【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(20) 10万人削減、期限は1年…幹部の頭越しに総裁へ提言

「国鉄を分割民営化し、1987年4月に本州3社(東日本・東海・西日本)と島3社(北海道・九州・四国)、更に貨物の1社を発足させる」――国鉄再建監理委員会が打ち出した最終答申は、私たちが委員会の事務局と作り上げてきた構想に沿った形になった。国鉄上層部の人事も刷新され、苦しい戦いを強いられてきた私は突然、視界が開けたように感じた。それでも、道のりは尚遠い。更迭された重役の後に就いた局長クラスは、民営化は兎も角“分割”には反対だった。どうしたら改革に向けて力を結集できるかが、次の課題である。秘書(人事)・文書(組織)・主計(予算)という主要3課長のポストは、依然として分割民営化反対派に押さえられている。差し替えようとすると強い抵抗に遭う。こんなところで、限られた時間とエネルギーを浪費してはいられない。「タスクフォース(特別チーム)方式で行こう」。私は発想を転換した。3課長等は確かに重要なポストだが、これらは平時の国鉄組織を動かす為の部署であり、分割民営化という非常時対応を前提としたものではない。重要なのは、要員の削減・余剰人員の雇用・JR各社への職員の振り分け等だ。とすれば、主要課長の人事には手を付けず、信念で結ばれた仲間が総裁の下で機動的且つ創造的に動いて改革を進めればいい。東京西鉄道管理局長に出されていた井手正敬さんが、総裁室審議役(後に総裁室長)に戻ってきた。私は職員課長。そこで、新会社の組織をどうするか等は井手さんが、要員の問題は私が責任を持つ。この2つのチームが分担し、連携して進めることにした。

特別チームは総裁の手足である。少人数が随時総裁室に集まって検討し、次々実行に移す。組織規程上どこにも存在せず、何の権限も無い2つのチームが、分割民営化という最重要課題を一手に引き受け、総裁に提案し決めていった。抜本改革を望まない幹部たちは、「主要課長を押さえておけば改革の動きを止められる」と思っていたようだ。だが、実際には彼らは置いてきぼりにされたのだった。そのことに気が付いた時、分割反対派は急速に力を失っていった。愈々、私たち職員局にとって“正面の戦い”である余剰人員対策が本格化する。再建監理委員会が求める新会社の要員は計21万5000人。約10万人の合理化が必要となる。しかも、1987年の新会社スタートから逆算すると1年ほどしか時間はない。如何に難しい問題であるかは、容易に想像がつく。杉浦喬也総裁は国鉄OBとの結束を図ろうと、8月のある日、本社大会議室で現役の幹部らとの昼食懇談会を開いた。「君が葛西君か」。嘗て総裁だった磯崎叡さんが話しかけてきた。「1949年に10万人の要員削減をやった時、私は今の君と同じ職員課長だった。その結果、下山総裁の事件が起きたんだ」。『連合国軍総司令部(GHQ)』の命令で始まった大規模な要員削減の最中に、下山総裁が遺体で発見された。未だ自殺・他殺両説が乱れ飛ぶ、戦後史の謎である。磯崎さんは冷ややかな口調で、更に続けた。「覚悟はあるんだろうな? 君は、この時代に何人総裁を殺すつもりなんだ?」


≡日本経済新聞 2015年10月21日付掲載≡


テーマ : 鉄道
ジャンル : 趣味・実用

【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(19) 総裁が辞表、経営陣更迭…首相に刷新を迫った亀井氏

改革派を排除する動きは、一段と強まっていた。私が課長として率いる職員課は、課全体が丸ごと孤立しているような状態だった。組織内で争えば、人事権を持っているほうが強い。「国鉄改革を巡る戦いは、こちらの負けということか…」。私はそう思い始めていた。だが、これまでやってきたことは、権力闘争等では断じてない。私たちは弥縫策を良しとせず、抜本策を求めた。国鉄の為、国の為、戦ってきたのだ。負け戦になっても、これだけは明らかにしておかなければならない。「この際、名乗りを上げて大義名分を世に明らかにし、戦いの意味を残すべきではないか」――。だが、私の提案は仲間たちを尻込みさせた。「過激過ぎる」「組織の秩序を乱したと言われる」と言うのである。特に、若手の一部に慎重論が強かった。彼らは、「形勢が決定的に不利になれば、乗り換えられるようにしておきたい」と思っているようだった。“改革派”等と言っても、一枚岩ではないことを実感する。それでも20人が自筆で署名し、意見書は出来上がった。当時の中曽根康弘首相や国鉄再建監理委員会の亀井正夫委員長らに手渡すつもりでいたところ、その亀井委員長から私たちに夕食の招きがあった。再建監理委員会事務局の林淳司さんが段取りを付けてくれたのだった。食事会では、皆が其々に国鉄改革への思いを語った。意見書も見てもらい、「全員の署名が揃ったらお渡ししたい」と話した。亀井さんは頷いて、「よく分かりました」と言った。

「意見書をどうするか…」。考えを巡らせていたら、事態は急変する――。ある朝、いつものように出勤すると、エレベーターで分割民営化反対の中心人物である副総裁と乗り合わせた。私の顔を見るなり、「君たちの行動力には脱帽する。負けたよ」と話しかけてきた。他にも多くの職員が乗り合わせているのが目に入らないかのような、切迫した口調だった。副総裁はそのまま先に降り、残された私には何のことかわからなかった。1週間後、突然、仁杉巌総裁が中曽根首相に辞表を出した。首相は仁杉さんの辞表を差し戻して、全重役の辞表と共に改めて持ってくるよう指示したという。間髪入れず、杉浦喬也元運輸次官が後任の総裁に決まる。杉浦さんは重役全員と面接し、結局、仁杉さんの他に6人の辞表が受理され、更迭となった。後に聞いたところでは、私たちとの夕食会から程なく、亀井委員長が中曽根首相を訪ねて、「国鉄の経営陣が刷新されなければ、どんな答申を書いても実行されない。実施されない答申なら、私は書かない。代わりに辞表を出す」と言って、人事の刷新を迫ったのだという。首相の周辺では、「更迭する幹部の人数を徒に増やしても世間の耳目を集めるだけだから、仁杉総裁に加えて、分割民営化反対の中心人物である副総裁と労務担当常務理事の3人だけを辞めさせる」という案もあったという。それを「決断するなら中途半端ではなく、徹底したほうがよい」と主張したのが、瀬島龍三さんだったという。再建監理委員会が分割民営化の最終答申を出したのは、更迭劇の1ヵ月ほど後のことだ。


≡日本経済新聞 2015年10月20日付掲載≡


テーマ : 鉄道
ジャンル : 趣味・実用

【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(18) 反対派が圧力、干される…三塚氏の改革本は禁書扱い

1982年7月、『第2次臨時行政調査会(第2臨調)』が“国鉄分割民営化”の方針を打ち出したことで、分割に反対する国鉄の上層部は危機感を強めた。1983年6月、臨調の答申を受けて国鉄再建監理委員会が設置され、分割民営化の具体案作りが始まった。2年後に総理大臣に答申する予定であった。この委員会の鍵を握るのは、委員長で『住友電気工業』会長だった亀井正夫さん、委員長代理で臨調の担当部会長も務めた加藤寛さん、事務局次長として運輸省から来た林淳司さん――の3人だ。職員課長になっていた私は、要員合理化施策を中心に全ての面で監理委員会の作業をバックアップした。1984年7月、三塚博さんが『国鉄を再建する方法はこれしかない』という本を出版し、1987年の分割民営化を一層鮮明にした。これにも、三塚さんの要請を受け、私たちは水面下で協力した。『国鉄労働組合(国労)』は「三塚委員会の背後にはKIM(キム)がいる」という噂を流布し、国鉄内部でも公然の秘密となっていた。葛西(K)・井手正敬(I)・松田昌士(M)のイニシャルを並べたものだ。そして、三塚本は国鉄内で禁書扱いとなる。1984年9月には、井手秘書課長が東京西鉄道管理局長に飛ばされると共に、総裁以下の全重役に依って「分割民営化しなくてもやっていける」という独自の再建案作りが始まった。重役の勉強会は週1~2回のペースで進められ、12月末に『経営改革のための基本方針』が完成した。そのポイントは、

(1)過去債務の肩代わり等、政府助成を大幅に増やし、国鉄を民営化して特殊会社化する。
(2)要員合理化は進めるが、賃金は国鉄と同様、第三者機関の裁定に委ね、民間並みを確保する。
(3)分割はせず、赤字線は路線毎に子会社化する。

という虫のよい問題先送り案であった。国鉄首脳は、この案を向かい火として各界を回して歩き、「手応えあり」としていた。

この間、監理委員会との窓口役だった経営計画室の松田さんも1985年3月、北海道総局に飛ばされる。若手も何人かが地方へ追放された。“一番危ない”筈の私は、「目の届くところに置いたまま、直接抑え込んだほうがいい」と判断されたようで、職員課長のまま据え置かれた。だが、職員局の幹部打ち合わせに1人だけ呼ばれない等、完全に干された状態が続く。愈々7月末には、国鉄再建監理委員会に依る答申が予定されている。5月のある日、私は瀬島龍三さんを訪ね、国鉄内部の情勢を説明した。「監理委員会の答申が出ても、今の体制では面従腹背のまま何も進まない。人事の刷新が必要です」と訴えた。瀬島さんは、「重役がある日全員いなくなったら、国鉄の輸送は大混乱するだろうか?」と聞く。私は、「重役がいなくたって、列車は毎日同じように動きますよ」と答えた。瀬島さんは、「そうか。1ヵ月ぐらい止まるかと思っていたのだが」と少し安心したような表情を浮かべた。帰り際、その日に限って瀬島さんがエレベーターの前まで送ってくれた。意外に思った私に、瀬島さんはこう言った。「覚悟を決めてやりたまえ。国家は君たちを見捨てるようなことはしない」


≡日本経済新聞 2015年10月19日付掲載≡


テーマ : 鉄道
ジャンル : 趣味・実用

【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(17) 5年以内の民営化提言、新規採用停止で労組が対立

自民党内で国鉄問題を検討していた三塚委員会は、職場の規律確立を求める中間答申に続き、1982年7月、本答申を発表した。先ず、できあがったばかりの“国鉄最後の再建計画”を全力で実行する。それでも上手くいかなければ、分割民営化して再生を目指す――という二段構えの内容になっている。この中間答申と本答申の作文は、私が担当した。国鉄は分割し、民営化する。もう、これ以外に救う道は無いのだ。頭の中に次々と言葉が浮かんできて、書く手が追いつかない。一晩で仕上げて三塚さんに見せると、「僕の思っている通りだ」。そのまま公表された。同じ7月、今度は第2臨調が基本答申を出す。「国鉄は5年以内に分割民営化する」と、より踏み込んだ表現になっている。実は臨調内には、「自分たちで国鉄分割民営化の具体的なプランを示したい」という思いがあった。しかし、ある国鉄首脳は、「臨調の素人が1年も勉強しないで考えた分割案など、あっという間に叩き潰してやる」と嘯いていた。そこで、臨調の事務局である田中一昭さんに、「臨調は大きな方向だけを示すべきです。具体案は総理大臣の下に専門の審議機関を作り、適材を集め、時間をかけてやりましょう」とアドバイスした。しかし、5年の間、審議をしているだけでは世間の熱気が冷めてしまう。即効性のある劇薬として、新規採用を全面停止するよう提案した。時恰も、終戦直後に政府の雇用政策に協力して大量採用した人々が退職時期を迎えていた。要員削減の好機であり、分割民営化すれば新規採用が再開されるという“明るい出口”にもなる。田中さんは、この考えに乗ってくれた。臨調の三公社担当部会長だった加藤寛さんも賛同し、実践的な答申ができ上がった。この答申を受けて国鉄再建監理委員会が設けられ、2年かけて分割民営化に向けた具体的なプランが検討されることになった。遂に、国鉄が分割民営化へと動き出す形が整った。

臨調の基本答申に盛り込まれた新規採用の全面停止は、合理化に対する労働組合のスタンスに決定的な変化を齎した。運転士の7割を組織する『国鉄動力車労働組合(動労)』は、それまで組織の維持・拡大の為に、一方で合理化を拒否し、もう一方で新入社員を運転士の卵として育てる道を確保していたが、それが断たれることになったのだ。つまり、退職した運転士の後釜は、動労組織が無い駅員・車掌からの転換養成で補充するしかなくなったのである。そこで動労は、運転士の働き度を徹底的に上げて、転換養成を不要とする方向に転じた。合理化について、動労は賛成、国鉄労働組合(国労)は反対と180度利害が対立し、お互いが仇同士になったのである。だが、この段階になっても、殆どの人々は分割民営化は絵空事だと見ていた。政府も不退転というまでの覚悟はない。野党や労働組合は激しく抵抗するだろう。抑々、肝心の国鉄自身が断固現状維持なのだ。国鉄改革は長い道のりの鳥羽口に立ったに過ぎない。分割民営化を成し遂げるのは、依然、針の穴を通すような困難なものに思えた。


≡日本経済新聞 2015年10月18日付掲載≡


テーマ : 鉄道
ジャンル : 趣味・実用

【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(16) 瀬島氏と密会、意義力説…「目玉政策になる」、解決案託す

第2次臨時行政調査会(第2臨調)は1981年4月から、各省庁へのヒアリングを始めた。5月上旬、私は妹夫婦の仲人で臨調委員の瀬島龍三さんに密かに接触した。瀬島さんは大戦中は大本営作戦参謀、戦後は伊藤忠商事会長等を歴任し、“昭和の参謀”と評されていた。臨調の担当大臣で、その後首相になる中曽根康弘さんとの関係も深い。第2臨調の作戦参謀もまた、瀬島さんであると見られていた。この時が実質的な初対面だったが、物静かで怜悧な人という印象だった。私は「“最後の再建計画”は作られたばかりだが、既に破綻している」と断言し、こう力説した。「国鉄問題こそが、臨調の最大の成果になる筈です」。臨調から国鉄への“正式”なヒアリングにも対応した。こちらは運輸省の課長補佐が説明する場に同席し、必要な時だけ補足説明をする立場だ。臨調側の担当は、行政管理庁(当時)から拓殖大教授になった田中一昭さん。田中さんが「再建計画は上手くいきますか?」と尋ねる。自分たちの認可した計画だから、運輸省は当然「上手くいきます」と答える。横から発言しようとすると、課長補佐がテーブルの下で私の足を蹴る。この様子は丸見えだったようだ。暫くして田中さんから私に連絡があり、国鉄問題担当の部会長だった加藤寛さん(当時、慶応大教授)と引き合わされた。7月に出た臨調の第1次答申では、国鉄については「経営改善計画の早期且つ着実な実施を図る」と触れる程度に留まっていた。私は引き続き加藤・田中氏らと秘密裏に会い、説得を重ねた。

翌年の本答申に向け、臨調内の議論が本格化する直前の9月、私は『ポスト経営改善計画の戦略について』と題したペーパーを懐に、瀬島さんの事務所を訪ねた。一通り説明を聞いた瀬島さんは、「わかった。これは私が預かろう」と言って受け取った。この青写真のことは、他の臨調メンバーには一切話さないことにした。皆に話せば“瀬島プラン”ではなくなってしまう。瀬島プランであるほうが臨調にとっても、次の首相を窺う中曽根さんにとっても乗り易い筈だ。臨調への働きかけと並行する形で、当時、自民党の交通部会長だった三塚博さんの元へも通った。宮城が地盤の三塚さんとは、仙台勤務時代に既に面識があった。翌1982年2月、自民党の中に国鉄問題を考える『三塚委員会』が立ち上がる。当時はまだ分割民営化に距離を置いていた井手正敬さんや松田昌士さん(後のJR東日本会長)の2人と共に、三塚委員会を支えた。秘密の事務局だから、出勤前に三塚さんが使っている永田町のビルに集まり、打ち合わせをして解散。仕事の後、再び集まって深夜まで作業。そんな日々が続く。職場規律の実態を知る為、三塚委員会は現場の管理者に匿名のアンケート調査をした。集まった回答の余白に書かれた自由記述からは、労組が次々と持ち出す無理難題に翻弄され、プライドも持てず、管理局と現場の板挟みで苦悶する現場幹部の悔しさが滲み出ていた。読み進めるうち、静岡や仙台で一緒に戦った部下たちの顔が浮かんできた。私が涙を流したのは、国鉄改革を通じてこの時一度だけである。


≡日本経済新聞 2015年10月17日付掲載≡


テーマ : 鉄道
ジャンル : 趣味・実用

【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(15) “第2臨調担当”が天祐に…分割民営化へ、同志集め勉強

本社勤務は4年ぶりだ。仙台で『国鉄労働組合(国労)』と繰り広げた戦いは当然、知れ渡っていた。皆の顔に「トラブルメーカーが帰って来た」と書いてある。国労との協調路線を取る職員局は特に冷ややかだった。私が主幹の肩書で戻った経営計画室に、大きな仕事は無い筈だった。ところが、この閑職に“第2次臨時行政調査会(第2臨調)担当総裁室調査役”という兼務がついていた。これがまさに天祐だったのだ。第2臨調は、当時の鈴木善幸内閣が“増税無き財政再建”を掲げて設けた審議会だ。担当大臣は、後に首相となる中曽根康弘さんで、会長は『石川島播磨重工業』や『東芝』の社長を務めた土光敏夫さん。第2臨調に対する世の中の期待は高まっていた。ただ、国鉄については、臨調ができた後に再建計画が運輸大臣認可されている。従って、臨調が改めて国鉄問題を取り上げる余地はない――誰もがそう思い込んでいた。確かに、私が東京に戻った直後の1981年5月に、“国鉄最後の再建計画”と銘打たれた5ヵ年計画がスタートした。しかしそれは、始まった時には既に破綻していた。初年度の資金支出は6兆円、そのうち営業収入で賄えるのは3兆円、政府助成7000億円を加えても2兆3000億円を借金で補うことになっていた。翌1982年には『東北・上越新幹線』が開業し、赤字は更に膨らむ。このまま行けば早晩、野垂れ死にすることは明らかだ。それなのに、国鉄内部には「再建計画スタートで一息つける」といった雰囲気が漂っていた。私の中で“やるべきこと”は、もうはっきりしていた。分割民営化だ。

国鉄を再生させるには、過去を切り離すしかない。営業収入3兆円の85%は、40万人に上る職員の給料支払いに消えてしまう。労務管理に対する政治介入のツケであった。先ず、これを私鉄並みの20万人以下に削減しなければならない。適時適切な運賃値上げを政治が押さえ込んだ結果、16兆円まで積み重なった借金は政府に背負ってもらう。その上で、新たな借金を増やさない担保として民営化する。民営化する為には地域分割が不可欠だ。これまでの全国一律運賃は、東京の国電や『東海道新幹線』の利潤で地方路線の赤字を埋める仕組みである。その為に、首都圏の運賃は私鉄の2倍、東京-大阪間の新幹線の運賃・料金はコストの2倍となってしまった。その結果、航空機が見せかけの競争力を持つに至った。これを改める為には、地域のコスト特性に即した運賃と賃金にしなければならない。私は、目玉となる成果がほしい臨調に“国鉄改革”というテーマを提供し、「分割民営化を国策にしてしまおう。臨調人気が高まっている今を逃して、国鉄を救う道はない」と考えた。「国鉄再建が臨調の主題となる場合に備える」という名分の下に、社内に非公式の勉強会を作った。嘗ての部下を中心に、7~8人の若手が集まる。常務理事の吉井浩さんや文書課長の室賀實さん(後の常務理事)等、私の考えを支持してくれる上司もいた為、非公式の勉強会は社内の会議室で公然と開いた。問題は、どうすれば第2臨調が食いついてくれるかだ。


≡日本経済新聞 2015年10月16日付掲載≡


テーマ : 鉄道
ジャンル : 趣味・実用

【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(14) 本社も“やり過ぎ”に困惑…国労が“栄転”運動、東京へ戻る

現場に蔓延る悪慣行を止めさせ、『国鉄労働組合(国労)』に徹底した信賞必罰で臨んだ結果、賃金カットの山が築かれた。元々、先鋭的な活動家は一握りしかいない。賃金をカットされれば生活にも響く筈だ。組合員の間には動揺が広がっていった。妥協しない私のやり方に、仙台の国労も東京の国労本部も驚いたようだ。同じように驚き、困惑したのが、国鉄本社の職員局だった。「悪慣行とはいっても労使で決めたことだから、止めるならちゃんと手続きを踏むべきだ」と忠告してきた。組合が複数ある為、経営が上手くいかないと考えていた当時の職員局は、「組合を国労一本に纏めたい」という意向を持っていた。だが、私の目の前で日々問題を起こしているのは、その国労なのだ。このまま厳しい態度を取り続ければ、国労を第一に考える職員局と正面からぶつかる。かといって、本社の方針に従って国労と仲良くやれば、真面目に働いている『鉄道労働組合(鉄労)』の職員や助役たちを裏切ることになる。上手く泳いで、任期をやり過ごす手もあるかもしれない。だが、国鉄のキャリア組である私たちが筋の通らない組合の要求に屈したり、水面下で労組幹部と手を握ったりしてきた結果が、今の現場の惨状なのだ。鉄道を管理する視点から見て、“正しいかどうか”という物差しを変える訳にはいかない。「正式な協定に基づくものなら尊重します。でも、私が問題にしているのは現場の管理者が脅され、無理やり決めさせられた慣行。紙屑以下のものです」。本社にはこう説明し、従わなかった。その後も度々指導や要請があった。「兎に角、本社に迷惑がかからないようにしてほしい。おかげで、組合との東北新幹線の交渉が止まっている」とも言われたが、是々非々で臨むだけである。

本社を敵に回しているというプレッシャーはなかった。それまでキャリア組に不信感を持っていた部下たちが、私についてきてくれている。現場にいる良識的な組合員たちも同じだ。誰が安定した鉄道の運行を妨げているのかは明らかなのだから、徹底的にやるまでだ。仙台鉄道管理局での勤務は、私の鉄道人生のターニングポイントになった。組織の方針や価値観に捉われずに実態を見極め、自分が正しいと思うことをやる。この姿勢を貫くことで、私は自立した。「このまま葛西に仙台にいられては困る。兎に角、もう本社に帰してくれ」。愈々危機感を募らせた国労は、私の“栄転”運動を始めた。「新たな職場でまた摩擦を起こすことのないよう、お金と権限の無い部署に栄転を」というのが国労の要請だった。暫くして本社よりも早く、国労の幹部から“内示”があった。「葛西さん、栄転先が決まったよ。経営計画室だってさ」。私は、就任時に与えられた課題である東北新幹線の開業を見届けることなく、予定より1年早く仙台を去ることになった。国労が要請した通り、その頃の経営計画室には大きな仕事は無かった。ところが、この異動に依って偶然にも、国鉄の行く末を左右する極めて重要な鍵を握ることになる。1981年4月、私は東京の国鉄本社に戻った。


≡日本経済新聞 2015年10月15日付掲載≡


テーマ : 鉄道
ジャンル : 趣味・実用

【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(13) 働かぬ分は賃金カット、国労に妥協せず悪慣行廃止

人事や管理権への介入は許さない。静岡鉄道管理局の総務部長として、私は一切の妥協をせず、労働組合と向き合った。ただ、その頃の静岡が国鉄の中で特に荒れた職場だった訳ではない。“激戦地”は仙台だった。全国的には『国鉄労働組合(国労)』が組合員全体の7割程度を占める中、仙台鉄道管理局では鉄道労働組合(鉄労)と国労の勢力が拮抗していた。この為、仙台の国労は組織を全国並みに拡大しようと躍起になっていたのだ。一方の鉄労は、協調的な労使関係を目指す穏健な組合である。そこで、国労は鉄労に圧力をかけると共に、列車の運行を人質にとって、現場で業務の妨害を繰り返す。何とか事態を収めたい駅の助役らは、国労側の理不尽な要求を呑んでしまう。そうやって、国労は管理者を自分たちの言いなりにし、鉄労潰しに加担させようとしていた。加えて、3年後には『東北新幹線』が開業する。要員合理化等、労組と協議すべきことは山のようにあった。1979年3月。私はその仙台局総務部長の発令を受けた。「タカ派の部長が来たら、目にものを見せてやる」。赴任が決まると直ぐに、「仙台の国労委員長が息巻いている」という話が伝わってきた。「武運を祈る」と本社の先輩に送られ、降り立った仙台駅には霙が舞っていた。仙台の現場はどうなっていたか――。例えば、21人の要員がいた会津若松保線区内の支区では、1年間に行われた業務は21本の枕木の交換だけだった。他に何をしていたかというと、1日中点呼を繰り返していたのだ。朝の点呼で、助役がある地点の線路の保守を指示する。すると、組合員が「指示は具体的に行う」という取り決めを盾にとって、「そこの地形はどうなっているのか?」「待避する時はどこへ逃げるのか?」「逃げる際にはどちらの足から逃げるのか?」等と問い詰める。助役が口籠ると、「お前は労働者が列車に轢かれてもいいと思っているのだな?」と糾弾が始まる――。

支区では風呂を焚く為に、専従の職員1名が配置されていた。以前はアルバイトを雇っていたのだが、ある時、作業が終わって風呂に入ろうとしたら、熱くて入れない。「外部の人間は労働者への共感が足りない」ので、それ以来、職員を充てることになったのだという。現場だけで結んだ協定に依るこうした悪慣行は、現場長や助役を大勢で取り囲んで威嚇し、強引に認めさせたものだ。法的な効果など無い。そこで、私はその1つひとつを数え上げ、「明日から無いものとする」と通告した。組合側は、「労使が話し合って決めたものを、一方的に破棄するつもりか!」と激しく反発した。「今まで通り強い態度で押せば、会社側は折れる」――組合はそう思っていたのかもしれない。だが、私は妥協するつもりなどない。「破棄ではない。初めから無効なんだ」と蹴飛ばした。それから、あちこちで起きる反乱を鎮圧して回る日々が始まった。「正当に働くように」と指示すると、組合員が「そのような命令には従わない」と無断欠勤したり、仕事をサボったりする。これに対して私は、「働いていない分は支払わない」と片っ端から賃金をカットしていった。


≡日本経済新聞 2015年10月14日付掲載≡


テーマ : 鉄道
ジャンル : 趣味・実用

【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(12) 動労、“病気”で集団欠勤…運行ピンチ、筋通し要員確保

静岡鉄道管理局の総務部長に就任したのは1977年2月。局のナンバー2で、人事や労務の責任者である。これ以降、国鉄の終焉まで私は労務問題に深く関わることになる。当時、国鉄には『国鉄労働組合(国労)』『国鉄動力車労働組合(動労)』『鉄道労働組合(鉄労)』の3つの主要な組合があった。最大の組織は組合員25万人を擁する国労で、戦闘的な動労と穏健な鉄労が其々5万人と6万人といったところだった。「葛西君、1つだけお願いがある」。着任早々、本社の運転局にいる旧知の課長補佐から電話があった。一度内命された新人1人の配属先を替えるよう、動労が求めているという。初めて労務を担当する私にとって、最初の試練であった。人事は経営権の根幹であり、筋の通らない話には応じられない。「それは無理だ」と拒んだ。本社としては、運転職場の7割を組織する動労と揉めたくないのだ。「動労が怒ってストライキをやったらどうする。貴方は自分のメンツの為に、何十万人のお客さんに迷惑をかけてもいいのか?」と重ねて発令替えを求める。私は、「今、人事を曲げれば、これから10年・20年に亘って組合の人事介入を許すことになる。その結果、もっと多くのお客さんに迷惑をかける」と突っ撥ねた。「そうか。どんなことがあっても知らないぞ」と電話は切れた。1時間もしないうちに、今度は東京の動労本部の副委員長から電話が入った。同じ用件である。私が改めて断ると、穏やかだった口調が一変した。「お前とは話してもダメらしいな。後は戦場で見えよう」。暫くして、翌日の列車に乗務する予定の動労の組合員30人ほどが、「頭が痛い」「腹が痛い」と次々に医者の診断書を持って休みを申請してきた。このままでは、列車の運行に影響が出る。しかし、丸く収めようとして譲れば際限の無い連鎖反応が起こる。筋論で押すしかない。

動労の職員が出勤できないなら、非番の国労職員に乗務させればいいのだが、これが難題だった。国労も、「動労が仕掛けたストライキのスト破りをした」とは言われたくないからだ。非番の国労職員に乗務させるよう部下に指示すると、案の定、皆驚いた顔で尻込みする。だが、下がる訳にはいかない。乗務指示を出す直前、国労の運転系統の実力者と電話で話をした。「不当な動労の要求を退け、且つ安定した運行を損なわない為には、非番の国労職員に乗務してもらうしかない」と話した。彼は、「わかった。しかし、2時間待ってくれ」と言う。1時間後に電話があり、「いつでも指示して頂いて結構」とのことだった。結局、国労の職員たちが代わりに乗務することが決まった。すると今度は、動労の職員から「頭痛が治った」「腹痛も治った」と連絡が相次ぐ。「明日は出勤できる」と口々に言うので、「要員は確保した。安心して養生するように」と休ませた。私は自らの職を賭するつもりでこの問題に対処したが、国労の指導者もその立場を賭けての判断をした筈である。立場は違っても自らの信念に忠実であるという一点で、不思議な信頼関係が芽生えた。立場を超えた付き合いは、彼が亡くなるまで続いた。


≡日本経済新聞 2015年10月12日付掲載≡


テーマ : 鉄道
ジャンル : 趣味・実用

【私の履歴書】JR東海・葛西敬之名誉会長(11) 「早晩行き詰まる」と実感、値上げや合理化に政治の壁

国鉄に残るべきか、辞めるべきか。アメリカに留学するまでは、私にはまだ色々な道があると思っていた。抑々留学自体、自分の将来の選択の幅を広げるつもりで受けたのだ。異郷の地に渡り、慣れない英語で、未知の学問である経済学の学位をとった。「どこに行っても何とかなるのではないか」――幻想のような、自己暗示のような自信を胸に1969年、帰国した。ところが戻ってみると、もうそんな呑気なことを言っていられる状況ではなくなっていた。留学に出る直前の1966年に国鉄は累積赤字に陥っており、帰国した年には第1次再建計画がスタートした。兎に角毎日、目の前の仕事を熟さなくてはならない。10年に亘る再建計画は、最初の1~2年だけは大赤字である現状を反映した内容になっている。だが、最終年の10年目には再建できていなければならないので、3年目辺りから急に設備投資や合理化の効果が出て、収入が伸びていくストーリーが描かれている。典型的な先送りの手法だ。計画の作成に関わった先輩は、最初から「これは2年しかもたない計画なんだ」と平然と話していた。名古屋鉄道管理局の貨物課長を経て1971年2月、新設された経営計画室の主任部員として本社に戻った。“予定通り”第1次再建計画は3年で破綻し、1972年から始まる新しい10年計画が作られ始めたところだった。私はここで3年間、長期収支の試算を担当した。続く3年間は経理局に移り、予算の要求と執行に携わる。私は本社でのこの6年間の仕事を通して、このままでは早晩、国鉄が立ち行かなくなることを実感した。

それは、公共企業体である国鉄の宿命でもあった。運賃・賃金・設備投資等、重要なことは全て国会で決められるのだ。経営の根幹が政局や世論に左右されるといっていい。だから、運賃の値上げ・赤字路線の廃止・要員の合理化等、やるべきことが明確にわかっていても、全てが不十分・不徹底・時期遅れになる。新たにできた第2次再建計画も、問題を10年後に先送りするものでしかなかった。それでさえ、沖縄返還を巡る与野党の争いや自民党内の政権抗争に翻弄され、運賃改定の為の法案が廃案になる。列島改造論に依る土地投機や狂乱物価の影響で計画は更に延期され、“漸く始まった時にはもう手遅れ”という有り様だった。流石に追い詰められた政府与党は、1976・1977年度に2年続けて運賃を50%ずつ値上げし、2年間で運賃を倍にする思い切った計画を打ち出した。だが、これも1度目だけで終わる。値上げへの利用者の反応は厳しく、旅客が自動車や航空機に逃げ、鉄道離れが大きく進んでしまったのだ。そんな状況の中、私は初めて労務の責任者として地方に赴任することになった。静岡鉄道管理局総務部長へ転出したのである。国鉄の経営は火の車だったが、国に依る赤字ローカル線助成が実現する等、前進も無い訳ではなかった。私はまだ、「今の経営形態のままで国鉄が再建できる」という希望を持って、静岡に向かった。しかしそこには、予算とは全く別の深刻な問題が待ち受けていたのだ。国鉄の現場では経営側と労働組合が癒着し、職場の規律は弛緩していた。


≡日本経済新聞 2015年10月11日付掲載≡


テーマ : 鉄道
ジャンル : 趣味・実用

Categories
Profile

KNDIC

Author:KNDIC
Welcome to my blog.

Latest articles
Archives
Counter
I'm participating in the ranking.

FC2Blog Ranking

information
Search
RSS Links
Link
QR Code
QR