【日本近現代史がわかる最重要テーマ】(16) 沖縄返還(1972年)――アメリカの新資料が暴く沖縄返還交渉の真相

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1972年(昭和47年)5月15日、アメリカは日本に沖縄の施政権を返還した。佐藤栄作首相はこれに依り、日本の“戦後”を終わらせる意気込みだった。だが、アメリカ軍は自由に使用できる巨大な基地群を維持し、密約も暴露されて大論議が巻き起こった。では、抑々アメリカは何故沖縄返還に合意したのか? 筆者がアメリカ国立公文書館及びニクソン大統領図書館で長年に亘って大量の文書を渉猟した結果、アメリカが沖縄を返還した真の理由が明らかになった。佐藤とニクソンの首脳会談で沖縄返還が決まった1969年は、日米安保条約が発効して10年となる1970年の前年だった。1970年は、「“条約の終了”を通告すれば、1年後に条約は破棄される」という重要な節目の年である。そんな“分水嶺”の年、ニクソン政権は“親米”の佐藤政権を維持して、日米安保条約と基地の存続を図る為、佐藤が求めた沖縄返還を認めたのだった。更にアメリカは、「ポスト佐藤では、後継の首相候補の中で福田赳夫が最も親米」と判断した。アメリカ側提案の沖縄返還日は1972年7月1日だったが、「福田選出に有利になる」との佐藤の主張に譲歩し、5月15日に決めていたこともわかった。

日本は終戦後、沖縄返還を求めたが、日本が独立を回復した1951年のサンフランシスコ講和条約では、返還は実現できなかった。ただ、アメリカ側のジョン・フォスター・ダレス全権代表は、「沖縄返還にかける日本側の熱意を深く印象付けられた」ことから、講和会議で「日本は沖縄の潜在主権を維持する」と明言した。当時、ダレスの部下で後に駐日大使となるジョン・アリソンが回想録にそう書き留めている。その後、沖縄県民の復帰要求は益々熱を帯び、本土でも復帰運動が高まっていった。アメリカ側でそんな事態に敏感に反応したのは、知日派のエドウィン・ライシャワー駐日大使だった。ライシャワーは1965年7月14日付でラスク国務長官に送ったメモ(Volume ⅩⅩⅨ, Part 2, Foreign Relations, 1964-1968 Japan, United States Government Printing Office, 2006, PP104-110)で、「選挙で徐々に勢力を伸ばしている左翼が1970年に向けて、アメリカの沖縄統治に対する民族主義的懸念を与党や日米関係を攻撃する主要な武器にしようとしている」と警告した。翌8月には佐藤栄作首相が沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとっての“戦後”は終わっていない」と名セリフを吐いたが、アメリカ川はこの時はまだ、沖縄返還をそれほど真剣に検討していなかった。2年後の1967年11月、佐藤が訪米して、ジョンソン大統領と首脳会談を行った。“共同コミュニケ”は両論併記の形で、佐藤が「両3年内に双方の満足し得る返還の時期につき合意すべき」だと強調、大統領が“日本国民の要望”に理解を示したと明記している。“両3”とは“1か3”の意味だ。大統領は「日本側の要望はわかった」と答えただけであり、返還の時期を巡ってアメリカ側の言質を取ったとは決して言えなかった。




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しかし、1969年1月20日に発足したニクソン政権は全く違っていた。沖縄返還問題に取り組む姿勢には、前政権には見られない積極性とスピード感があった。役者も揃っていた。前政権でも日本側と沖縄問題で交渉にあたった国防総省次官補代理のモートン・ハルペリン、国務省日本部長のリック・スナイダーの2人は、ニクソン政権発足と共に国家安全保障会議(NSC)にスタッフ入りし、更に駐日大使のアレクシス・ジョンソンがニクソン政権発足と共に国務次官に指名された。政権発足の翌21日、アメリカ国家安全保障会議は早くも、『国家安全保障検討メモ5号(NSSM5)』という1ページの文書で、沖縄返還等について選択肢を検討するよう指示した。ニクソンが1968年11月に大統領選挙で勝利して以後、就任までの慌ただしい政権移行期の舞台裏で、スナイダーは10日間に亘って本土と沖縄を訪問、レポートを国務省に送った。『最優先事項の沖縄返還』と題する出張報告書は、「返還問題は逆戻りできないポイント(point of no return)に達した」との書き出しで始まっている。スナイダーはこの中で、「沖縄でデモ隊と基地を防護するアメリカ軍が衝突する危険性は以前よりずっと高まっている」と警告し、「返還時期の決定を1969年末以降に引き延ばすことはできない」と訴えた。スナイダーのこの報告書は、ニクソン大統領図書館所蔵のキッシンジャーファイルにもしっかり保管されていた(Memorandum from Richard Sneider, Trip Report, Nixon Library, National Security Council Files, Henry Kissinger Office Files, HAK Administrative and Staff Files Transition, Box 1)。こうして、ニクソン政権の対日政策の中枢を担う人々の間で、政権発足前から「沖縄返還は差し迫った課題である」との認識が共有されていった。

沖縄では、前1968年11月に野党統一候補の屋良朝苗が琉球政府主席選挙で当選した。アメリカ軍基地には何万人もの抗議デモが押しかけ、翌年2月4日にはアメリカ空軍爆撃機『B52』の撤去を要求する5万人集会が開かれた。「安保反対」を叫ぶ学生運動も活発化し、1969年は学生の東京大学安田講堂占拠事件で明けた。そんな中で、衆議院の任期切れ(1971年1月)を控え、佐藤は1969~1970年中に衆議院の解散・総選挙を行わなければならなかった。しかも安保条約は1970年以降、“終了”通告で1年後に破棄できる状態になる。日米が1969年中に沖縄返還で合意できれば、佐藤は衆議院を解散して勝利し政権を維持、日米安保条約も問題なく自動延長できるだろう。しかし、沖縄返還で日米合意ができなければ、佐藤は厳しい批判に曝され、情勢は流動化する恐れが強まっていた。そんな中、アメリカの情報機関が「年内に沖縄返還の時期で合意を」との分析を纏めた。2月27日付の『日米安全保障関係の見通し』と題する国家情報評価(NIE)41-69文書である。NIEは、アメリカ中央情報局(CIA)等の各情報機関の分析を総合的に纏めて、NSCに報告する分析文書である。2012年6月、ニクソン大統領図書館はこれを公開した。この文書はまだ報道されていない。このNIE文書は「沖縄に関わる問題が最も差し迫っている」として、「佐藤首相が、1970年代初期に日本に沖縄の施政権を返還するとの合意を1969年中に得ることができない場合、彼自身の政治的立場は深刻なダメージを受け、与党の立場もある程度傷つく」と予測した。「こうした逆風を受けて佐藤が辞任した場合、後任の首相は誰がなっても、アメリカに対してより自立的で、中国に対してより柔軟な態度を示すと見られ、安保問題でアメリカに対して硬化する恐れがある」との分析を示した。

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このNIE文書は、NSCで大いに重視された。スナイダーは、4月10日のキッシンジャー宛てメモで「よくできた文書」と高く評価した(Nixon Library, Memorandum for Dr. Kissinger, Aplil 10, 1969, National Security Council Meetings, BOX H-022)。これに依り、沖縄返還問題で国務省とCIAの意見が一致したことが確認され、それが政権内の流れとなった。4月30日開催のNSCに向けて、キッシンジャーがニクソンに渡した大統領用の“発言のポイント”では、「1969年は対日関係が分水嶺を迎える……最も重大な問題は沖縄返還だ」と強調している。日本の国内情勢深刻化と、それに伴う日米関係の緊張を示す端的な表現だった。このNSCでは、CIAのへルムズ長官が上記NIE文書について報告。更に、東アジア省庁間グループが各省庁の見解を纏めた別のレポートも提出された。より深刻な状況を伝える内容で、キッシンジャーはこれを「長文だが優れている」と高く評価し、ニクソンに対して「特に、様々な議論と選択肢を纏めた“18~30ページ”の部分を読んでほしい」と報告した(Nixon Library, Memorandum for the President, Aplil 30, 1969, National Security Council Meetings, BOX H-022)。その部分は、「本土と沖縄で沖縄返還への圧力は集中的に高まっている。『保守政権でもその圧力は抗し難い』と在京アメリカ大使館は報告している」と沖縄返還運動の高揚ぶりを伝えていた。「佐藤は“1972年の返還”を望んでいるようだが、若し1969年中に沖縄返還で前進がなければ、佐藤政権が倒れ、後継が保守政権でも返還要求はより強固になり、妥当な(返還)条件も受け入れそうにない」と警告した(Memorandum for the Vice President etc., Aplil 28, 1969, Subject: NSSM 5: Japan Policy [Natonal Security Archive: Nuclear Noh Drama)。これで、沖縄返還交渉への道筋が敷かれた。キッシンジャーは回想録に、「(沖縄返還)交渉の拒否は、現実問題としてアメリカ軍基地を全て失うことに繋がる恐れがあった」と簡単に記している。佐藤が失脚して政局が混乱し、1970年に安保条約が自動延長されず、アメリカ軍基地撤去に至るという最悪の事態を懸念していたのである。

これを受けて5月28日、NSCは『国家安全保障決定メモ13号(NSDM13)』を決定した。これに依り、1972年の沖縄返還を前提に、1969年中に沖縄のアメリカ軍基地利用に関する要点で合意し、1972年までに詳細に関する交渉を完了することが決まった。用意周到なニクソン政権はNSDM13で満足せず、それから36日後の7月3日、NSC次官会議で『沖縄交渉に関する戦略文書』(National Archives, RG273, Okinawa Negotiating Strategy, July 3, 1969, Records of the National Council, Records of the Under SecretariesCommittee - Decision Memorandum 1-65, Box 1 of 5)を承認した(我部政明『沖縄返還とは何だったのか』もこの文書について記述している)。アメリカにとって最重要なのは、沖縄の返還後も“アメリカ軍基地の自由使用”を日本側に認めさせることだった。アメリカ側はこの文書で、「自分たちが沖縄返還交渉の“主要な3つのカード”を握った」との自信を示した。3つのカードとは、

①日本政府は、沖縄返還問題が“日米間の深刻な摩擦”に発展するほどまで強く要求したいとは考えていないこと。
②日本国民が喜ぶような条件での返還は、保守派(特に佐藤派)にとって政治的な成果となること。
③「交渉の終盤になれば核兵器撤去の可能性を検討する」とのアメリカ側の態度が、交渉で相当な梃子になる。

というものだ。①はつまり、「厳しい条件でも日本側は最後には呑む」という見通し。②は、例えば“核抜き本土並み”の内容を共同声明に明記すること。③は、「沖縄返還で最終合意する日米首脳会談の席上で、アメリカ側が“核兵器撤去”に応じるという可能性を餌にして交渉を進めていけば、日本側はアメリカ側が最重視する“アメリカ軍基地の自由使用”に同意するだろう」と目論んだのである。日本側は、こうしたアメリカ側の外交戦略に嵌った。佐藤首相はナショナルプレスクラブでの演説で、「朝鮮有事の際には、事前協議に対し前向きに、且つ速やかに態度を決定する」とアメリカ軍の出撃許可を事実上約束、更に共同声明で、「日米安保条約の事前協議制度に関するアメリカ政府の立場を害することなく、実質的にアメリカ軍基地の自由使用を認める」ことを公約した。アメリカ側は予定通り、最後に共同声明で“核兵器に対する日本国民の特殊な感情、及びこれを背景とする日本政府の政策”への理解を示し、佐藤の“核抜き本土並み”を(表向き)認めて、その裏で、有事の際の沖縄への核兵器持ち込みを佐藤が認める“密約”を交わした。佐藤は11月19~21日の首脳会談で、1972年に沖縄施政権が返還されることを合意し、帰国。12月2日に衆議院を解散、同月27日の総選挙で大勝した。まさに、アメリカの狙い通り親米政権が存続、翌1970年6月に安保条約は自動延長された。

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1971年2月9日付で、マイヤー駐日大使がロジャーズ国務長官に送信した外交電報では、繊維問題の解決能力を欠く佐藤を“レームダック(政治的死に体)”と見限り、佐藤退任後を見渡し始めた。同年7月15日、ニクソンは「翌1972年に訪中する」と発表。更に、8月15日にはドル防衛措置を発表した。日本側への事前連絡を敢えて怠ったこれら2連発の“ニクソンショック”で、佐藤の政治力は更に弱まった。これを受けてマイヤーは8月24日、「自民党内の後継者争いで、親米主流派の力量を強化することが重要だ」とロジャーズ国務長官に伝えた。更に3日後の同27日、「福田赳夫・田中角栄・大平正芳の間で後継者争いが始まった」と連絡、「佐藤が後継に指名するのは福田」との情報を伝えた(National Archives, RG59, Entry1613, Box2404, 27 Aug 71 FM AMEMBASSY Tokyo TO SECSTATE Subject: Political Instabilityin Japan)。田中については、「財界で不人気。ステータスを重視する日本では、独学でイメージがよくない」と“論外”との見方が示されていた。そんな中、9月9日、ワシントンで日米貿易経済合同委員会が開かれ、福田外務大臣ら7閣僚が出席した。このうち福田だけが翌10日に、ニクソン及びキッシンジャーと会談することが決まった。それに備えて、国務長官がニクソンに宛てたメモで福田について報告した。「福田は佐藤が選んだ後任。緊密な対米関係に最も献身的な政治勢力の候補者でもある。福田は賢明で、強い意志・決断を持って行動する。彼は我々が取引できる人物だ。最も満足できる、佐藤後継候補の中で最もアメリカに友好的で、より強力な人物」と最上級の表現で称賛した。ニクソンは福田に対して、「個人的な関係を続けよう」と約束した。後は、年明け1972年1月にカリフォルニア州サンクレメンテのニクソン私邸で日米首脳会談を行い、沖縄返還の日程等の詳細を最終的に詰めるばかりとなった。

アメリカは、沖縄返還の日を7月1日とするよう求めていた。当時のアメリカの会計年度の初日は7月1日(現在は10月1日)であり、「核兵器撤去等にも相当の準備が必要だ」との理由だった。これに対して、日本側は4月1日を求めた。「早く返還されれば、佐藤は早く引退できて、福田後継のチャンスがそれだけ高まる」(1971年12月11日付マイヤー大使から国務長官宛て電報)と森治樹外務事務次官が説明したというのだ(National Archives, Nixon Presidential Materials, NSC Files, VIP Visits Box 925, 11 Dec 71, FM AMEMBASSY Tokyo TO SECSTATE, SUBJ: President/Sato Talks)。ジョンソン国務次官は12月29日付の大統領宛てメモで、「アメリカ側の返還日を早めることは可能だ」として、「可能な最も早い日は5月15日」と報告。“福田後継”選出に望ましい日程として選択されることになった。翌年1月4日にキッシンジャーが大統領宛てに提出したメモも、「福田への政権委譲に依って、日米同盟関係が拠って立つところの自民党主流派の支配を維持する」ことを目標にするよう指摘した。こうして6日の首脳会談で、福田後継への期待を込めて、5月15日に沖縄が返還されることが決まった。そんな日程の理由は、今日に至るまで明らかにされたことはなかった。沖縄は予定通り返還され、花道ができた佐藤は約1ヵ月後の6月17日、正式に引退を表明した。その8日前、ポスト佐藤の情勢を探る為にキッシンジャーが来日した。11日は福田と3時間半、12日は田中と2時間、何れも朝食会談を行い、2人を品定めした。福田の後継首相選出を見越して、福田とは“夏の日米首脳会談”“日米トップ間の秘密の緊密な関係”で合意した。他方、田中の政治的立場は「幾分不安定」と、キッシンジャーはニクソンに報告した。しかし、7月5日の自民党大会で総裁に選ばれたのは、アメリカが「望ましくない」と見ていた田中角栄だった。


春名幹男(はるな・みきお) 早稲田大学大学院客員教授。1946年、京都府生まれ。大阪外国語大学ドイツ語学科卒業後、共同通信社に入社。ワシントン支局長・論説副委員長・名古屋大学教授を歴任。著書に『秘密のファイル CIAの対日工作』(新潮文庫)・『米中冷戦と日本 激化するインテリジェンス戦争の内幕』(PHP研究所)等。


キャプチャ  2015年春号掲載


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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