【戦後70年・日本を問い直す】(05) パラオから引き揚げた人々が入植した北原尾…陛下に伝えられなかった戦争と戦後

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「アメリカ軍の空襲が収まり、港の近くにあった家に戻ると、沢山の日本兵の死体がぶくぶくに膨れて海に浮かんでいました。母は直ぐに私たち5人の子供を連れて農村部へ、更にジャングルの中へと避難して行きました」。宮城県蔵王町に住む佐崎美加子さん(83)は、まるで昨日の出来事のように覚えている。1944年3月、日本の委任統治領だったパラオでのことだ。まだ11歳の小学生だった。太平洋に浮かぶパラオ諸島は、スペインやドイツの植民地になった後、第1次世界大戦で日本軍に占領された。日本政府はパラオ本島(バべルダオブ島)の隣のコロール島に南洋庁を置き、多くの日本人が移住した。ジャングルを開拓して農地にし、製糖工場や缶詰工場を造った。だが、第2次世界大戦で日本の敗色が濃くなると、パラオ諸島でもペリリュー島やアンガウル島で日本軍が玉砕した。パラオ本島にはアメリカ軍の上陸こそ無かったものの、アメリカ軍機の爆撃には連日曝された。食糧不足から飢餓状態にもなり、多くの死者が出た。そうした中で佐崎さんは、ジャングルでの避難生活を2年近くも続けた。終戦後、漸く日本に戻ってくると、熱帯雨林気候のパラオとは一転して、雪深い宮城県・蔵王連峰の麓の原野に入植しなければならなかった。遂に小学校は卒業できなかった。佐崎さんの人生は、ひと言やふた言では語り切れない。「戦争のこと、戦後のこと、一杯お伝えしようと思っていました。陛下も次々と質問をされました」

今年6月17日、天皇皇后両陛下は同町の北原尾を訪問された。戦後、パラオから引き揚げた人々が入植し、苦難の末に開拓をなし遂げた地である。北原尾は“北のパラオ”という意味だ。「パラオを忘れないように」と名付けられた。佐崎さんは北原尾に入植した1人だった。両陛下が北原尾に行ったのは、4月にパラオを訪問し、激戦の地・ペリリュー島で日米両国の死者を慰霊されたのがきっかけだ。“北のパラオ”についても耳にしていて、「是非訪れたい」と考えられていたのだという。そこで宮内庁は、両陛下が山形県に“私的旅行”をされた際、北原尾に立ち寄る旅程を組んだ。だが、訪問時間は長くは取れなかった。パラオの駐日大使も同行を希望したが、一緒に話を聞くには時間が短過ぎたので断念したほどだ。両陛下は新幹線を下りて北原尾に向かう道すがら、沿道で人々が手を振る度に車の速度を落として笑顔を見せられた。この為、北原尾での日程は愈々厳しくなった。「態々いらっしゃったのに、話はこれからというところで終わりになった」と工藤静雄さん(73)は残念がる。工藤さんは、引揚者で作った『北原尾開拓農協』(解散済み)を引き継ぐ『北原尾農事組合』の組合長だ。両陛下の先導役を務めた。佐崎さんは、「陛下には思いがあるようで、もっとお聞きになりたいようでした」と話す。もう1人面談した吉田智さん(82)も、「もっとお伝えしたいことがあったのに、導入部分で時間切れになってしまった」と語る。両陛下のたっての希望で実現した北原尾訪問。3人の引揚者は何を伝えたかったのか? それが気になって現地を訪れた。




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北海道旭川市に住んでいた佐崎さんが、一家でパラオに渡ったのは1937年とみられる。5歳の頃だ。「両親は菓子屋をしていました。あまり繁盛していたとは言えず、私が赤ん坊の時に病気をしたので、借金を抱えていたのだと思います」。父は先ずコロール島で郵便局に勤めた。それから南洋庁の職員となり、マラカルという小さな島に移り住んだ。マラカル島はパラオでは珍しく、ぐるりと珊瑚礁に囲まれていないので、港湾施設が整っていた。魚が水揚げされ、缶詰工場もあった。佐崎さんは、荷揚げされた食料品の山にシートが掛けられていたのを覚えている。生活は安定していた。だが、戦争が激しくなるとアメリカ軍機が飛来するようになり、「防空壕に入ったり出たり」(佐崎さん)の暮らしになった。その日の空襲はいつもと違っていた。とても防空壕で凌げる爆撃ではなかった。父は土木作業員を集める為、日本本土に帰っていて不在だった。母は5人の子を引き連れ、岩山という島の洞穴に逃げた。そこには、住民や兵隊が大勢避難していた。赤ん坊が泣くと、兵隊が「泣かせるな」と親を怒鳴る。佐崎さんは「泣き声など飛行機には聞こえやしないのに」と思った。翌朝、洞穴の外で朝食を作ろうとしていた時のことだ。夥しい数の飛行機が迫って来た。佐崎さんは「日本の飛行機が助けに来た」と期待したが、アメリカ軍機だった。敵機の大群は洞穴の上を悠々と飛び、コロール島を爆撃した。パラオ一の繁華街は、夜まで真っ赤に燃えた。

「日本軍は下からドーンドーンと撃っていましたが、中々当たりませんでした」。この頃、既に学校での授業は無くなっていた。代わりの奉仕作業で、佐崎さんは錆びた砲弾を磨きにコロール島へ行っていた。その弾薬倉庫も全部爆破された。空襲が収まり、帰宅した時に目にしたのが冒頭の光景だった。母は乳飲み子だった一番下の弟を背負い、首から釜を吊り下げ、佐崎さんら子供の手を引いて島を出た。そして、パラオ本島の農村地区で父の同僚の家族を頼った。だが、そこは海から近かったせいか、アメリカ艦船の艦砲射撃に曝されていた。とてもいられたものではなかったが、母が腸チフスで倒れてしまった。幼い弟らが腹を空かせて泣く。母には体力をつけて回復してもらわなければならない。長女の佐崎さんは「食べる物を作らなければ」と焦った。家から持ち出した米はまだ残っていたので、母が首から下げてきた釜で炊くことにした。ただ、炊き方がわからない。寝込んだ母にも聞けない。取り敢えず釜一杯に米を研ぎ、煮立たせると、米は勢いよく釜から溢れて地面に流れ落ちた。結局、何も食べられなかった。それどころか、なけなしの米も失われた。母が何とか体力を取り戻すと、艦砲射撃の届かないジャングルに移った。そこに掘っ建て小屋を建てて住んだ。これは引き揚げまで続いた。この間、父はずっと不在だった。本土からパラオに戻る船を撃沈され、「泳いだか、別の船に助けられたかしてパラオに戻った」と佐崎さんは聞いた。だが、そのまま現地召集で兵に取られ、家族とは終戦まで1年以上合流できなかった。

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岩手県出身の吉田さん一家は、北海道での生活を経て、1939年末か1940年初頭頃に開拓農家としてパラオに渡った。ところが、漸く開懇が軌道に乗ってきた時に戦争が激しくなった。やはりジャングルに避難し、掘っ建て小屋を造って住んだ。働き盛りの男は現地召集され、吉田家からは父と兄が兵隊に取られた。「働き手が召集された家の畑は、軍が買うという名目で取り上げられました」と吉田さんは言う。高齢で兵隊に取られなかった男性がいる家の畑だけは残され、敵機が来ない時を見計らって集落の皆でサツマイモを植えた。アメリカ軍機は日に何度となく来襲し、動くものなら何でも機銃で掃射した。吉田さんも何度も狙われた。小学校の校庭で襲われた時には逃げ場が無く、咄嗟に死んだふりをした。「下を向いて伏せる余裕がなかったので、上向きで戦闘機を見ていました。幸い、撃たれないで済みました」。ババババと機銃を撃ちながら戦闘機が迫って来て、覚悟を決めたこともある。慌てて木の陰に隠れたが、直径1mほどの木なら簡単に撃ち抜かれるので、隠れても意味は無かった。「もう駄目だ」と観念した時に、弾丸の列が逸れた。まだ小さかった弟と妹は撃ち殺された。腹を減らした2人に、母は何かを食べさせようと思ったのか、ジャングルから家に連れ帰って調理をしていた。戦闘機はその煙を見つけて掃射した。弟は首から心臓にかけて撃ち抜かれ、即死した。妹は弾丸が腹を貫通し、30分ほど苦しんだ末に息を引き取った。母だけは奇跡的に無傷だった。

死は、空からやって来るだけではなかった。食糧が足りなくなり、飢えていった。日本軍の制海権が無くなり、本土からの物資補給が途絶えたのだ。日本人と日本兵は島で孤立した。佐崎さんは、軍が農民から“取り上げた”らしい畑に駆り出された。サツマイモが育つと、イモは兵隊が食べる。佐崎さん一家は、残った蔓や葉を食べた。飢えた兵は、果物が木になるのを待っていられなかった。木を切り倒して新芽を食べた。「パパイヤやバナナは木の真ん中が柔らかいので、煮て食べたようです」と吉田さんは話す。その為、果物さえ実らなくなっていった。開拓農民に辛うじて残された畑の作物も兵隊に狙われた。「盗まれないよう、交代で見張りをしました。しかし、『兵隊が鉄砲を撃ったり、日本刀で脅したりして盗んでいく』という噂がありました。実際に刺された人もいました」。吉田さんは身震いする。兵隊は、次第に隊列を組んで歩けなくなった。酔っぱらったようにふらふらと歩き、毎日何人も死んでいった。佐崎さんはネズミやへビを食べた。「ネズミは焼くと美味しいのですが、肉が殆どありません。へビも骨ばかりで、よく焼いて骨を齧りました。子供の拳ほどもあるカタツムリは『肉だ』と言われて食べました。ただ、『灰汁を抜かないと毒がある』とされていて、生で沢山食べて死んだ兵隊もいると聞きました」と話す。佐崎さんの母は過労と衰弱からか肺炎を起こし、再び倒れた。今度は生死の境を彷徨った。「木の葉を見て、『魚が泳いでるから食べよう』と言うんです。突然、歌い出すこともありました」。ただ、自身も追い詰められていた佐崎さんは、「そんな母を見ても変だとは思わなかった」と言う。工藤さんの母は乳が出なくなった。この為、アメリカ軍機が来襲する中で生まれた妹は生き延びられなかった。遺体はどこに埋めたかもわからない。工藤さんは2009年にパラオを訪れた際に、妹が生まれた場所の土を一掴み持ち帰り、遺骨の代わりに墓に入れた。

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「どうやって生きていたのかわからない」(佐崎さん)ようなジャングル生活の末、日本人や日本兵が帰国させられたのは1946年2月頃だ。アメリカ軍の上陸用舟艇に乗せられ、神奈川県横須賀市の浦賀に着いた。佐崎さん一家が持ち帰ったのはリュックサック1つだった。港から援護施設にトラックで運ばれる途中、リンゴやミカンを売る店が見えた。母は「漸く帰ってきたんだ。あれを食べようね」と嬉しそうに言った。だが、それは果たせなかった。リュックが盗まれたのだ。先に上陸した妹に番をさせておいたのだが、妹は見知らぬ男に「おじさんが荷物を見てあげるから、家族のところへ行っておいで」と言われて離れた。男はその一瞬の間に持ち去った。リュックには、パラオを離れるまでに父が工面したとみられる全財産が入っていたようだ。文字通り無一文になった父は、戦後の人生を自力で切り開くのを諦め、北原尾への集団入植に加わったという。引揚者の入植地は全国に設けられたが、北原尾を選んだのは財団法人『共助義会』理事長を務めた故高橋進太郎氏(後に参議院議員、宮城県知事)だ。共助義会は、“南洋”から邦人の引き揚げを進める為に政府が作った組織で、高橋氏は戦前、南洋庁の拓殖部長の任にあった。北原尾に近い宮城県白石市出身の高橋氏は、白石営林署と交渉し、国有林を入植用地として確保した。当初、地名は“倉石山19林班”等という営林署の呼び名だったが、高橋氏が“北原尾”と名付けた。更に入植を援助する為、私財を擲って開拓地を増やした他、共助義会の出先事務所を設けて南洋庁時代の部下3人を配置した。この内の1人は、北原尾に骨を埋めることになる。

1946年3月と5月、2陣に分かれて38の家族が北原尾に到着した。殆どがパラオからの引揚者だった。「まるでジャングルでした」と佐崎さんは振り返る。「パラオには高い山がありませんでした。だから、『蔵王連峰が頭の上にひっくり返ってくるのではないか』と思うほど高くて驚いた」と吉田さんは言う。切り倒した木を柱にし、笹を積み重ねて屋根や壁にした小屋で生活を始めた。「そこら中に竹の根が張っていて、鍬を振るってもカツーンと跳ね返されるだけで耕せません。根の隙間に小さな穴を掘り、豆を植えるのが精一杯でした。少しでも根が除去できた場所には南瓜を植えました。南瓜ばかり食べたので、全身が黄色になりました」と佐崎さんは語る。配給の米はあっても足りなかったので、野草を食べた。野草を煮た中に数えるほどの米が浮いているような食事だった。薊は新芽のうちはよかったが、大きくなると棘が口に刺さって中々食べられない。パラオの避難生活と然して変わらなかった。軈て冬になり、腰の高さまで雪に理もれた。地元の人に炭焼きの方法を教えてもらい、現金収入の道を得て命を繋いだ。蔵王の麓には“蔵王おろし”と言われる強風が吹く。風の強い日は雪が容赦なく小屋に入り、朝起きたら部屋は真っ白になっていた。自信を失った9戸が脱落し、最終的に29戸が入植した。脱落で余った土地には、ロタ島から引き揚げてきた3家族が入った。同じ元南洋庁のエリアからの引揚者だが、近くの土地に入植しようとして地元から拒まれ、行き場を失っていた。「母は引き揚げ後に貰った兵隊用の毛布で、着るものを作ってくれました。炭焼きに行こうにも靴が無いので、父が藁で靴を編み、毛布の切れっ端を足に巻いて履きました」と佐崎さんは言う。そうした環境で乳幼児が生き延びるのは難しく、死んだ子もいた。親類に養子に出した家もある。

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工藤さんは、引き揚げ時に4歳だった。「目だけがぎょろっと大きく、肋骨が浮いて腹が出ていました。テレビで放映される難民キャンプ等の栄養失調の子と同じです。ちょっとした坂を上る体力もありませんでした」。母は冬だけ2年間、工藤さんを連れて山形県の実家に帰省した。農家だったので食べ物はあった。「私が生きているのは、あの冬季避難のおかげです」と工藤さんはしみじみと話す。パラオでの避難生活は2年間に及んだ為、学齢期の子は皆、2学年遅れて学校に通うことになった。しかし、佐崎さんは小学校に戻らなかった。開拓に労働力が必要だったのに加え、2歳も下の子と学ぶのは気が進まなかったからだ。案の定、妹や弟は学校で差別された。入植してから新しい妹が生まれたが、這い回っている内に囲炉裏に落ちて死んだ。皆が開拓作業に出ている間の事故だった。直ぐ下の妹は「私が学校に行かずに子守をしていれば死ななくて済んだのに」と泣き暮れて、暫く学校を休んだ。北原尾での開拓に見切りを付け、南米に渡った家も2軒あった。畑の作物が漸く育つようになった1953年、2年続きで冷害に見舞われた。雑穀類は殆ど収穫できなかったが、牧草だけはぐんぐん伸びた。人々は「牛しかない」と思い定め、全戸で酷農に切り換えた。これが生活を支えていくのだが、軌道に乗るまでには時間がかかった。畑で食えない分を補っていた炭焼きが時代遅れになった後は、5万匹のミンクを飼育して毛皮を作る会社を誘致し、農閑期には一斉にそこで働いた。そうして、何とか暮らしが成り立つようになっていった。

北原尾農事組合は2011年、開拓の記念碑を建てた。32戸だった入植農家は、離農や跡取りの不在で23戸になった。戦争や開拓で苦労した世代も殆ど亡くなった。現在、往時のことを語れるのはほんの限られた人間しかいない。忙しさに紛れて、北原尾の中でも語り継ぎはきちんとできてこなかった。組合長の工藤さんは、「『歴史を忘れてはいけない。血と汗の証しを残したい』という思いでした」と説明する。そうした危機感を募らせていた時に、両陛下が北原尾を訪問された。「忘れてはならない」――実は、この思いこそ、両陛下が多忙な時間を割いてまで北原尾を訪れた理由ではなかったか。それを感じとったからこそ、工藤さんや佐崎さん・吉田さんは一生懸命に伝えようとした。確かに、時間は足りなかったかもしれない。だが、伝えようとする側、お聞きになろうとする側の“思い”は共有されていた筈だ。“わすれずの山”――蔵王連峰は古くからそう呼ばれてきた。同連峰には戦争末期、B29爆撃機が3機続けて激突し、34人のアメリカ兵が死んだ。その現場には、地元の白石市長の筆で『不忘の碑』が建てられている。この8月には、3機の激突地点が見える場所に平和記念公園が出来る。殺し殺され、異境に果て…。終わった後も、長く苦しむことになる。忘れてはならないことを、私達は忘れつつあるまいか? “北のパラオ”は蔵王の麓から問いかけている。 =おわり


葉上太郎(はがみ・たろう) 地方自治ジャーナリスト。全国紙記者を経て、2000年よりフリーに。月刊誌等にルポを発表している。著書に『日本最初の盲導犬』(文藝春秋)・『瓦礫にあらず 石巻“津波拾得物”の物語』(岩波書店)等。


キャプチャ  2015年9月号掲載


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テーマ : 戦争
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