わせて、1000万人近い人口が地方に還流した。“逆人口移動革命”が起こったのである。「世の中が安定する」と都会に戻った人々もいるが、そのまま地方に住み続けた者もいた。




疎開先の佐渡島の人口も急増する。昭和25年の人口は12万6000人。戦前期は10万程度だったから、逆流効果で人口が2割以上も膨らんだ。地方の人口が増加しただけではない。都会帰りと地元民との文化の交流が起きた。佐渡島の私の母校は戦後生まれの新設高校だったが、旧制高等学校教授だった人が疎開で実家に帰り、この新設高校の名物校長になった。東京の有名旧制中学校の数学教師だった人もいた。勉強のできる生徒の大半は島内の名門佐渡高校に行ったが、行けない生徒の学校――つまり(豆腐の)“おから”学校と言われていた私の母校からも、東大を始めとする有名大学進学者を出すに至る。地方を活気付けたのは、都会の学校教師だった者のUターンに依るものだけではない。都会文化は、疎開者や引揚者に依って運ばれた。逆移住者の多くは、都会のモダン生活を経験した人々である。彼らは戦後の貧しさの中でも、そうした生活様式を残しながら暮らしていた。子供への教育熱心さも際立っていた。地元の人々は、こうした逆移住者を通じてモダニズムと接触することになった。垢抜けした生活流儀は、確実に記憶と意識の中に残った。地方の親の、教育への頑なな否定的感情が緩み始めた。「子供は高校までは行かせたい」と意識が変わってきた背景には、こうした逆人口移動革命の効果が大きく影響している。また、高度成長期の地方の生活様式の大変容には、この時の逆移住者効果に依る記憶が作用していた筈である。人材の撹拌と、大都市文化と地方文化の交流で地方が活気付いた。こうして地方はもう一度、人材を都会に送ることができ、戦後の高度成長時代を築くことができた。

しかし、地方からの人材の流出過多で、人材供給力も枯渇し始めた。過密と過疎が言われ始めたのが昭和40年代からである。既にイエローカードが出されていた。ところが、数次の全総(全国総合開発計画)にも拘らず、有効な策らしいものは打たれなかった。斯くて、今やこのままでは消滅する市町村が話題になるに至っている。佐渡島の人口は今、最盛期の半分以下の6万人弱である。人材供給力の枯渇や衰微どころではない。1年に1000人減少すると言われているから、単純計算で60年後には無人島になる。明治維新という第1のガラガラポン革命は、居住移転の自由に依って地理的大移動を齎しただけではない。社会的移動(社会的地位の移動)――つまり、人材選抜原理の革命もなされた。江戸時代にも、下士から中士・上士への器量(能力・徳)に依る社会的地位の移動が無かった訳ではない。また、養子や御家人株の購入という財力に依る身分の移動も、僅かではあるが存在した。しかし、江戸時代の人材選抜原理は器量ではなく、飽く迄も筋目(家筋)が原則だった。だから、下級武士の間には「チャント物を箱の中に詰めたように秩序が立」ち、家老は家老、足軽は足軽で、「何百年経ても一寸とも動かぬ」(福沢諭吉)社会への不満が高まる一方だった。不満は、幕末に沸騰点に達した。明治維新は、下級武士たちのガラガラポン願望に依るガラガラポン革命だった。人材選抜原理が家筋(身分)から藩閥や学力になり、閉塞感に風穴が開く。「書生書生と軽蔑するな 末は太政官のお役人」(明治6年)と歌われるようになった。薩摩藩の下級武士から、28歳で清国公使、38歳で文部大臣になった森有礼のように、若くして指導者になることができる時代がやってきた。しかし、藩閥・学力から学歴に選抜原理は変わり、受験競争が激化してくる。冒頭の啄木の『時代閉塞の現状』が書かれる10数年前に、早くも「旧進の者前に墓がって、新進のもの進む能はず」と“壅塞鬱閉”(田岡嶺雲)が言われた。明治30年頃に流行した書生節は、「書生書生と軽蔑するな 家へ帰れば若旦那」という情けないものとなった。

満州事変や日米開戦の時、淀んだ空気が一掃されたような爽快さを感じた者が少なからずいたのは、その是非は扨置くとしても、人々の間に「“第2の(明治)維新”である“昭和維新”が必要だ」という願望が沸騰していたからである。敗戦に依って、先の逆人口移動というガラガラポンと並んで、人材のガラガラポンも起きた。人材の間引きに依って、である。政界も経済界も先行人材が公職追放され、思いがけぬ人々がリーダーとなった。所得倍増計画で有名な元総理大臣の池田勇人にしても、戦前の体制が持続したら、首相どころか大蔵次官の目も無かったであろう。前の世代が追放され、人事の混乱の中での抜擢に依るものだった。敗戦後の大企業の社長も、こうした経緯で抜擢された者が多い。『日立製作所』社長になった倉田主税もそうである。敗戦に依って、社長以下実に16人の幹部が追放を受けたからである。東京帝国大学法学部が主流である大蔵省で、池田は京都帝国大学法学部出身の傍流。倉田は帝大工学部卒ではなく、専門学校(仙台高等工業学校)卒の技師だった。東京帝大本位という学歴主義や長老支配に、大きな隙間ができたのである。人材のガラガラポンに依り生まれた若い異能の指導者に依って、昭和29年から昭和48年の20年間に亘る年平均10%という驚異の高度経済成長が進んだ。

しかし、1990年代からはっきりとわかる低成長時代に突入する。そして今、第2のガラガラポン革命から70年という周期を迎えている。冒頭で、若者の“ガラガラポン願望”を徒や疎かにできないと言った所以である。そう思って、近年の一連の出来事を眺めると、そこにも意味深な兆候が読み取れる。反知性主義的風潮の台頭や、ヤンキーキャラの政界人・財界人の跳梁跋扈、人物本位の大学入試改革、国立大学文系学部の改組・廃止等が、今のガラガラポン欲望と繋がりのある出来事に見えてくる。有名大学卒の秀才は科学技術者や専門家で結構、ご意見番気取りで上座に直りたがる文系上がりの官僚や知識人・メディア関係者の長袖族(袖の長い衣服を着る公家・僧侶・神官・学者等のこと)なんぞは“くっちゃべっているだけの役立たず”――「ヤツらに嘴を挟まれてたまるか。根腐れさせて、出番を無くしてしまえ」……というように。更に思いを巡らせば、明治維新以降どころか、「抑々、日本史がガラガラポン欲望を地下水脈として歩んできたのではないか?」と見えてくる。鎌倉時代末から室町幕府滅亡までが下刺上の怒濤の時代であったことは、よく知られている。しかし、“下が上をおかし、その下がまた之をおかす”下刺上は、この時代だけの特殊なものではない。日本の地下水脈としてずっと生き続け、噴火や地震のように、ある周期で噴流するのではないだろうか? ある日本中世史家は、下刺上を「道理の因果として避けることのできない“必然とみられていた”」(横井清『下刺上の文化』)としている。ガラガラポン願望は、この下刺上の水脈と相関している筈。戦後70年、“下刺上”という地下水脈が水位を上げている――そう思えてくるのである。


竹内洋(たけうち・よう) 社会学者・関西大学東京センター長。1942年、東京都生まれ。京都大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。京都大学・関西大学教授を経て現職。著書に『革新幻想の戦後史』『丸山眞男の時代 大学・知識人・ジャーナリズム』『大衆の幻像』(共に中央公論新社)等。


キャプチャ  2015年8月号掲載


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