【終戦70年・“戦後”はいつ終わるのか】(05) 忘れまい、しかし許そう――大戦中に捕虜が受けた虐待の記憶は消えない、それでも今の世代が新たな日豪関係の構築に進む理由

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ジャック・ハープリーは25歳で無残な死を遂げた。悲劇だが、あの時代には決して珍しいことではなかった。オーストラリアの牧羊地帯で育った快活な青年のジャックは第2次世界大戦中、日本軍がボルネオ島に設置した悪名高い『サンダカン捕虜収容所』に送られた。肉体的・精神的な虐待が繰り返された後、捕虜たちは数回に分けて約260km離れたラナウまで、ジャングルの中を歩かされた。1945年1~6月のことだ。捕虜たちは栄養不良や病気で弱っていた。しかも、26日間の移動中に与えられた食料は僅か数日分。空腹や病気で倒れるとその場で殺されるか、置き去りにされた。オーストラリア人とイギリス人の捕虜は出発時に2700人ほどいたが、“死の行進”から生還できたのはオーストラリア人の6人だけ。そこにジャックの姿は無かった。だが、「日本人を恨んではいない」――ジャックの弟・ロン(85)は介護施設からの電話でそう語り、「日本兵は無理矢理戦争に駆り出されていた。彼らを動かしたリーダーたちも死んでしまった。ただ、3年も苦しんでいた兄を救えなかったことが無念でならない」と言って、声を詰まらせた。こうした話に、オーストラリア人は今でも感情を強く揺さぶられる。あの戦争への関与が比較的少なかったこの国では、映画であれ小説であれ、ドキュメンタリーや回想録であれ、戦時下の捕虜体験や日本人の“残酷さ”に焦点が当てられ易い。

戦後70年、あの戦争を記憶に留めようという機運は嘗てなく高まっている。一種の“通過儀礼”として、タイとミャンマー(ビルマ)を結んだ泰緬鉄道やパプアニューギニアの激戦地を訪ねる若者も少なくない。日本軍が1942年にオーストラリア上陸を計画していたという伝説を、今も多くの国民が信じている。確かに、当時の日本軍は毎週のように北部を空襲していたし、潜水艦でシドニー港を攻撃したこともある。上陸作戦など存在しなかったが、2008年には国土防衛の記念日(9月の第1水曜日)が制定された。オーストラリア人が日本との戦争を忘れないのには理由がある。連合国の一員としてヨーロッパで戦った第1次世界大戦と違い、第2次世界大戦は(特に1942年のダーウィン空襲以降は)自分たちの国と国境を守る戦いだったからだ。だが、平均的なオーストラリア人は今の日本にそれほど恨みを抱いていない。「最近の歴史教科書は、当時の日本人が私たち同様、時代の要請に依って厳しい立場に置かれていたことに配慮した表現を用いるようになった」と、歴史家のジョン・コナーは言う。時間が傷を癒やしたのも事実なら、地政学的な要請があったのも事実。戦後直ぐに東西冷戦が始まり、アメリカは見本を民主化して同盟国に加え、“反共の砦”にしようと考えた。オーストラリアもその方針を受け入れたが、最後の日本人抑留者を解放したのは1954年になってから。他国より比較的遅かった背景には、同胞の捕虜体験に纏わる怒りと悲しみがあった。




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その後、オーストラリアは現実路線に転換した。1957年には日豪通商協定を結び、他国に先駆けて日本との交易を再開している。「勿論、摩擦はあった。オーストラリアは1970年代まで非白人の移住を制限していたし、1980年代には日本企業の進出に危機感を募らせていた」と、マードック大学のディーン・アスケロビッチュは言う。今のオーストラリアは、嘗ての敵とすっかり仲直りした。戦後の日本はオーストラリアの天然資源のお得意樣となり、粗半世紀に亘り最大の貿易パートナーだった。戦争の犠牲者は4万人だが、中国の1500万人に比べれば微々たるもの。これも傷を癒やし易かった一因だろう。結果、オーストラリア国立大学のマイケル・ウェスリー教授が言うように、「アジアの多くの国は今も日本に対して苦い思いを抱いているが、オーストラリア人の恨みは消えた」。あの戦争の経験は、寧ろ両国の友好関係を一段と深める役に立っている。1年前、オーストラリアを公式訪問した安倍晋三首相は、上下両院の総会でたどたどしい英語で、「日本はあの戦争を後悔している」と語った。これには、オーストラリアで最も頭の固い人たちも心を動かされたものだ。日本軍に依るシドニー港攻撃では、特殊潜航艇に乗り込んだ日本兵4人が自爆していた。そのうちの1人の母親が1968年にオーストラリアに招待されたことに、安倍は謝意を表した。するとアボット首相も、戦時下にも拘らず自爆兵を手厚く葬ったエピソードを紹介。両首脳の息の合った意見交換は経済連携協定での合意に結び付き、オーストラリア海軍の新型潜水艦開発に日本が協力する話も出ている。

ダーウィン空襲は1942年、日本軍に依るシンガポール占領の4日後から始まり、1年以上続いた。出撃拠点は、前年12月にハワイの真珠湾奇襲作戦に参加した4隻の航空母艦。その為、一連の空襲は“真珠湾のオーストラリア版”と呼ばれた。オーストラリア本土が外国から攻撃されたのはこれが初めてで、国民は結束して“オーストラリアの為の戦争”に立ち上がった。この言葉は今でも使われている。「1942年は重要な分岐点だった」と前述のウェスリー教授は言う。「私たちはアジアにおける勢力バランスの変化に気付き、アジアの一員としてアジアの安全保障に積極的に関わるようになった」。だから、オーストラリアは朝鮮戦争に逸早く参戦した。ベトナム戦争でもアメリカを支援し、マレーシア独立の混乱に際しては部隊を送り込んだ。勿論、日本に対するネガティブな感情が全て消えた訳ではない。日本の南太平洋における捕鯨活動には断固として反対だし、ソーシャルメディアには過激な反捕鯨活動を支持する書き込みが目立つ。「クジラの惨殺を戦争中の日本軍の残虐行為に擬える人もいる」と、ニューサウスウェールズ大学のピーター・スタンリー教授は言う。「しかし、それは過熱した世論のガス抜きであって、地政学的な決定や行動には影響しない」。戦没者の遺族の多くは、既に全てを許している。「暫く前に、妻を連れてダーウィンを訪れた」と、冒頭の戦没者・ジャックの弟・ロンは言う。「道中で、オーストラリア大陸を自転車で旅しているシンガポール人と日本人の学生に会った。感じのいい若者たちで、会った瞬間から好きになった。どんな国にも善と悪が入り乱れている。私たちは善が勝つことを祈るしかない」。こうした前向きな気持ちが大事だ。それが未来を明るくする。オーストラリアにとっても、日本にとっても。 (デボラ・ホジソン)


キャプチャ  2015年8月11日・18日号掲載


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テーマ : 戦争
ジャンル : 政治・経済

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