【終戦70年・“戦後”はいつ終わるのか】(06) 遠い記憶の先に終止符を探して――元捕虜収容所長を祖父に持つ本誌記者が、日本軍の捕虜だったアメリカ兵と向き合う

8月15日、日本は戦後70周年を迎える。日本が語る“国家”としての歴史が議論される一方で、第2次世界大戦には当時を生きた1人ひとりの物語がある。それは其々の国で、体験者其々の“真実”として、多くの場合、苦しみを伴いながら今後も語られていく。その戦争の記憶に“終止符”を打てる日は来るのだろうか――。 (小暮聡子)

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6月初め、私は祖父が残した物語と今一度向き合う為、赴任先のニューヨークから南部のニューオーリンズ空港に降り立った。ジャズの街・ニューオーリンズは既に夏真っ盛りで、空港を出るとむわっという熱気が身を包む。車で30分も走れば音楽と酒に塗れた繁華街のフレンチクォーターに到着するが、私を乗せたタクシーが向かう先は陽気な観光地ではない。旅の目的は、戦時中にフィリピンのバターン半島とコレヒドール島で日本軍の捕虜となったアメリカの元兵士や民間人、その家族や遺族が集う戦友会に参加すること。この『全米バターン・コレヒドール防衛兵の会(ADBC)』年次総会では、1つのホテルに集った参加者が数日間に亘り戦中・戦後の体験を共有し、次世代に語り継ぐ。私がこの戦友会に参加するのは、22歳だった2003年以来、12年ぶりだ。日本軍に捕らわれた捕虜たちにとって、捕虜生活は“生きるか死ぬか”の戦いそのものだった。1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入すると、本間雅晴中将率いる日本軍はダグラス・マッカーサー極東陸軍司令官下のフィリピンに侵攻を開始。首都のマニラからマニラ湾を挟んで対岸に位置するバターン半島とコレヒドール島のアメリカ軍とフィリピン軍は、日本軍との戦闘を経て、1942年4月以降相次いで降伏、捕虜となった。その後、日本軍が7万人余りの捕虜を約100km先の収容所まで、炎天下の中飢餓状態で歩かせ、約3万人の死者を出した『バターン死の行進』は、アメリカでは今も旧日本軍の残虐性の象徴とされている。日本の市民団体『POW(戦争捕虜)研究会』に依れば、第2次世界大戦中に日本軍がフィリピン等アジア・太平洋地域で捕らえた連合軍の捕虜は約14万人。そのうち約3万6000人は水や食糧・衛生設備が欠如した輸送船、所謂“地獄船”で日本に送られた。航海中は連合軍からの攻撃も加わって多くが命を落としたが、生き延びて日本に到着した捕虜たちは、全国約130ヵ所の捕虜収容所に連行され、炭鉱や鉱山・造船所や工場等で働かされた。戦争末期にかけて日本側も疲弊する中、捕虜たちの生活は過酷を極め、終戦までに約3500人が死亡したという。死因は飢えや病・事故・虐待・連合軍に依る爆撃等だった。




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ADBCのメンバーは、こうした悲惨な捕虜生活を生き抜いた人とその家族、又は捕虜のまま亡くなった人の遺族たちだ。元捕虜の年齢が90歳を超え、組織の主体はその子供たちの世代に代替わりしているが、子世代もまた、親の苦しみを受け継いでいる。元捕虜の多くが帰還後も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされ、捕虜体験に口を閉ざす一方で、父親を理解しようと調べるうちに日本に対して憎悪を抱く子世代も多いという。そんな戦友会で受付登録を済ませた私は、2003年にこの会に参加して以来、元捕虜やその家族と面会する度に、幾度となく経験してきた“居心地の悪さ”を感じた。勿論、ここは見知らぬ日本人がハグとキスで歓迎されるような場所ではない。だがそれ以上に、私には参加者を遠ざける肩書があった。私は、“元捕虜収容所長の孫”。そして、祖父は戦後、“戦争犯罪人”として裁かれた人物だったからだ。参加1日目、体験談を聞くセミナーが続き、元捕虜の内の1人と翌日に個別にインタビューする約束を取り付けた。自己紹介の際には“記者”を名乗った。元収容所長の孫だと言えば、相手を怒らせるか、傷つけかねない。何より、先入観なく本音を語ってほしかった。だが結局、この取材は思わぬ方向に走り出すことになる。元捕虜であるダレル・スターク(92)へのインタビュー当日、約束の時間の少し前にホテルのロビーに行くと、別の元捕虜の娘で、知り合って2年になるパム・エスリンガーが男性と談笑していた。エスリンガーは、私の祖父が元収容所長であることをこの会場で知る数少ない1人だ。そこに、スタークと娘のジュディ・ギルバートが現れた。エスリンガーはスターク親子と知り合いらしく、2年前に私がオクラホマ州に彼女の父親を訪ねたこと、今年秋には日本に行って私の両親に会うことを嬉しそうに話す。

スタークの娘が私たちの関係を尋ねると、エスリンガーは少し戸惑い、間を空けた後にこう言った。「彼女のおじいさんは、父がいた収容所の所長だったの」。エスリンガーの父親であるジャック・ウォーナー(93)は、祖父が管理していた収容所にいた捕虜の1人だった。2年半前にニューヨーク支局に赴任した私は、知人を通してその存在を知っていたウォーナーに連絡を取り、翌年に彼の自宅を訪ねた。ウォーナーには祖父や日本への憎しみや敵意は全く見られず、私は彼の4世代に亘る大家族から思いもかけない持て成しで迎えられ、その後も交流が続いている。だが、スターク親子はそれを知らない。その後の数分間は、これまで何度も見てきた光景と同じだった。祖父の話を切り出された相手は一様に、表情を強張らせたまま固まる。驚いた様子のスタークの娘は、耳が悪くて聞き取れなかった父親にエスリンガーの言葉を繰り返す。すると、今度はスタークが目を大きく見開いてこちらを見た。エスリンガーがすかさず「父は、『彼女のおじいさんは良い所長だった』と言っている」と言うと、父娘の表情は幾らか和らいだ。そしてスタークは、「君には全てを話す。私が知っている全てを話す」と怖い顔をして立ち上がった。私は自分の心も、みるみるうちに固まっていくのを感じていた。

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スタークがアメリカ陸軍に入隊したのは1941年3月、18歳の時。1ヵ月後にはフィリピンに送られ、日本軍との戦闘を経て、1942年4月9日にバターン半島で捕虜になった。彼は『バターン死の行進』を歩いていない。当時はマラリアで入院していた為、トラックでマニラ近郊のビリビッド収容所に移送されたのだ。移送中に“行進”のルートを通った際には、日本人に目を向けただけで銃剣で殺されかけたという。ビリビッドの次に送られたのは、マニラの約120km北に位置するカバナツアン収容所。収容所正門のポールには、切断された人の頭部がぶら下げられており、「逃亡を企てれば同じ目に遭う」という注意書きがあった。捕虜は10人で1つのグループを組まされ、「1人が逃げれば残りの9人が処刑される」というルールが告げられた。そこでは、飢えや病気で毎日平均30人の捕虜が死んでいった。その後、ミンダナオ島のダバオ収容所に移されたスタークは、1944年に地獄船で日本に送られた。62日間かけて命辛々、福岡県北九州市の門司港に着くと三重県四日市市の捕虜収容所に送られ、紀州鉱山の鉱石を製錬する石原産業四日市工場で働かされた。四日市での生活は、フィリピン時代に比べればずっとましだった。休日は殆ど無く、毎日12時間働かされたが、“思いやりのある”日本人もいた。ある日、骨のように痩せ細っていたスタークは、工場で働く日本人の弁当を盗んで食べてしまった。だが、その日本人は一言も問い詰めないばかりか、翌日から弁当を2つ持ってきて、1つをスタークに手渡した。弁当の差し入れは、1945年5月にスタークが富山市の収容所に移されるまで毎日続いた。スタークが富山で終戦を迎えた時、体重は44kgにまで落ちていた。

娘のギルバートに依れば、戦後、PTSDに苦しめられていたスタークは長い間、子供たちに捕虜生活について語らなかったそうだ。だが、1979年にイランのアメリカ大使館で起きた人質事件を機に、数日間、“まるで洪水のように”話し続けたという。捕らわれの身となり、生死の境を彷徨う人質の姿が、嘗ての自分と重なったのかもしれない。忌まわしい記憶と付き合っていく為には、自分の身に起きたことを客観的に理解しようと努力するしかなかったのだろう。スタークは何度も、「私は、何事も大局的に捉えようと努めている」と言った。「我々が経験したことの多くは、人々の残虐さのせいで起きたのではない。主な原因は物資の不足だった。だが、そこに人々の残酷さが加わった時、状況は更に過酷になった」。残酷な仕打ちの1つが、捕虜を理不尽な理由で殴ること。“ハヤク”という日本語を理解して即座に反応しなければ、殴られる。捕虜の側にしてみれば、自分たちが何故殴られているのか、単に日本人が残虐だからなのか、理由がわからない。スタークは「推測するしかないが」と前置きした上で、「特にバターンにいた日本軍はアメリカ軍と戦った直後で、仲間を失う等の経験をしていれば、敵に憎しみを抱くこともあっただろう」と語った。戦後もずっとPTSDに苦しめられてきたスタークだったが、昨年10月、69年ぶりに彼の物語を大きく展開させる出来事が訪れる。日本の外務省に依る元戦争捕虜の招聘事業で、娘のギルバートと共に訪日したのだ。日本行きを決意させたのは、弁当をくれた日本人が終戦5年目にスタークに書き送った手紙だった。手紙の返事を書けなかったことをずっと後悔していたスタークは、その日本人を捜す為に92歳で重い腰を上げた。訪日中には見つからなかったが、石原産業四日市工場から真摯な対応を受け、工場関係者が後日、その人物の息子を捜し当ててくれた。それ以来、スタークは息子との文通を続けている。

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嘗ての敵国・日本と向き合うことで、70年以上に及ぶ苦しみの歴史を1つ前に進めることができたからだろう。そこまで語ると、話題は現在の日米関係に及んだ。これまで築いてきた素晴らしい日米同盟を堅持すべきこと、日本は“正直な”歴史を語るべきであること――そうすれば、自分に対する謝罪など必要ないこと等、スタークは時折語調を強め、こちらに同意を求めながら語った。そして、改めて私のほうに向き直ると、突然こう言った。「扨て、今度は私が君に聞く番だ。君はアメリカにて、居心地がいいか? この大会にいて、友好的なものを感じるか?」。意表を突かれた思いだった。唐突な展開についていけず、何度か質問の意味を質したが、「さあ、正直に言ってごらん」と言われ、益々言葉に詰まった。辛い経験を振り返り、心の内を曝け出してくれたスタークに表面的な答えを返せば、彼の誠意を踏み躙ることになる。私は震える声で、こう切り出した。「私の祖父は、捕虜収容所の所長でした」。さっきまで取材相手だった人が「オーケー」と続きを促す。今度は私が話す番だった。私の祖父・稲木誠は1944年4月から終戦まで、岩手県釜石市にあった収容所の所長として、日本製鐵釜石製鉄所で働く連合軍捕虜約400人を管理していた。捕虜の国籍はオランダ・アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドで、その多くは若者だった。祖父も当時28歳だった。終戦が迫った1945年7月と8月、釜石市は太平洋から連合軍に依る艦砲射撃を浴び、釜石収容所でも捕虜32人が犠牲になった。祖父は戦後、艦砲射撃の際の安全管理責任や捕虜への不法待遇等を問われて“B級戦犯”となり、A級戦犯らと共に巣鴨プリズンに5年半拘禁された。祖父は広島文理科大学で英語や哲学を学んだ後に学徒兵として徴集された為、プリズンでは英字誌の『タイム』や本誌を読んでいた。「アメリカの質の高いジャーナリズムに触れて、日本の敗北を思い知った」と言う祖父は、出所後に『時事通信社』の記者になり、晩年に自分の体験を幾つかの手記として発表した。

祖父は“戦犯”だった。私がそれを知ったのは、高校2年生のある夏の日だ。祖父は私が7歳の時に他界していた為、戦争体験については残された手記等を通して初めて知ることができた。手記には、祖父が捕虜の管理に尽力したことが事細かに記され、戦犯とされたことに納得できない様子が滲み出ていた。著書の1つには、こう綴られている。「戦争中の捕虜の苦痛を思い、自分の収容所から多数の死傷者が出たことを悲しんだ。その遺族の人の嘆き・怒りを想像すると、石を持って打たれてもいいと思った。だが、犯罪を犯したとはどうしても考えられなかった」。しかし、戦後30年が過ぎた頃、祖父の心を救うニュースが舞い込んでくる。釜石収容所にいたオランダ人の元捕虜のヨハン・フレデリック・ファン・デル・フックから釜石市長宛てに手紙が届き、「収容所での取り扱いは良く、重労働を強いられることはありませんでした」と書かれていたのだ。これをきっかけに祖父とフックは文通を始め、収容所での生活を振り返ったり、互いの家族の話や日蘭関係の歴史について語り合ったりと、敵・味方を超えた友情を育んでいった。「ここにいて、居心地がいいか?」――中学時代、アメリカのドラマや映画を観てアメリカに憧れ、ホームステイを経験していた私は、そのアメリカが祖父を裁いたことを知ると、複雑な感情を抱くようになっていた。「フックが評価してくれた祖父が、何故“戦犯”として裁かれたのか? 祖父を裁いたアメリカとは、どんな国なのだろう?」――その答えが知りたくて、2002年にアメリカの大学に留学すると、アメリカは翌年にイラク戦争を始めた。祖父側の視点で語られる物語に親しんで育った私の心には、彼の無念さが染み付いていたのかもしれない。祖父が勤めた時事通信社のワシントン支局でインターンとして働き、イラクに空爆を繰り返すアメリカの様子を追い掛けながら、私は遣る瀬無さを感じていた。「勝っても負けても戦争ほど愚かしく、残酷で、虚しいものはない」と祖父が書き残し、終戦後も人々の心に大きな傷痕を残す戦争を、アメリカはまだ続けている――。

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一方、祖父のことを調べる過程で、祖父を追及するアメリカ側の視点も見えてきた。アメリカ国立公文書館で見つけた祖父の裁判資料や、偶然手にした釜石収容所にいた元捕虜のアメリカ人先任将校が書いた本の中には、オランダ人のフックが手紙の中で回想する祖父像とは懸け離れた記述が並んでいた。“honest management(不正無き管理)”がモットーだったという祖父は、この先任将校から見ると規則に頑ななほど厳格で、捕虜側の申し入れに耳を貸さない取っ付き難い所長だった。また、捕虜が規則を犯した際、暴力的な私的制裁を避ける為に祖父が科した「営倉(拘束施設)に入れる」という処罰は、捕虜にとっては苦痛であり、屈辱だった。2003年に初めてADBC総会に参加すると、国内外で捕らわれていた捕虜たちが語る“捕虜側の歴史”が目の前に広がった。この戦友会で目の当たりにしたのは、今まさにスタークが私に語ってくれたような、元捕虜やその家族が戦中から戦後もずっと苦しみ続けてきたという現実だった。以来、私はずっと、捕虜側の苦しみと祖父の苦しみの間で立ち往生してきたのだと思う。仕事やプライベートで元捕虜やその家族に会い、彼らの苦しみを前にする度に、心の底から申し訳ない気持ちになる。祖父の側に、若しくは日本の側にどのような事情があったとしても、日本軍の下での捕虜生活が精神的・肉体的に筆紙に尽くし難い苦難であったことは、紛れも無い事実だ。だがそうした時、元捕虜たちに何という言葉を掛ければいいのだろう? 自分がやっていないことについて謝ることはできない。それでも、“I'm sorry.”とは言いたくなる。そう言ったとして、それは相手の心に届くのだろうか――。

1つの歴史を日米双方の視点から追い掛けてきたことを掻い摘んで話し、アメリカへの屈折した思いまで吐露していた私は、気が付くとそんな問いを口にしていた。するとスタークは、殆ど間を置かずにこう応じた。「その言葉は、とても心に響くよ」。そして、瞳を潤ませた。戦争を全く知らない世代の私の言葉が、祖父と何の面識も無いスタークの心に響いている。心が通じたという大きな嬉しさはあったが、自分の言葉が何故意味を成すのかがわからなかった。だが、その後に続くスタークの言葉で、私は彼の心の動きを身を以て知ることになる。自分の話を切り上げ、取材する側に戻ろうとする私を、スタークは「いや、聞きなさい」と制した。「心の内を話してくれて有り難う。私も同じような経験を何度もしてきたよ。私は貴方のおじいさんを知らないし、彼が追及されたようなことをやったのかどうかはわからない」。そして彼は目に涙を溜めながら、私が全く想定していなかった言葉――だが、心のどこかでずっと聞きたかった言葉を発した。「若しやっていたとしても、私は彼を許すし、若しやっていなかったとしたら、間違いが起きてしまったことを謝りたい」。そこで彼は一度言葉を止め、こう続けた。「だが、私が最も申し訳なく思うのは、君がこんなに傷ついていることだ。戦争は地獄だ。単なる地獄。それ以外の何物でもない」。地獄の記憶に完全に幕を下ろせる日は、それが生々しく語り継がれている限り、恐らくやっては来ないのだろう。その一方で、戦争を体験した世代は戦後の人生で幾つもの“終止符”を打ってきた――いや、打とうとしてきたのかもしれない。そうしなければ、生きていけなかったからだ。

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スタークは、「日本を訪れたことが1つの終止符であり、私と会話したことも“大きな終止符”になる」と言った。「戦後、軽犯罪の受刑者ばかりを収容する郡立刑務所に勤めたことが大きな幸いだった」とも語った。「自分と同じようにPTSDで苦しむ帰還兵の囚人と対話することで、自分自身も救われた」と言う。そうやって、少しずつ人生を前に進めてきたのだろう。祖父もまた、終止符を求めていたに違いない。巣鴨プリズンで今度は自分がアメリカ軍の管理下に置かれ、敵の支配下で生きるしかなかった捕虜たちの苦しみを理解したという。一方で、彼は「連合軍だけでなく戦後の日本社会からも“戦犯の烙印”を押された」と感じ、苦悩していた。そんな祖父にとって、オランダ人の元捕虜からの手紙はこの上なく有り難い終止符だっただろうし、「地獄の苦しみだった」という手記の執筆は、自分の手で終止符を打つ作業そのものだったと思う。私は祖父が打った終止符に気付かず、パンドラの箱を開けてしまったような気がする。そんな私に、2003年のADBC総会でこう言ってくれた元捕虜がいた。「おじいさんについて始めた勉強を、最後までやり抜くんだよ。だけど、それが終わったらそれを保存して先に進みなさい。楽しいことを見つけなさい。幸せな家庭を持って、幸せになりなさい」。言い換えればそれは、ある時点で「終止符を打て」というメッセージだったのかもしれない。だが、私のその後の12年間は、祖父が残した物語を紐解きながら、逆に新しい扉が開いていく経験の連続だった。こうして記者になったのもその1つだし、ウォーナー一家との出会いやスタークとの対話は、自分が次の世代に語る物語に必ず組み込まれていく。それは、過去を美化するということではなく、祖父たちの体験を在りのままに踏まえた上で、その先に新たな歴史を紡ぐということだ。

今年のADBC総会では、参加者の間から「(この戦友会は)世界一のセラピーだ!」という声が上がっていた。癒やしの場になり得る戦友会に参加することさえできず、孤独に戦い続けた人もいれば、そうした父親を理解しようとここに集まる家族もいる。最終日の全体ディナーでは、生涯父親を苦しめ続けた捕虜生活の足取りを追おうと、数年前からこの会に参加しているという男性と隣の席になった。亡き父が戦争の記憶を語ったのは、たった一度だけ。海に行った際に父親の足にある傷痕の理由を聞くと、「地獄船での移送中に死んだと勘違いされ、水分を求めた他の捕虜が私の足から血を吸おうとした」と聞かされた。この男性は、父親の苦しみを自分や子供たちも受け継いでいる中、孫が生まれたのを機に“家族の為に”父の足跡を調べ始めたという。苦しみの記憶は、過去と向き合うことでしか癒やせないのかもしれない。2003年のADBC総会には約100人の元捕虜が参加していたが、今年は13人に減っていた。子世代に代替わりしつつあるこの会の目的は、過酷な時代を生き抜いた父親たちを称え、その記憶を次世代に語り継ぐこと。その記憶の先に、新たな扉が開くことを願って止まない。 =おわり

               ◇

今回の特集で、ある作戦に参加した元日本軍兵士の証言取材が困難を極めました。窓口である筈の『全国戦友会連合会』は既に解散。漸く辿り着いた元兵士2人も共に90歳を超え、「取材を受ける健康状態ではない」とご家族に固辞されました。終戦時に20歳だった方は今年90歳。過酷な戦場体験を語ってくれる先輩がいなくなる時代が確実に近づいています。その時には、過去と誠実に向き合う努力がより必要になるでしょう。 (本誌副編集長 長岡義博)


キャプチャ  2015年8月11日・18日号掲載


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テーマ : 戦争
ジャンル : 政治・経済

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