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シャープ、2つの創業家“100年の恩讐”――早川家vs佐伯家…“中興の祖”から始まった疑似同族経営が液晶王国崩壊の原点だ

自力再生の目が粗消滅し、“会社解体”のステージに突入した『シャープ』。その危機の原因を辿ると、5年前のある人物の死に突き当たる。シャープの“ドン”と呼ばれた2代目社長の佐伯旭だ。 (川端寛)

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今年5月14日、シャープが発表した『2015~2017年度中期経営計画』を見て、胸を撫で下ろした人々がいる。栃木県矢板市と広島県福山市の関係者だ。両市ともシャープの工場があり、閉鎖が噂されていた。矢板工場はテレビの組み立て工場で、液晶テレビの『アクオス』等を組み立ててきた。福山事業所は電子部品工場で、現在はカメラやタッチパネル等の部品を作っている。閉鎖になれば数百人から1000人程度の雇用が失われ、取引先にも影響が出る。両市の関係者は、シャープの中計を固睡を飲んで見守っていた。中計では、取り敢えず両工場とも存続することになった。矢板工場は規模こそ縮小されるが、閉鎖を免れた。福山事業所も第1・第2・第3工場は閉鎖されるが、第4工場が生き残る。今回の中計に対しては、金融機関等から「手緩い」との批判が出ており、追加リストラも予想されるが、最悪の事態は回避できた。矢板と福山は、液晶パネルで有名な三重県の亀山工場や大阪府の堺工場に比べると知名度が低い。しかし、2つの工場はシャープにとって特別な工場であり、どうしても閉鎖したくない理由がある。1968年に作られた矢板工場は、シャープが関東への“再進出”を果たした記念すべき工場だ。大阪市阿倍野区西田辺町に本社を置くシャープは“大阪の会社”と思われがちだが、創業者の早川徳次は東京都中央区日本橋の錺職人から身を起こした江戸っ子であり、創業の地も東京である。徳次は丁稚時代に穴の無いベルト『徳尾錠』を考案して財を成し、後に社名の由来となるシャープペンシルを作り始めた。しかし、事業が軌道に乗ったところで関東大震災に襲われ、工場と妻子を失う。借金返済の為にシャープペンシルの特許を売却した先が大阪の文具店だった関係で、僅かな従業員と大阪に移り、『早川金属工業研究所』を立ち上げた。1942年には『早川電機工業』に社名を変更し、戦争を挟んでラジオ・白黒テレビ等で業容を拡大していった。大阪で成功を収めた徳次が関東に再進出したのが1968年。1964年の東京オリンピックをきっかけにカラーテレビの爆発的な普及が始まり、シャープも大消費地に近い関東に生産拠点を構えることにした。様々な自治体が誘致を競ったが、最も好条件を提示したのが栃木県矢板市だった。田圃と林檎園しかなかった片田舎にいきなり数千人の雇用が生まれ、市は徳次への感謝を込めて、工場の地名を“早川町”とした。




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一方、福山市大門町に福山事業所が完成したのは、『プラザ合意』のあった1985年。円高ドル安が始まる直前のことだ。『カシオ計算機』との“電卓戦争”を戦い抜いたシャープは、そこで蓄積した半導体技術をベースに、電子手帳・パソコン等のデジタル機器に進出しようとしていた。その基幹部品を作る工場として建てられたのが福山事業所である。何故、福山なのか? 最も説得力を持つ理由は、当時の社長だった佐伯の出身地が広島県だったということだ。矢板工場の時と同じように大企業の進出に喜んだ福山市は、佐伯の名前に因んで工場の地名を大門町旭とした。佐伯は福山事業所を建てた翌年の1986年、16年間務めた社長を退き、会長に就任。1年後の1987年には相談役となり、「見事な引き際」と称賛された。だが、実はそこからが佐伯に依る長い院政の始まりだった。佐伯が92歳で大往生するのは2010年。院政はその少し前、2008年頃まで続くのである。佐伯が後継に指名したシャープ3代目社長の辻晴雄は、文系の大卒採用1期生として早川電機工業に入社した。経理課に配属された辻はここで、“経理の鬼”と呼ばれた佐伯の目に留まり、経営計画や営業部門で枢要な地位に就く。辻はマーケティングや販促で手腕を発揮したが、社長就任の決め手は何といっても佐伯との近さだった。辻の実弟は佐伯の次女と結婚しており、姻戚関係にある。辻の社長時代、シャープは電子手帳の『ザウルス』や液晶の『ビューカム』といったヒット商品を生み出してブランド力を高めたが、社内組織や役員人事といった会社の枢要な部分は「実質的に佐伯さんが支配していた」(シャープOB)という。4代目社長の町田勝彦は、辻より更に佐伯と近しい。町田は、佐伯の長女・優子と中学時代の同級生。2人は、町田が京都大学農学部の時に再会し、恋愛結婚する。大学を卒業した町田は一旦、乳業会社に就職するが、1969年に早川電機工業に移った。

町田が岳父の佐伯に誘われたであろうことは想像に難くない。町田が入社した翌年の1970年、佐伯は早川の後を継いで社長となり、直ぐに社名を早川電機工業からシャープに変更した。佐伯は自分の眼鏡に適った辻や町田を姻戚関係に取り込み、経営の足場を固めたのだ。1998年に社長に就任した町田は、液晶テレビ『アクオス』の大ヒットに依り一躍、大物経営者の仲間入りをする。自宅には夜討ち朝駆けの新聞記者が押し掛けた。だが、初めて町田の自宅を訪ねた記者は、一様に道に迷った。教えられた住所を頼りに行くと、その家の門には“佐伯”の表札が掛かっていたからだ。記者たちは本社に電話をかけ、「この住所、間違っています。最高顧問の佐伯さんの家ですよ」と不平を言う。態と事情を教えずに夜討ちに行かせた先輩記者は、「そこでいいんだよ。勝手口に回ってみろ」と電話口で嘯くのが常だった。勝手口に回ると、そこに“町田”という申し訳程度の表札がかかっていた。女婿の町田は、佐伯邸から会社に通っていたのである。2人の関係は“推して知るべし”だ。町田の後を受けて5代目の社長になった片山幹雄は、佐伯の姻戚ではない。だが、片山の父親は佐伯の知人で、佐伯が片山の父親に対し、東京大学工学部を卒業した息子を「自分のところに預けろ」と持ち掛けた可能性はある。実際、片山は極めて早い段階から将来の社長候補と目されており、佐伯はまだ片山が30代の頃、片山の上司だったシャープの役員に、「(片山が)社長の器かどうか見極めてくれ」と首実検を依頼している。既に太陽電池や液晶テレビの開発者として頭角を現していた片山は、この役員のお眼鏡にも適い、49歳で社長になった。つまり、佐伯が社長になった1970年から、片山が社長を退任する2012での42年間、シャープでは実質的な“佐伯王朝”が続いていたのだ。これが、日本を代表する電機メーカーの1つであるシャープのガバナンス(企業統治)の実態である。

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ここで、1つの大きな疑問が浮かんでくる。何故、シャープの同族支配は創業家の早川家ではなく、佐伯家に依ってなされたのか? 実は、佐伯には評伝らしい評伝が1つも無い。シャープクラスの会社の社長なら当然、取り上げられている筈の日本経済新聞の『私の履歴書』にも出ていない。財界活動も殆どしておらず、その素顔は秘密のベールに覆われている。「佐伯さんには、自分の出自に対する強烈なコンプレックスがあった」――あるシャープOBは、こう明かす。佐伯は広島県出身だが、幼い頃に両親に連れられて満州に渡った。そこで両親と兄弟を亡くし、天涯孤独になったところを、満州進出の為に現地に出張していたシャープの専務に拾われた。日本に連れ戻された幼い佐伯を引き取ったのが、シャープ創業者の早川徳次である。先に触れたように、徳次は関東大震災で妻と2人の息子を亡くしている。大阪で再起した後、会社の事務員をしていた琴と暮らすようになったが、琴の意思で入籍はしておらず、子供にも恵まれなかった。そんな事情から、徳次の自伝等には「引き取った佐伯を我が子のように育てた」という記述も見られるが、関係者は「そんな単純な関係ではなかった」と打ち明ける。徳次は晩年、外で知り合ったコトエという女性との間に女児を儲けた。しかし、コトエは子供を生んで直ぐに病気で死んでしまう。女児は早川家に引き取られた。これが早川家の長女・住江(社会福祉法人『育徳園』前理事長)である。徳次が佐伯を“我が子のように育てた”のであれば、佐伯と住江は兄妹の関係になった筈だが、佐伯は住江の“兄”としては扱われなかった。14歳で早川金属工業研究所に働くようになるまで、佐伯の立場は飽く迄も“早川家の下男”だったのだ。佐伯の最終学歴は“1933年、大阪経理専門学校卒”となっているが、これは入社後、夜学に通って得た学歴であり、入社前は尋常小学校しか出ていない。“我が子のように育てた”のなら、進学させてもよかった。だが、これは必ずしも徳次が佐伯を虐げていたことを意味しない。徳次自身も早くに実の親から離され、小学校にも碌に通わぬまま錺職人のところに奉公に出ている。自分と同じ境遇に置いたのだ。

幼い徳次が奉公先で1日1字ずつ漢字を覚えて読み書きができるようになったのと同じように、佐伯もまた努力、努力で伸し上がった。熱を出して会社を休んだ日に会社の人間が見舞いにいくと、濡れたタオルを頭に巻いて、布団の中で経理の勉強をしていたという逸話がある。徳次はこうした佐伯の生き様を高く評価し、「負けず嫌いの根性と、仕事への直向きな情熱・努力、それらを勘案すると、大学卒以上のものを身につけている」と語っていた。佐伯の商才を見抜いた徳次は1947年、佐伯が29歳の時に早くも取締役に引き上げている。1954年には常務、4年後の1958年には41歳で専務になる。佐伯は、徳次にとって最も信頼できる腹心になった。実は戦後間もない1950年、2人の関係が大きく変化するある出来事があった。会社の資金繰りが急速に悪化し、追い込まれた徳次は、資金捻出の為に持ち株を売却し、会社を清算する覚悟を固めた。それを察知した佐伯が労働組合と銀行の間を奔走し、労組に200人強の自主退職を認めさせた。株を手放した徳次は会社にとって象徴的な存在となり、窮地を救った佐伯が実質的なトップになった。佐伯が専務になった頃、徳次は経営への興味を失いつつあった。視察と称して、3ヵ月間も娘の住江を連れて、米欧を回ったりしている。1957年に妻の琴が亡くなったことで、一段と経営と距離を置くようになった。佐伯は専務就任と同時に実質的な“社長代行”になり、経営の実権を握った。しかし、徳次が健在なうちは決して社長の椅子を要求しようとせず、12年もの間、専務というナンバー2の座に甘んじ続ける。「下男が主人を追い落としたのでは、世間からも謀反の誹りを受けるだろう。機が熟する前に事を起こせば、徳次を慕っている古株の役員や従業員を敵に回す」――佐伯はじっと時を待った。

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佐伯が行動を起こしたのは、1960年代後半である。在阪屈指の大企業になったシャープは、1970年の大阪万博にパビリオンを出展する予定だった。出展費用は15億円である。同じ頃、シャープの技術部門は半導体事業への進出を検討していた。シャープは1960年代の半ばから、カシオ計算機と激しい“電卓戦争”を戦っていたが、半導体工場を持たないシャープは、心臓部分の半導体は自分たちで回路を設計し、外部の半導体メーカーに生産してもらっていた。「競争力を高める為に、自前の工場を持ちたい」というのが技術部門の悲願だった。土地取得にかかる費用が15億円である。当時から財務基盤の弱かったシャープに、“万博”と“半導体”の両方を同時に進める体力は無かった。なけなしの15億円をどちらに使うか。万博派は、「半導体など、ものになるかどうかわからない。万博は、シャープの名前を世界に知らしめるまたとない機会。出展を見送れば関西財界から睨まれるし、社員の士気も下がる」と主張した。一方の半導体派は、「たった半年で撤去する万博パビリオンに、15億円も投じるのは馬鹿げている。半導体工場は、シャープが総合エレクトロニクスメーカーに飛躍するきっかけになる」と応戦した。社長代行の佐伯は、2つの提案書を前に大いに迷った。社長である早川徳次の意見を聞き、役員会で議論させ、じっと考え込んでいたという。佐伯が選んだのは半導体だった。1970年、シャープは吹田市の千里丘陵で開かれる万博を蹴って、奈良県の天理市に総合開発センターを竣工した。天理の総合開発センターは半導体・液晶・太陽電池に繋がる先端技術の一大開発・生産拠点になり、この時の佐伯の英断は“千里から天理へ”と呼ばれ、長く語り継がれることになる。

この年、76歳の徳次は会長に退き、53歳の佐伯が満を持して社長になる。社長就任と同時に、社名を早川電機工業からブランド名だった『シャープ』に改めた。経営陣は辻・町田といった姻戚で固め、早川姓を名乗る徳次の義理の息子(住江の夫)や、その子供(徳次の孫)たちが要職に就くことはなかった。早川家の関係者の中には「佐伯に会社を周到に乗っ取られた」と言う者もいるが、「創業者に経営を託された」というのが佐伯側の言い分だろう。何れにせよ、佐伯の周到さ故、早川家から佐伯家へのパワーシフトは、表向きにはお家騒動が起こることもなく静かに完了した。佐伯は社長を16年間、会長を1年間務め、70歳で相談役に退く。この17年間がシャープにとって大躍進の時代だったことは、衆目の一致するところである。だが、その時代に唯一果たせなかった夢がある。家電の王様であるテレビ市場の攻略だ。1953年に国産第1号の白黒テレビを発売したのはシャープである。どこよりも早くテレビ事業を始めたシャープだったが、企業規模が小さかった為、自前のブラウン管工場を持つことができなかった。カラーテレビの開発も早かったが、同じ理由で自前のブラウン管は作れなかった。嘗て、町田はこう語っている。「そりゃあ、おもろないで。日立さんからタマ(ブラウン管)を売ってもらって、それを組み立ててシャープのブランドで売るんや。タマの仕入れ値は日立さんより高くなる。でも、売り場ではブランド力が無いから、日立さんのテレビより安く売らなあかん。でも、テレビは家電の王様やから、やらんわけにはいかんのよ。辛い商売やで」。

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「全てのテレビを液晶にする」という社長就任時の町田の言葉には、こうしたブラウン管時代の雪辱が込められていたのだ。まさに、全てのテレビがブラウン管から液晶に置き換わっていく中、ブラウン管時代にテレビのチャンピオンだった『ソニー』まで、シャープに液晶パネルを買いに来た。歴代シャープ社長の中で誰よりも溜飲を下げたのは、屈辱の時代を知る佐伯であっただろう。町田は、社内で“一流企業”という言葉をよく使った。自前でブラウン管を作れない二流メーカーから、液晶の最先端を走る一流メーカーに成り上がった充実感が現れている。亀山工場で作った液晶テレビが飛ぶように売れ、町田と片山は“世界の亀山ブランド”と胸を張った。この頃のインタビューで、「液晶テレビの次に来る技術は何か?」と問われた片山は、「液晶の次も液晶」と答えている。シャープ社内には、“液晶部門に非ずんば人に非ず”の空気が充満した。町田や片山の方針には絶対服従。現社長の高橋興三が言う“シャープのけったいな文化”は、こうして醸成されていった。その危うさを誰よりも早く察知していたのが、実は佐伯だった。“世界の亀山”が一世を風靡していた頃、佐伯は知人にこう話している。「液晶の投資は亀山で終わりにしたほうがいい」。90歳にならんとする老顧問の話に耳を傾ける者は、最早シャープ社内にはいなかったが、75年の長きに亘りシャープと生きてきた佐伯は、シャープという企業の勝ちパターンを誰より知悉していた。

蝶のように舞い、蜂のように刺す――ボクシングにおける“ヒットアンドアウェイ”こそ、シャープが最も得意とする戦術だった。こんなエピソードがある。電卓戦争でシャープとカシオが勝ち残った頃、電卓で生き残れなかった『松下電器産業』(現在の『パナソニック』)の松下幸之助が、新任社長の山下俊彦に言った。「松下はどうしてシャープに勝てなかったのか? シャープの人にいっペん教えてもらえ」。山下はシャープを訪れ、「誰かに講演をお願いしたい」と頭を下げた。「扨て、どうしたものか」――シャープ社内では侃々諤々の議論になったが、「敵に塩を送ることはない」という意見が大勢を占めた。だが、議論を聞いていた徳次はこう言った。「聞きたいというなら教えてあげればいい。それで負けたら、うちがそこまでの会社だったということ」。技術担当役員の佐々木正が松下電器を訪れ、数百人の幹部社員を前に講演した。徳次が社長だった頃のシャープは、いつも他社に先駆けた新機軸の商品を出し、“ハヤカッタ電機”と揶揄された。シャープが道を切り拓き、松下電器が市場を大きくする。利益を手にするのは松下だったが、徳次は「消費者が喜ぶならそれでいい」と気にしなかった。「松下が出てくる前に次の市場に飛び移れ」というのが徳次の哲学であり、その実践を間近に見て育ったのが佐伯だ。シャーブが液晶テレビで我が世の春を謳歌していた時、佐伯の鋭いビジネス喫覚は「そろそろ危ない」と近い将来の危機を嗅ぎ当てていたのである。だが、自分たちが“一流企業”になったと思い込んだ町田と片山は、ヒットアンドアウェイの戦術を捨て、足を止めて相手と真面に打ち合うボクシングスタイルを選択した。

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片山が社長、町田が会長だった2009年、シャープは4000億円近くを投じ、大阪府堺市に世界最大の液晶パネル工場を建てる。韓国の『サムスン電子』を力ずくで捻じ伏せる戦略だった。90歳を間近にした佐伯に、この決断を止める力は無かった。結局、この巨大投資が裏目に出て、シャープの業績は坂道を転がり落ちるように悪化していく。液晶王国を築き上げ、シャープの遺恨を晴らした“佐伯の息子たち”は、液晶に拘り過ぎた故に、シャープの経営を危機に追い込んでしまった。ドロドロした“疑似同族経営”とは無縁の世界で育った現社長の高橋興三は、佐伯の息子たちに絶対服従する“けったいな文化”を変えようとした。だが、沁みついた習性は一朝一夕に変わらない。経営危機に追い込まれても、社員の多くは“決めるのは上”と指示を待ち続けている。液晶と共に昇り、液晶と共に沈まんとするシャープ帝国――創業者と中興の祖は、その結末をどんな思いで見守っているのだろうか。 《敬称略》


キャプチャ  2015年7月号掲載


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テーマ : 経済
ジャンル : 政治・経済

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