【思想としての朝鮮籍】第2部・朴鐘鳴(上) 国を持たないということ

待ち合わせ時刻を少し過ぎて、朴鐘鳴は喫茶店に現れた。朝鮮古代史・日朝関係史が専門の歴史研究家だ。韓国から来た孫ほど若い客たちとの話が弾み、つい時間を忘れたという。学生から“仙人”と渾名された超然とした趣。ホットコーヒーを注文すると、笑みを浮かべて切り出した。

「いや、韓国の若者は中々ズケズケとものを仰います。『先生は朝鮮籍ですか? それならアカですね』なんてお聞きなさる」

――(筆者が苦笑いしながら)何と答えたんですか?
「『私が理解する範囲で言えば、アカですね。でも、アカこそ良心的なんですよ』って(笑)」

『在日本朝鮮人連盟(朝連)』の青年組織で運動を始め、民族学校の教師を経て、総連や傘下の学術団体で働いてきた。経歴はまさに総連系人士だが、朴はその呼称をやんわりと拒む。

「以前、韓国から来たお方に『先生は朝鮮総連系ですよね?』って訊かれたんで、こう言いました。『“総連”を抜いてちょうだい。私は朝鮮系です』って。いや、私は今も基本的には総連支持ですよ。その上で、私は朝鮮系なんです」

――それは、朝鮮籍を堅持する姿勢にも通じていますか?
「私は先ず民族ありきです。その上で、民族がより良く生きる為に国があり、その国を運営する為の政府がある。民族史の流れの中で、人として、朝鮮民族の一員として、私にとって何が一番真っ当な生き方かを考えてきたつもりです。朝鮮籍はその結果ですねぇ」


1928年、植民地期の朝鮮・全羅南道に生まれた。独立運動で官憲にマークされ、内地に逃れた父を追い、母と兄と3人で大阪にやって来た。5歳の時である。“植民地出身者”の意味を思い知らされたのは、同世代の多くと同様に“学校”だった。「当時は差別意識も剥き出し。教師が部落の子に『おいヨッツ』なんて、平気で言う。況や、朝鮮人は人間扱いされない。朝鮮人嫌いの担任がいてね、ある時、『日本人の姓は2文字が普通なのに、朝鮮人は1つでいかん』と言って、『おい朴鐘』って…。『おいチョーセン』のほうがまだマシ。アイデンティティーを根こそぎ否定される訳です。『お前は真面に扱われるとは夢にも思ってはいけない』と毎日告げられるようなもんです」。この時の悔しさこそ、朴の民族教育への尽きぬ思いの原点なのだろう。300人以上いる小学校で、成績は常に3番から5番以内。進学を希望した。内申書と面接で進学できたが、教師が内申書作成を拒んだ。「経済的に不安定で、『家移りが多い』とか並べたてて、『書いても落ちる』と」。朴より成績が下の級友が、逆に朴よりいい学校に応募し、次々と受かる。「父は、『朝鮮人は多少のことは我慢して努力するしかない』って仰いましたね。差別だとかは言いませんよ。“密告の時代”です。若し、私が外でそんなこと言うたら大変なことになります。父の配慮でした」。仕方なく通い始めた中学校には、朴と同じ理由か、少なからぬ同胞が居た。「皆の体験を訊くと、自分の実感に広がりができるんです」。学校で教師から差別され、地域の少年団でも目の敵にされた。その“理由”は、朝鮮人であること。朝鮮人である限り、同じ人間として扱われない。「それで…気持ちが折れちゃったんだよね…」




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学校をサボり、近くの堤防で空を見上げて過ごし、弁当を食べて帰る。10日もすると、近くの繁華街をうろつくようになった。似たような者たちが目について、行動を共にした。「皆、金がないから、ありそうな奴に因縁をつけて路地に引っ張り込んで巻き上げる。“ゴロ巻 き”っていうんですけど、そんなことばかりでした」。別のグループとの喧嘩沙汰も繰り返した。「最初に、素手か得物(武器)かを決めるんです。得物は大抵、棍棒か飛び出しナイフ。一番怖いのは、集団の代表が1対1でやる時です。集団の面子や仲間の目があるから、とことんやってしまう」。朴も一度、ナイフで渡り合った。向き合うと、背中に冷たいものが走った。「体が自然に震えてくる。テレビや映画みたいに冷静なのは嘘ですわ」。互いを牽制していると、何かの拍子で朴が転んだ。飛び掛かってきた相手に右手を突き出したが、手にナイフは無かった。「あの時、落としてなかったら相手を殺してたかも」。太腿に鋭い痛みを感じたが、気がつくと体勢を入れ替えて相手に馬乗りになり、無我夢中で殴りつけていた。「そしたら、相手が『参った』と言って終わったんですけど、見るとズボンが血塗れ。仲間が血止めと包帯・猿股とズボンをどこかから調達してきてね。暫くは、両親に隠すのに苦労しました」。学校に行けば、やはり喧嘩だった。「揉めると必ず『鮮公』『チョーセン』『日本におるのが間違っとるんじゃ』とかね。喧嘩も1対3人とか、酷い時は1対10人とか。でも、当時は展望もないから『死んでもいい』と思ってやった。相手が多い時は、中心人物を狙い定めて、そいつが音を上げるまで徹底的にやる。そんなことを1ヵ月~1ヵ月半も続けると、『あいつは相手にするな』『煩いから構うな』となって、表向きは誰も向かって来なくなる」。諫めてくれる同胞もいたが、改まらない。「喧嘩になれば、理由がどうあろうと全て私が悪者にされる。戦時下だから学校に配属将校がいるんですけど、私だけが問答無用で殴られる。だから、余計に繁華街に行ってアホなことをする訳です」

中学2年生から粗3年間、喧嘩に明け暮れた。「心理的には、10年にも20年にも匹敵した。何も見えないし、自分でも情けない。昼間は強がっていても、晩に布団に入ると躰がガタガタ震えて、涙が溢れてくる。『俺、どうなるんだろう』って。心が死んでいた時代でした…」。暫し沈黙した後、語尾を伸ばす独特の口調で私に問うた。「中村さんねえぇ、人間にとって何が一番怖いと思いますか? 私はね、“展望がない”“先が見えない”ことじゃないかと思うんですよ。先が見えないという状態は、恐ろしいまでに人の心を荒ませてしまう」。差別は、人からこの世で生きる展望・最低限の社会への信頼感覚をも奪ってしまう。行状は両親の知るところとなる。「父が私を厳しく叱ると、母が物凄く泣く。それで立ち直れたらいいけど、先が見えないから暗闇を超えることができない」。涙が溢れ、言葉に詰まる。「…兎に角、私は母を泣かせたことは今でも許されないことだと思っています」。幼い心に刻みつけられたのは、国を持たない民族の意味だった。「だから、私は若い人に言うんです。『仮令、分断していても国があるのは素晴らしい。況してや、統一すれば…。人が人としての存在を認められないのは、どれほど大変なことか』と」。だが、時代は動いていた。朝鮮で独立運動に関わっていた父は人望が厚く、朴の自宅には様々な青年が出入りしていた。「印象に残っているのは“虱の兄さん”。時々訪ねて来ると、いっぱい虱を置いていくの(笑)」。青年は日本の敗戦を見据え、独立国家建設に向けた結集を呼び掛けていたのだ。

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玉音放送は軍需工場で聴いた。不良少年だった朴とて、“皇国臣民の義務”と無縁ではない。連日、学徒動員に駆り出されていたのだ。「ラジオで聞いたけど、よくわからない。周りも寒々しい雰囲気だった」。父親は町工場を辞め、組織活動に没頭した。「父の忙しさは、以前と比較にならなかった。家にいても必ず、何かを書いたり読んだりしていて、一段落したら直ぐに出て行く。夜中の2~3時でもお構いなし。家から15分くらいの場所に事務所が出来てね。母親に言いつけられて行くと、沢山の同胞青年がいて、その人たちが父に挨拶をしている。父は何れ、独立する為の活動をしてるらしいことはわかる。『自分も何かしないといけない』ということはわかる訳です」。朝鮮人学校も産声を上げ始めた。「疎開した子供が戻ってなかったり、空襲であちこちの家が空いていた。それを5~6部屋借りて教育を始めた。日本の皆さんも、食べるもの・着るもの・仕事が無い状況です。その中で、事務所も学校も作ってね。大変だったと思う」。解放後の家計は、母と兄、そして朴が担った。「配給だけでは生きていけない。米やら雑穀を買い出しに行く。三重とか滋賀の奥のほう、遠い所では秋田にも行った。その時は、兄貴さんが切符を何処からか入手してきて、朝9時の各駅停車で夜中に着く。翌朝、早くから農家を回って売ってもらい、兄貴と各60kg、肩が抜けそうになりながら背負ってね。帰省ラッシュみたいな超満員列車に荷物と自分を詰込んで、持ち帰って地元で売るんです」。解放直後の家計を支えたのは、手先が器用で商才のある兄だった。「敗戦後は、アメリカ軍から家畜飼料のトウモロコシが流れてくる。そのままでは食べられないから換いてもらい、篩で漉して砂糖を混ぜる。四角い箱に仕切りを入れ、電極をつけて、粉を入れて電気を入れる。カステラの出来上がりです。闇市に持って行くと売れてね。近所の人が、『兄ちゃんは賢いな。あんたとは違うな』って。兄貴さんは飴も作った。自分で型を作って、香料を友人のとこで工面してきて、暖めて溶かし、棒を突き刺して冷やすとポロンと取れる。兄貴さんは電池や変圧器も作った。石鹼も作った。あれは滅茶苦茶売れましたね。何でもやりました。私は単なる手伝い(笑)」

環状線で数駅の範囲には、梁石日の『夜を賭けて』の舞台となったアジア最大規模の軍事工場『大阪砲兵工廠』の跡地があった。希少金属の宝庫だったが、そこは避けたという。「あそこは周辺の人が縄張りにしてるでしょ。礼を尽くして仲間に入れてもらわないと、大変なことになる。だから、智恵を働かして勝負しないといけなかった」。同胞内でも、生きる為の闘いは激しかったようだ。一方で、朴はまだ“ゴロツキ生活”とは決別できずにいた。転機は1946年の初頭だった。「実際、『そろそろ足洗わな』と思っていた頃です。父を慕って事務所に出入りしていた青年に出会いました。その出会いが無ければ、今頃は一廉のヤクザになってたかもしれません。見るに見かねたんでしょう。ある日、呼び出されましてね。しょっちゅう家に来て父に丁重にしている人なので、『何や知らんが、この人は父に敬意を持ってくれているんだ』と思い、ついて行ったんです」。青年の後ろを歩いて行った。向かった先は、淀川の堤防である。中学をサボって時間を潰し、“街の不良少年”へのスタートを切った場所だった。切り立った斜面を登り、川の側へ降りると、青年は朴を一喝した。「この馬鹿が! お前のお父さんは必死になって運動をしているのに、お前は何だ! 馬鹿者め。目を覚ませ!」。痛感していただけに、朴も収まりがつかなくなった。「何で俺に指図するんや! お前に偉そうに言われる謂れは無い。俺は俺や!」「俺が尊敬している人の息子がこれでは見ていられない」「やから何やねん!」。直ぐに殴り合いになった。何度も向かって行く朴だが、その度に殴り飛ばされて地面を舐めた。「やられました。私も喧嘩三昧の日々を送ってました。2つや3つ年上くらいなら負けない筈なんだけど、アイツは強かった。とことん抗うつもりだったんですけど、もうコテンパンにのされちゃった」

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立ち上がる気力も失い、血だらけの顔を空に向けて喘いでいると、青年は朴の後ろ襟を掴み、仰向けの姿勢のまま斜面に引き摺り上げ、隣に並んで腰掛けた。「この馬鹿、しっかり聞け!」。青年は語り始めた。「父のやっていることを丁寧に説明して、『なのにお前は』『しっかりしろよ』って。その青年、父への敬意を深く込めて言ってくれるもんだから、胸に染みるよね…。父のやっていることは胸に染みるよね…。薄々わかっている訳だから、胸に応えるよね…。これを契機に変わらんとあかんと思うよね…」。そして、青年は続けた。「お前は真面に勉強せんからわからんやろう。日本の歪んだ教育で朝鮮人は劣等民族と思っているかもしれんけど、本当は違う」。青年は、秀吉の軍隊と闘った李舜臣ら民族史上の人物の名を並べ、その業績を語った。「潜水艦や金属活版だって、朝鮮人が初めて作った。天文観測を初めてやったのも朝鮮人なんや」。カタカナの“チョーセン”ではない“朝鮮”との出会いだった。「自分で勉強するようになったらわかったんだけど、実はあの時、青年が言っていた朝鮮史の話、半分以上は事実じゃなかった。ようあんな嘘ばっかり教えたなと(笑)。でも、半分は真実だったんですよ」。朴は“真実”と言った。青年が伝えたかったのは、書物を紐解けば得られる“事実”より寧ろ、“真実”だったのだろう。人間は平等であり、誰もがやり直すことはできるという“真実”を。「帰宅したら、父にも『この機会だから…』と懇々と論されましてね。それで決心したんです。『よし、俺はもう一度一からやり直そう』と。『よし、小学校の時にあれだけ出来たんだから、今だってやれば出来る』と。それで勉強しましたね。目から血が出るくらい、頑張ったね」

ある日のインタビュー。忘れられない場所として朴が案内してくれたのが、この堤防だった。初夏の日差しが煌めく緑の斜面を見渡して、朴は言った。「ここは、私にとって“先行きの見えない絶望”を感じた場所であり、“生き直し”の契機となった場所です。今も、月に1回は散歩します」。当時は、中学4年生を終えれば旧制高校の受験資格が生じた。「目から血が出るくらい勉強したから、何とかなるんじゃないかと思って三高(後の京都大学教養部)を受験したら、奇跡的に受かった。飛び上がる気持ちだった。『まだまだ俺も捨てたもんじゃない』と」。父から懇々と論された「努力すれば何れは開ける」が思い出された。だが、決意は別の方向へ向かって行く。「その頃には、若い同胞の繋がりができていて、勉強会を開いたりしてました。民主主義とか、戦前の日本政治の問題点とか、植民地政策のこととか、開くと藁が挟まっているような質の悪い紙で印刷した本をしこたま読んでいたから、雑駁な知識は詰まっていた。参加者も5人・10人と増えていく。青年が集まって議論して、もっと大きい集まりに出たり、下手糞な歌を歌ったりと、場ができていく。それで、『青年の集まりを本格的にやったほうがええんとちゃうかな』という気持ちになった。その頃には父に、『こう聞かれてこう答えたけど、よかったんやろうか?』とか、『こんなことを青年に話そうと思うけど、ええやろか?』とか意見を求めたり、共通の目的意識を持つようになっていた。勿論、父親は厳格な存在ですよ。向かい合って椅子に座っても、背筋をぴーんと伸ばしていましたから。それで、殆ど学校に行かなくなってしまった。言うなれば、決心が別の決心に変わっていったんですね」

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旧制高校廃止に伴う新制京都大学への編入もあり得たが、単位がまるで取得できていなかった。先輩を頼って左派朝鮮人運動にシンパシーを寄せていた末川博氏(当時は立命館大学長)に相談、勧めに応じて立命館大学を受験・入学したが、授業で返事だけして大阪に戻って活動する毎日だった。結局、関西大学に編入した。「それまでアホなことばかりやっていたのは、同胞の間でも有名な訳です。認められないといけない。父に恥をかかせてはいけない」。そんな思いが、活動へと自らを駆り立てた。朝連傘下の『在日朝鮮民主青年同盟』の旭都支部(大阪市旭区と都島区を所管)の中心として、オルグや集会に駆け回った。最盛期には、180人ものメンバーがいた。「3.1(独立運動記念日)や8.15は、扇町公園のプールで大会をする。当時、2万人は集まりました。今、若い子に言うても、『先生、嘘言うたらあきません』って言われるけど(笑)。地域の大人がトラブルを抱えていると聞けば、周りの誰かを派遣して解決させる。結婚式があれば、出向いて盛り上げ役をする。葬式があれば、受付やら何やら手伝いもする。台風が来て同胞宅の壁が崩れたら、直しに行く。毎日やることはあるし、同胞の役に立てるんで気持ちがいい訳ですよ」。朴の日々は、当時の民族運動の高揚に重なる。しかし、東西対立の先鋭化と共に在日朝鮮人は統治の不安要素と見做され、拠点たる朝鮮人学校への弾圧が始まった。その第一歩は1948年1月、文部省学校教育局長名で各都道府県等に出された通達『朝鮮人設立学校の取り扱いについて』だった。朝鮮人の子供も、日本人同様に“日本の学校”(一条校)に就学させる義務があり、既存の学校も私立学校としての認可を受けること等が指示の柱である。外国人登録令以降の「外国人と見做しつつ日本国籍は有する」という特異な地位が、民族教育否定の“武器”になった。「日本国籍保有者に、朝鮮人の教育は不要」との“理屈”である。“国籍”は権利を保障する支えであると同時に、1人の人間の自由を制限する“檻”にもなり得る。

蟀谷を指し、朴は言った。「今も思い出すと、この辺が煮えくり返ります。『朝鮮人の自主教育など無意味である。だから、朝鮮人学校というのは存続を許すべきではない』と。一方で、アメリカ軍の命令があった。『朝鮮学校は過激で占領政策に反するから閉鎖しろ』と。でも、それは嘘八百です。占領軍は在日朝鮮人について何の知識もない。朝鮮人学校が何故できたのかも知らない。では、どこから情報を得るか。文部省・日本政府です。で、日本政府がアメリカ軍に言う訳です。『あれを日本に存続させると、ソ連のスパイを養成するようなもんだ』と。実態は、日本国の意思を上手に占領軍に伝え、占領軍がそれを自らの意思であるように日本政府に指示する。それは自らの本音だから、日本政府は喜び勇んで実行する。でも、何か言われると“占領軍の命令”として、『実行した自分たちに責任は無い』と言う。責任転嫁です。今の原発とよう似てますなあ」。3月の山口・岡山を皮切りに、武装警察官を動員しての強制閉鎖が続いていった。反対運動も激化する。大阪では4月下旬、府庁でデモが繰り返された。朴も、支部の青年たちを引き連れてデモに参加した。「青年たちと上町筋を南下して、府庁を目指す訳です。南側から来たデモ隊とで道路は同胞だらけ。堀傍までいっぱいになってね。誰かがシュプレヒコールすると、『ワーッ!』と歓声が上がる。言葉は聞き取れなかったけど、あの唸りは覚えています。1万人はいましたね」。朴は、交渉団に交じって知事室に入ったという。「父が委員長だった支部の専従で 、ムン・テスさんという人が交渉団のメンバーでね、ずんぐりとした済州島出身のおじさん。『お前は父親に似ん馬鹿だ』なんてよく怒られましたけど、この人に金魚の糞みたいについて行った」。知事は逃げ出していた。「副知事がいたけど、『権限が無い』と繰り返す。埒が明かんから抗議も激しくなる」。すると、MPが入って来た。「占領者風吹かせてるのが見え見え。態々ゆーっくりと拳銃を抜いて、朝連の交渉団に銃口を向ける。その次は、天井に向けて発砲です。勿論、空砲ですけど音が凄い。ちょこっとはたじろぎますよ、そりゃ。でも、お母さん方は凄かった。チョゴリを捲り上げてお腹を示してね、『ヨギ、ソアラ!(ここを撃て!)』って詰め寄っていく訳です。MPも『敵わんやっちゃ』みたいに苦笑して出て行った」。程なく、警察がデモ隊に解散命令を出した。占領軍は、日本の官憲に排除を命じたのだった。


中村一成(なかむら・いるそん) フリージャーナリスト・元毎日新聞記者・在日コリアン3世。1969年、大阪府生まれ。立命館大学文学部卒業後、1995年に毎日新聞社入社。高松支局・京都支局・大阪本社を経て現職。著書に『声を刻む 在日無年金訴訟をめぐる人々』(インパクト出版会)等。共著として『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』(三一書房)。


キャプチャ  2015年9月号掲載


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