【日本近現代史がわかる最重要テーマ】(15) 再軍備(1954年)――『海上自衛隊』発足の立役者は野村吉三郎

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海軍大将だった野村吉三郎は1939年、阿部信行(陸軍大将)内閣の時に国際法に詳しいことから外務大臣に起用され、対米戦争の危機にあった1941年には、フランクリン・ルーズヴェルト大統領が海軍次官の頃から知っているということで駐米大使となり、戦争回避に努力した。素より野村は、アメリカ海軍の力を知悉し、且つアメリカのエリートと親交があったので、対米戦争など望んでいなかった。彼の労苦は報われず、日米は開戦に至り、この時、最後通牒を真珠湾攻撃の後に国務長官のコーデル・ハルに渡すという失態も演じてしまった。この為、野村と言えば日米開戦阻止に失敗した外交官のイメージが強い。故に、彼が戦後の日本で旧海軍関係者と何をしていたかについては、聊か盲点になっていた嫌いがある。だが、彼は日本の戦後体制にとって重要な“海軍再建”――つまり、『海上自衛隊』の創設に極めて重要な役割を果たした。そして、これを成し遂げる上で大きな力となったのは、彼の持つジャパンロビー(正式名称は『ACJ(American Council Japan)』)とのコネクションだった。そのメンバーには、野村が戦前から親交を結んでいたウィリアム・キャッスル、ジョゼフ・グルー(共に元駐日大使にして後に国務次官)、ウィリアム・プラット(元海軍作戦部長)の他、戦後関係するようになったジョン・フォスター・ダレス(国務省特別顧問、後に国務長官)、コンプトン・パッケナム、ハリー・カーン(共に『ニューズウィーク』の記者)が含まれる。このグループは、連合軍司令官のダグラス・マッカーサーに圧力をかけ、GHQに依る占領政策を“軍閥打倒・財閥解体・指導者追放”から“軍閥利用・財閥再生・指導者追放解除”へと“逆コース”を辿らせたことで知られている。彼らの立場から見ると、野村の“海軍再建”は“逆コース”の延長線上にあり、日本に再軍備させ、以て共産主義に対する防波堤とするものだと言える。では、“海軍再建”はACJが仕掛けたものであり、主導権も彼らの側にあったのかというと、そうとは言えない。野村の“海軍再建”の為の飽くことのない努力が、朝鮮戦争前後のアジア情勢の中でアメリカ政府の利害と次第に一致を見るようになったことが、彼が悲願を達成できた主たる理由だったと言える。ACJは野村に必要な情報を与え、多少の、しかし極めて有効且つ時宜を得た後押しをしたと言えるだろう。

終戦間もなく、野村を中心とする旧海軍の幹部は、“海軍再建”を目的とする動きを起こした。最後の海軍大臣・米内光政が彼らにそれを託したということもあるが、「占領が終われば当然、“海軍再建”が必要になる」と彼らも考えていたからだ。海軍関係者を含め、この当時の旧日本軍の幹部は今日のように、「日米安保条約の下、アメリカ軍が日本に駐留し続ける」等とは夢にも思っていなかった。「自立自衛は当然で、故に“陸海軍再建”の時が必ず来る」と考えていた。野村等の“海軍再建”を目指す旧海軍関係者が活動拠点としたのは、第2復員局資料整理部だった。保科善四郎(元海軍省軍務局長)に依れば、“海軍再建”の日に備えて、海軍軍令部作戦課の優秀な人材をこの部に残したという。しかし、占領当初において、野村の“海軍再建”は全く進まなかった。例えば、リチャード・バーキー海軍中将(野村の親友でACJのメンバーでもあるプラットの部下だった)がアメリカ極東海軍の初代司令官として赴任してきた時、野村が“海軍再建”の可能性を打診したところ、「自分個人としては野村の考えに賛成だが、アメリカ海軍としては“海軍再建”を許容する気持ちは全く無い」との答えが返ってきた。アメリカ側の受け止め方が変わるのは、朝鮮戦争の勃発がきっかけだった。陸上では7万5000人の『警察予備隊』が設立されることになり、海上でも『海上保安庁』が8000人増員されることになった。読売新聞取材班の『“再軍備”の軌跡』に依ると、1950年の夏に2代目アメリカ極東海軍司令官のターナー・ジョイと当時の吉田茂首相が会談する機会があったが、その時、吉田はアメリカ海軍にウケのいい野村の同席を求めた。この会談で、ジョイは凡そこのように提案したという。「朝鮮戦争も始まったので、この際、日本も海上防衛力を持つべきだ。ソ連に武器貸与法で貸与し、返却されたフリゲート艦18隻が横須賀にあるが、これを使ってはどうか? 日本には多くの元海軍士官と元兵員がいるのだから、艦船さえ渡せば直ぐに活動できるだろう」。ジョイもまた、プラット人脈に連なる人物だ。野村と旧海軍関係者はこれを糸口として“海軍再建”を本格化しようと考えた。だが、その為にはアメリカ側の更なる理解と協力を得ることが不可欠だった。




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チャンスは軈てやってきた。対日講和条約に関して日本側と本格的交渉を行う為、国務省特別顧問のダレスが来日することになったのだ。野村はACJのコネクションを通じて、遅くとも1950年12月までにはこの情報を入手、ダレスに海軍再建案を示し、協力を得る準備を進めていた。それがどのようなものだったかは、『石橋湛山日記』の12月15日付の記述が示している。「午後1時より招きに依り鳩山邸に赴く。野村元海軍大将及び小林一三氏あり、3時半ころまで語る」。何故、野村が鳩山邸にいるのかというと、鳩山は再軍備に乗り気でなかった吉田首相の向こうを張って本格的再軍備を主張していて、服部卓四郎や辻政信等の旧陸軍関係者の他に、野村等の旧海軍関係者を周辺に集めていたからだ。再軍備に積極的な姿勢をダレスにアピールし、アメリカの支持を取り付け、政権交代を早めようとしていたのである。1951年1月5日付の石橋の日記にはこうある。「午後5時より花蝶にて藤山愛一郎、浅尾郵船社長、堀勧銀頭取、川北興銀頭取、岩淵辰雄、野村吉三郎、東畑氏を招き晩餐」。野村が再軍備に関わる動きの中で、財界関係者とも会っていたことがわかる。1月13日には、再び鳩山邸に湛山と野村は招かれるが、この時は政治家も加わっている。「午後3時鳩山邸の会合に赴く。小林一三、野村吉三郎、高碕達之助、石井光次郎の諸氏参集、夕食後9時まで歓談」。こうして野村は、日本の政財界の要人と情報交換し、ダレスに“海軍再建”を直訴する準備を整えていた。

では、野村はこの段階でどのような“海軍”を考えていたのだろうか? それを示すのが、1951年1月23日作成の『新海軍再建案』である。これは、1月19日に山本善雄元海軍少将(終戦時軍務局長)が持ってきた案に、野村が富岡定俊元海軍少将(終戦時軍令部第1部長)と作った案を加味したものだ。その内容は、護衛空母4隻(うちアメリカからの供与4隻、以下同)、潛水艦8(8)隻、巡洋艦4(1)隻、海防艦150(60)隻等、計337隻・29万2000トン。この他、空海軍機750機といったものだった(『“再軍備”の軌跡』より)。野村は、これをアメリカ極東艦隊参謀副長のアーレイ・バーク少将に見せて、意見を求めるよう保科に命じた。バークは、「今は“新海軍”の中身を細かく決めることよりも、それについて議論する為の優秀な人材を集めたほうがいい」と助言した。これが、後に野村たちに大きなアドヴァンテージを齎すことになる。保科は翌24日、バークの回答を野村に報告した。その後、富岡ら10人の士官を選び出し、これらを研究員とし、事務局を赤坂の大木建設の2階の保科の事務所において、『新海軍再建研究会』――即ち、『野村機関』を立ち上げた。石橋の日記に依れば、この翌日の25日に野村は再び鳩山邸に招かれ、政界の要人と会合を持った。注目すべきは、この時はACJの連絡役であるパッケナムも加わっていたということだ。この日の石橋の日記の記述は次のようになっている。「午後2時約に依り鳩山邸に赴く。小林一三、野村吉三郎、高碕達之助、石井光次郎及びニュースウヰークのパケナム氏集合。午後6時予は晩餐を辞して帰宅」。パッケナムが鳩山邸にいたことは重要だ。彼はこの頃『ニューズウィーク』の記者をして、ダレスやその実弟のアレン・ダレスが長官を務めるCIAに政治情報を与えるエージェントになった。野村ら日本側とダレスらアメリカ側も、パッケナムを通じて互いの出方を探っていた。その関係は、プリンストン大学図書館所蔵のジョン・フォスター・ダレス文書や、アメリカ第2公文書館所蔵のCIA文書等に依って確認できる。

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2月2日、野村手記に依ると、野村は日米協会の午餐会に出席し、大使館の秘書官であるロバート・A・ファーレに彼の私信と“新案”をダレスに渡すように頼み、 翌3日、野村はGHQ外交局長のウィリアム・シーボルト主催のパーティーでダレスとの会見を果たした。しかしながら、この時のダレスの反応は野村の期待に反するものだった。前日に“新案”を渡されていたものの、多忙を極めるダレスは“新案”や意見書の詳細は読まず、野村の私信を読んだだけだった。この時のダレスは、吉田首相に10個師団・30万人相当の陸上兵力のみの国防軍案(服部卓四郎が作成していた)を呑ませることを第一に考えていたからだ。そのダレスからすれば、海上兵力に関わる野村の“新案”は、この段階では時期尚早だったのだ。しかし、間もなく状況は大きく動く。1951年9月8日、サンフランシスコで対日講和条約が調印されて、翌年に7年に及んだアメリカの日本占領が終わることが決定した。この講和条約と表裏一体をなす日米安全保障条約の調印式も、その直ぐ後に行われた。この新生日本の船出が決まった日から40日後の1951年10月19日、マッカーサーに代わって連合国最高司令官になったマシュー・リッジウェイが吉田首相と会談し、前から話があった18隻のフリゲート艦に加えて、50隻の大型上陸支援艇を日本に貸与すると申し出た。ジョイが野村にフリゲート艦の貸与を提案してから1年後、漸くこの話が進むことになったのは、占領の終結を睨んで、日本の海上防衛力の強化が必要になったからだ。10月20日の山本の日記に依れば、岡崎勝男官房長官は柳沢米吉海上保安庁長官と山本に、フリゲート艦について次のように説明したという。「昨日、総理・リッジウエイ大将との会談にて、米海軍から50隻(18隻の誤り)のフリゲート艦を譲渡するが、日本側としてその受け入れ態勢を整えるように。まず、適当な人を集めて準備にとりかかるようにとの事で、総理これを了承。リ大将は10名位を選定する要あらんと。【中略】旧海軍と海上保安庁から10名として、保安庁から差し当たり2名、旧海軍から10ないし12名位選定され度く。山本君を含めて」(『“再軍備”の軌跡』より)

ここで重要なのは、リッジウェイが10人の内訳として、「海上保安庁からは“文官”、旧海軍関係者からは“少将か中将クラス”を選ぶように」と指示したことだ。つまり、海上保安庁は補佐で、中心は旧海軍関係者になるよう後押ししていたのだ。野村たちは既に『野村機関』を作り、フリゲート艦の利用案を含めた“新案”を検討していた。だから、海上保安庁から2名の委員が入っても、彼ら“文官”は野村機関の敷いた既定路線に従うことしかできなかった。形としては、リッジウェイが吉田の頭越しに野村たちを支援することで、再軍備に関わる重要事項“海軍再建”を粗決定してしまったと言える。翌1952年2月20日、『海上警備隊』の新設が発表された。当初、「海上保安庁を整備強化するものだ」と説明されたが、旧海軍側は“海軍”となる組織の礎石として位置付けていた。こうして、講和条約と日米安保条約が発効する2日前の4月26日に海上警備隊は発足し、隊員約6000人のリクルートと隊員たちの教育・訓練が開始された。この頃になるとダレスの影響力が表れ始め、アメリカ側にも野村らの“海軍”を本格的に後押しする動きが目立つようになった。『CIA野村吉三郎ファイル』(アメリカ第2公文書館所蔵)にある1952年9月5日付報告書は、この頃、吉田首相と野村の関係が悪化していたことを報告している。原因は、吉田の再軍備に対する無理解だとしている。ということは、野村は再建がレールに乗っただけでは良しとせず、尚も本格的な海上兵力を整えるよう吉田に強く迫っていたということだ。アメリカ側の支持を背景に、野村が強く出たと見られる。野村は更に、「予算を確保し、より多くの艦船を建造して、“海軍”を立派なものにせよ」と吉田をせっついたが、リッジウェイは野村の“海軍”をこれ以上拡大することには積極的になれなかった。それに対し、1952年7月28日、アメリカ統合参謀本部は国防長官に、“日本が自己防衛能力を持てるような軍事力へと発展させる為の支援”を求めた。そして、「現在極東における日本とアメリカの安全保障上の利害はおおむね一致しているので、日本が外部からの侵略に対して自己防衛できる軍事力と責任を引き受けられるよう日本を支援すべきだ。初期段階では均整のとれた10個師団と適切な海空軍を作れるよう支援すべきだ」(NSC125/1文書)と、日本の海上兵力を強化することに、より積極姿勢を示すように後押ししたのである。つまり、今度はアメリカ海軍が野村たちの為に、リッジウェイに圧力をかけたのだ。

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これに呼応するかのように、日本の保安庁は1952年10月、陸上部隊を22万人とする他に、海上部隊を艦艇約170隻、総トン数14万5000トン、航空部隊を航空機1400機とする『防衛5ヵ年計画』を発表する。この1ヵ月後に『経済団体連合会』の『防衛生産委員会』の審議室が纏めた6ヵ年計画では、陸上部隊は1958年には30万人、海上部隊は29万トン、航空部隊は2750機になることが計画された。ここに、経済団体連合会が出てくることに注目する必要があるだろう。再軍備は、日本の産業界にとってもビッグチャンスだったのだ。そして、前に見た石橋の日記が示すように、野村は“海軍再建”に当たって財界とも関係を深めていた。1952年1月、岡崎勝男外務大臣と駐日アメリカ大使の間でアメリカの艦船の貸与協定が結ばれ、1953年1月には日本側に引き渡された。日本側で建造していた艦船を含めた結果、同年3月までにはその陣容は計127隻、総トン数3万500トンになった。船隊(PF型警備船3隻)・艇隊(上陸支援艇6隻)・船隊群(2船隊+群司合艦)・連合船隊(2船隊群)と、艦船の数も総トン数も慎ましやかなもので、且つ艦隊を“船隊”、連合艦隊を“連合船隊”と呼ぶ等、“戦力”と言われないような工夫がしてあって微笑ましいが、一応“海軍”のスタートは切られたと言っていい。アメリカ側も、“海軍”の計画を軍事援助に依って後押しする。1954年度予算措置として、陸上部隊4000万ドル・海上部隊3000万ドル・航空部隊7340万ドルの援助を行うとしたのだ。『野村吉三郎関係文書』にある1953年10月16日付で、キャッスルが野村に宛てた手紙は、野村が同年10月18日より渡米してプラット、ジョイ、チェスター・ニミッツ、ハロルド・スターク(共に元海軍作戦部長)、アーサー・ラドフォード(当時統合参謀本部議長)といったアメリカ海軍関係者、そしてハーバート・フーヴァー元大統領、グルー、キャッスル等のACJのメンバーと会うことを明らかにしている。同じ頃、日本政府の池田勇人代表が相互防衛援助協定について交渉していたので、野村の“海軍”の為にアメリカ側にロビーイングしたのだ。相手の豪華な顔ぶれを見ると、かなり効き目があったと思わざるを得ない。

1954年6月3日、野村は参議院議員となる。“海軍再建”をより着実なものにする為の政界進出だった。当時のCIA文書からは、野村の選挙戦についての報告書(情勢分析と財務分析)が多数出てくる。CIAが、この選挙で何らかの形で野村を支援していたと推察できる。パッケナムは同年6月16日付報告書で、「野村が総理大臣のダークホースになった」と述べているが、アメリカ側がそれを望んでいたことは確かだ。それから粗1ヵ月後の7月1日、保安庁の防衛庁への移行に伴って、海上警備隊は『海上自衛隊』となった。野村は吉田の抵抗を受けつつも、強力な“アメリカコネクション”を通じたアメリカ政府へのロビーイングに依って、“海軍再建”を成し遂げたのだ。互いに利害が一致したとはいえ、何故アメリカ側要人がこれほど野村を信頼し、引き立てたのかは、彼らと野村の間で交わされた大量の書簡(『野村吉三郎関係文書』)を読めばわかる。野村は単に筆まめなだけでなく、常に真摯で誠実だった。戦勝国の人間だからといって媚びることなく、敗戦国の側にいるからといって自分を卑下することもなかった。「言うは易く、行うは難い」ことを、彼は実に自然にやっていた。彼らは、野村に真の“サムライ”を見ていたのだ。


有馬哲夫(ありま・てつお) 早稲田大学社会科学部社会科学総合学術院教授。1953年、青森県生まれ。早稲田大学第1文学部卒。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。『CIAと戦後日本』(平凡社新書)・『1949年の大東亜共栄圏』(新潮新書)等著書多数。


キャプチャ  2015年春号掲載


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