【日本近現代史がわかる最重要テーマ】(13) 人間宣言(1946年)――天皇・マッカーサー写真の衝撃

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1945年8月15日の正午、国民は昭和天皇に依る玉音放送に依って敗戦を知らされたが、その文言の難解さは素より、多くは既に戦時末期に依る精神的麻痺の状態にあった。玉音放送で流された涙は、壊滅的現実に漸く終止符が打たれたことに依る生理的な安堵と、「どうやら日本は負けたらしい」という漠然とした悔しさと惨めさと情けなさが入り混じったものだった。日本人が、その敗戦を決定的に実感させられたのは、その翌月に流布されたマッカーサーと昭和天皇の写真であった。たった1枚の写真が、斯くもあらゆる地域及び階層の国民に瞬時にして、痛烈に、且つその後も長きに亘って圧倒的影響を及ぼし続けたことは、昭和史上他に類を見ないだろう。1945年9月27日午前10時、アメリカ大使館で行われたマッカーサーと昭和天皇の第1回会見時に撮影されたこの写真は、翌28日に新聞掲載される。政府は「天皇と外人が肩を並べて写っている」ことに驚愕し、発禁処分としたが、GHQは新聞通信の自由に対する一切の制限撤廃を指令、30日以降、この写真は広く国民に知れ渡ることとなる。当時、占領軍は自らの不利になり得る情報には統制を徹底しており、広島・長崎の原爆関連報道を一切禁じ、進駐軍に依る悪行や暴行は勿論のこと、それに依って生まれた約20万人とも言われる“混血児”に関する情報も公にすることはなかった。

予てより敵国・日本の諸研究を行い、占領政策も進めてきたアメリカ側にとって、日本の精神的支柱を担う“女王蜂”と位置付けられた昭和天皇の存在は、日本占領を円滑に行う上で、更には対ソ・反共政策としても極めて有効な媒体だった。この写真は、昭和天皇の神格性の否定と天皇制の維持の双方を示唆し得る格好な視覚的手段となった。だがGHQは、この写真が日本人に与えた衝撃と影響を果たしてどこまで想定し得ただろうか? というのも、この写真を見て日本人が決定的衝撃を受けたのは、GHQが統制し得ない領域――即ち、2人の肉体とその歴然とした差異だったからだ。それまで、日本人は天皇を“御真影”、並びにそれを安置する奉安殿を通してでしか知りえなかった。“御真影”は胸から上の肖像であり、当然ながら隣には誰も写らない。天皇の背丈も体格も、そして全身の姿も、他の誰とも比べようもなく、また想像することすらなかった。謂わば“現人神”としての天皇は、その名の如く肉体を持ち得ぬ存在であった。この写真を見て日本人が衝撃を受けたのは、紛れもなく天皇は肉体を持った、洋装の、そしてマッカーサーの肩ほどの細く小柄な体型の、1人の人間として写し出されたからである。昭和天皇は1946年1月1日を以て『人間宣言』をし、以降、洋装で全国を巡幸したが、昭和天皇が“人間”になったのは、寧ろこの写真が流布された瞬間からだった。しかも、略式軍装で腰に手を当てたマッカーサーの隣で、モーニングを着用し、直立不動となっている天皇の出で立ちでは、その権力関係は誰の目から見ても歴然としていた。そういった視覚的衝撃は、進駐軍が特ち合わせた全てにあった。占領期、日本に進駐した約20万もの進駐軍兵士らの筋骨隆々とした逞しい肉体に、溢れんばかりの物資と物量、ジープを始めとする機械文明――その全てがあまりに眩しかった。肉体も物量も、そしてそこから放たれる圧倒的な豊かさとも言える全てが、「負けるべくして負けた」(日野啓三)と痛感させるに充分なものだった。




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勝者と敗者、支配者と被支配者、アングロサクソンとモンゴロイド、更にはアメリカと日本という全ての差異をも投影したこの2人の写真は、まさに敗戦の象徴となった。占領期の日本におけるマッカーサーの権力は“至上のもの”だったが、日本国民のマッカーサー崇拝は、それを更に上回るものだった。占領期、国民からマッカーサー宛てに届いた手紙は約50万通に及び、1951年4月16日、帰米するマッカーサー夫妻を見送る為に、厚木沿道には10万人もの日本人が並んで、別れを惜しんだ。吉田内閣はマッカーサーを“終身国賓”とすることを閣議決定し、その偉業を称える記念館建設計画が各界名士に依って掲げられ、彼を英雄視する銅像を設ける為の募金活動も計画された。このような態度を以て、「日本は“鬼畜米英”から一変してアメリカ崇拝へと“転向”した」との見方があるが、実は日本人の心性には“転向”など存在しなかった。陸軍軍人から評論家となった村上兵衛に依れば、「日本人として育つということは、自ずから西洋文明並びに西洋人を何となく上等だと感ずること」であっただけに、戦時中に仮令、軍部が「鬼畜米英」と鼓吹しても「本気では誰も信じなかった」。徳富蘇峰も、「どれだけ“鬼畜米英”が唱へられても、日本は“アングロサクソン中毒”にあり、日本国民はこの百年間の永きにわたる中毒に罹つてゐるため、自分ではアングロ排撃を唱へながらその言葉の下から、アングロを信じてゐるのだ」と説いた。つまり、戦前であれ戦時中であれ戦後であれ、西洋を権威化させることで近代化を推し進めていった近代日本の心性には、元々“米英に対する反感”など生まれ得る筈もなく、あったのは西洋に対する強烈な心理的依存だった。日本人がマッカーサーに烈しく求めたのは、情緒的紐帯――即ち、父として、自らの保護者・庇護者としてのマッカーサーであった。“保護者”に求めるものとは、「自分を保護し擁護し、そして承認してほしい」という欲望と不可分にある。だが、若し自分の期待する承認を得られないとするならば、そこに生じるのは強い落胆と、それに基づく反抗である。

1951年5月5日、マッカーサーはアメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会で、日本占領の成果報告として、「国民の発展と成熟度並びに文明の尺度から見て、アングロサクソンが成熟した45歳だとすれば、日本人は12歳であり、保護を要する段階にある」と述べた。多くの日本人はそれを侮辱と捉え、崇拝は興醒めへと変わり、マッカーサー記念館や銅像建設計画も立ち消えとなった。だが、“征服者”に保護され、庇護されることを自ら強く切望したのは日本人だった。マッカーサーに対する極端なまでの崇拝と落胆が露呈したのは、アメリカへの強烈なまでの心理的依存であった。マッカーサーの日本に対する感情と、日本のマッカーサーに対する感情には、あまりにも著しい温度差があった。1950年、法学者の戒能通孝は、「そういった西洋との著しい温度差も心理的依存も、結局は“米英に対する劣等感”に過ぎず、また“そこから生まれる淋しさの感情”を、戦時中はナチス崇拝で、敗戦後はマッカーサー崇拝で埋めようとしたに過ぎなかった」と論じる。振り返れば、近代日本は常にこの“淋しさの感情”と共にあった。何故なら、西洋を権威化することで国家的存続を図った明治以降の日本の精神構造において、日本が日本であるために、日本を否定しなければならなかったからである。と同時に、日本が日本である限り、日本を棄て切ることはできなかったからである。また、言い換えれば、この自己矛盾こそが明治以降の著しい変遷と振幅を根底で支え、そして共鳴し続けてきた心性でもあった。日本は明治以降、半世紀も満たぬ間に日清・日露戦争を経て“一等国”と化し、更には“世界5大強国”へと台頭していった。斯くして、欧米列強の支配する国際政治に曲りなりとも参入していった日本を待ち受けていたのは、1919年パリ講和会議における人種平等案挿入“失敗”や、1924年の排日移民法等、西洋からの人種的排除――即ち、華麗なる“有色人種”という現実であった。

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こういった一連の国家レベルの人種体験は、“脱亜入欧”から“脱欧入亜”への転換点となっただけではなく、後に昭和天皇が「大東亜戦争の遠因」として第一に挙げた程の精神的影響を持っていた。つまり、条約改正以前も以後も、近代日本は根底で常に、そして切ないまでに西洋からの承認を求め続けていたのである。その歴史的過程で形成された日本人の自己認識とは、欧米への強烈な劣等感と、アジアに対する強烈な優越感であった。それは常に表裏一体となって、烈しい振り子のように日本人の心性を揺るがしてきた。こうした近代日本の精神構造は、東洋にも西洋にも自己の居場所を見い出せない、まさにこの所属感の欠如に依る烈しい優劣感情と、その振り子の狭間で常に不安定な自己規定を形成してきたのだった。清水幾太郎は「敗戦は日本人の人種意識の“総決算”である」としたが、まさに天皇・マッカーサー写真もその“総決算”を証明したかのようなものだった。団塊世代が生まれたのは、この敗戦直後に当たる。1950年代、アメリカは世界史上、類を見ぬほどの富を一極集中させていた。他方、粗全てが廃墟と化した日本にあったのは、絶望と希望だけだった。団塊の世代は、このあまりにも激しい格差の中で、映画やテレビ・雑誌・広告といったあらゆるメディアから、豊かなアメリカの眩しさを目の当たりにし、生まれ育つ。その点で団塊の世代とは、実は他のどの世代よりも、実感を持って“持たざる国”日本の現実を具に見て、生きざるを得なかった世代だったのかもしれない。戦前、日本は先進国としての自意識こそあったものの、人種的にも軍事・経済的にも、欧米列強から対等には位置付けられていない国際的現実に直面していった。つまり、意識として先進国でありながら、現実はとても英米に対抗できるレベルではない中進国に過ぎなかった。だからこそ、その意識と現実の乖離を埋めるかの如く“精神主義”が台頭していったのだが、その精神主義は戦後の日本にも言えることだった。

嘗て、西洋の脅威と化した日露戦争後のように、廃嘘から半世紀も満たぬ間にアメリカをも凌ぎ得る経済大国へと変遷を遂げた日本は、世界的奇跡となり、そして脅威となった。毎朝、片道2時間もかけて満員電車に揺られ、“うさぎ小屋”を寝床にするエコノミックアニマルと揶揄されたのも、また、実際そうすることで最極貧の日本を経済大国へと牽引したのも、敗戦直後に生まれた団塊の世代であった。その団塊の世代にあったのは、紛れもなく敗戦後も断絶することのなかった“持たざる国”故の精神主義ではなかったか? ジャパンマネーは世界経済を席巻し、『三菱地所』は『ロックフェラーセンター』を、そして『ソニー』は『コロンビア映画』を買収した。その勢いと社会的空気は、まさに当時の『JR東日本』のキャンペーンCMで叫ばれた“もっともっと”(1990年)に共鳴するものがあった。だが、“もっともっと”の先にあったものは果たして何だったのだろうか? 近現代日本は、常に意識と現実が乖離した系譜を辿ってきた。その振幅があまりに烈しいが為に現実に伴わず、現実が意識に伴わないからだ。そして、意識と現実の乖離は結局のところ、現代日本にも続いている。バブル崩壊後、仮令“失われた20年”が過ぎようとも、日本の生活水準・文化的水準は著しく高い。欧米在住経験をした日本人の粗誰もが、「日本ほど治安がよく、食べ物が美味しく、便利な国はない」と痛感する。国内在住の誰もが皆、それを実感している。にも拘らず、意識においては、殊に対欧米となると粗自動的に根拠なく「日本は2流」と思ってしまう。「“グローバル化”するには、日本人であることをどこか否定しなければならない」と考えている。つまり、近代の西洋化・戦後の国際化、そして現代のグローバル化は、何れも“自己肯定の為の自己否定”という近代日本のパラダイムから何も原型が変わっていない。その一連の過程に常に漠然とした自己否定が付き纏うのも、何れもあの鹿鳴館の切なさから脱却してはいないからだ。

もう、日本は自己否定を伴わないグローバル化を模索する時期にあるのではないか? それは、「日本は凄い」ということではない。「凄い」とも「駄目だ」とも言わずに済む心性の構築である。何故なら、「凄い」も「駄目だ」も、結局は心の空虚を埋める不安定な振り子に過ぎないからだ。日本が近代のパラダイムであり続けた自己否定から脱却できる時が、真のグローバル化への第一歩なのかもしれない。そしてそれこそが、これまで近現代日本が心のどこか奥底で追求し続けてきた筈の、真の豊かさの始まりなのではないだろうか。


眞嶋亜有(まじま・あゆ) 明治大学国際日本学部専任講師・ICUアジア文化研究所研究員。1976年、東京都生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程修了。ハーバード大学ポストドクトラルフェロー等を経て、今年4月から現職。著書に『“肌色”の憂鬱 近代日本の人種体験』(中公叢書)。


キャプチャ  2015年春号掲載


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