【昭和史大論争】(08) 戦略なき作戦…ミッドウェー真の敗因

20160313 07
開戦から破竹の連戦連勝を遂げてきた日本は、「戦力的に勝って当然である」と思われたミッドウェー海戦での敗北を機に“戦局の転換”を迎え、以後、敗戦への一途を辿ることとなります。その為、ミッドウェー海戦に関しては、これまでにも「何故、ミッドウェーで敗れたのか?」といった論点から、特に作戦・戦術に着目した分析が数多くなされてきました。ミッドウェーの敗因には、例えば日本軍の“驕り”に起因する情報の軽視や索敵の不備、無線封止と度重なる兵装転換、杜撰なダメージコントロールや、敵将である太平洋艦隊のニミッツ司令長官・第16任務部隊のスプルーアンス司令官の巧みな采配等が挙げられ、戦争には必ず付いて回る“運”や“偶然性”等といった様々な要素も絡み合っています。それ故、ミッドウェーに関する論考は、両軍の作戦・戦術及び戦闘のミクロプロセスを追い、「若しあの時…」といった“歴史のif”と史実との比較衡量になりがちですが、歴史としてのミッドウェーには、現代を生きる日本人として学ぶべき教訓が多数存在します。また、「若しミッドウェーで勝っていたら、対米戦争の帰結は大きく変わっていた」という見方がされることも少なくありません。しかし、より大局的な戦略レベルの視点から眺めた時、この見方は必ずしも妥当であるとは言えないように思われます。そこで本稿では、戦術や戦闘のミクロプロセスに焦点を当てるのではなく、よりマクロな戦略の視点からこれを捉え直し、そこから得られる歴史の教訓について改めて考えていくことを目的とします。先ずは、真珠湾攻撃からミッドウェーまでの流れを概観し、その目的や戦略目標を確認していきたいと思います。

海軍屈指の知米派であった連合艦隊の山本五十六司令長官は、アメリカ相手の戦争、特に長期戦には勝ち目が無いことをよく認識していました。政治の決定に依り開戦が避けられない以上、如何にアメリカの戦意を喪失させ、早期講和に持ち込むかを追究した結果捻出されたのが、真珠湾への奇襲攻撃作戦でした。1941年12月8日に実施された真珠湾攻撃は、結果的に期待を上回る戦果を上げることとなりましたが、「開戦劈頭、敵主力艦隊を猛撃撃破して、米国海軍及米国民をして救う可からざる程度にその志気を沮喪せしむ」という山本の企図とは裏腹に、日本の外交交渉打ち切り通告が開戦よりも50分遅れ、“謂れの無い卑劣な騙し討ち”に遭ったアメリカの日本に対する敵愾心は一気に高揚します。以後、アメリカ国民は“リメンバーパールハーバー”を合言葉に、対日戦争に向け一丸となっていきました。真珠湾攻撃における日本にとっての最大の不運は、アメリカ太平洋艦隊所属の空母『サラトガ』『レキシントン』『エンタープライズ』の3隻全てが真珠湾には停泊しておらず、無傷で済んだことであり、これが後にミッドウェー作戦の発起、そしてその敗退へと繋がっていきます。また、山本が「開戦劈頭アメリカ太平洋艦隊を撃滅する」という作戦企図を掲げていたにも拘らず、南雲忠一司令長官・草鹿龍之介参謀長の第1航空艦隊は第1撃の戦果に満足し、第2撃を行うこと無く戦場離脱を決意して、呉軍港への帰投の途に就きます。その背景としては抑々、航空については素人の魚雷屋であり、海軍伝統の“艦隊決戦思想”に染まっていた南雲が、真珠湾攻撃を飽く迄も南方作戦の一支作戦として捉えていたこと、また軍令部から空母を喪失せずに帰投するよう要求されていたことから、敵の反撃を恐れて初めから「反復攻撃を行わない」と決心していたこと等が挙げられます。無論、山本の作戦構想からすれば、第2撃・第3撃を加え殲滅すべきところでしたが、山本は連合艦隊司令部の複数の参謀から第1航空艦隊司令部に対する第2撃命令を進言された際、「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官に任せよう」と答え、再度の攻撃命令を発しませんでした。

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【思想としての朝鮮籍】第3部・李実根(下) いまだ果たせぬ約束

20160307 01
放火・銃刀法違反・火薬類取締法違反――。当時の新聞に記された李実根の主な容疑である。発端の占領政策違反は既に失効していた。にも拘らず、当局は李を連続火炎瓶事件の被疑者とした上、捜索で発見した拳銃の持ち主としても勾留した。「全部でっち上げですよ!」。当時の怒りが蘇ったのだろう、李は声を荒らげた。取り調べでも全面対決だった。タチが悪かったのは、体制の護持者を気取り、“反共”の使命感に燃える検事だった。ある日の運動時間、目の鋭い、痩身だが威圧感のある男に声をかけられた。男は網野光三郎と名乗った。映画『仁義なき戦い』シリーズで成田三樹夫が演じた松永弘のモデル、広島ヤクザの大物である。網野は言った。「あんたには何の恨みも無いし、こんなことを言う義理も無いのだが…」。頑固な李に手を焼いた検事は、「極道も共産主義根絶に協力してほしい」と網野に“脅し”を頼んだのだ。「日本の法では李を処刑できないから、韓国に強制送還して銃殺してもらう」。こんな検事の“伝言”を伝えた後、網野は言った。「その思想を持っておれば、あんた、刑が終わっても長崎の大村収容所に連れて行かれての、韓国に送られるらしいじゃないか。若い時分に死ぬことはないけん、思想転向せえや」。主義者としての真価が問われていると李は思った。「腹に力を込めてね、『あんた、若し“ヤクザ辞めろ、親分辞めろ”言うたら辞めるか?』と訊いたんです。網野さんは『そら、共産党と極道とは違う』と反論したけど、『いや、違やせんよ。男としてそういうことは言うもんじゃないで』とね。網野さんは笑ってね、『あんたも流石に堅い信念持っとるのう、検事が言うだけある』って」。“主義者”の本領発揮である。この話を李は少し誇らしげに結んだが、これには続きがある。「自慢する話じゃないから…」と渋ったが、続きはこうだ。「『検事がそんな汚い真似をするんか』って腸が煮えくり返ってね、網野さんに『次は私の伝言を伝えてくれますか?』って頼んで、こう言うたんです。『お前は最低のクズだ。ワシを殺すと言うたらしいが、それは何年もだいぶ先のことになりそうだのう。ワシは同志と連絡取り合うとるから用心しとれや。そのうち、火炎瓶で家もろとも焼き殺されるかもしれんからのう』」。どちらが筋者かわからない。“ヤクザ活動家”の本領発揮である。数日後、網野が笑みを浮かべて近付いてきた。「あんたの伝言を伝えたら、あいつ、真っ青になって、『冗談じゃけえ、取り消すけえ、気を悪うせんといてくれ』と言うてのう。見とっても可哀そうなほどじゃったけえ、こりゃあ堪えてあげんさいや」。先に出所した網野は、李の“生還”を我が事のように喜び、祝宴を設けてくれた。臨席者の中には、『仁義なき戦い 完結篇』で北大路欣也が演じた松村保のモデルで、後の『3代目共政会』会長・山田久もいた。

扨て、李ら4人の勾留理由開示公判が開かれた。大法廷は同志で一杯だった。「裁判所は運動側と内々で話し合い、釈放で話が決まっていたようでした」(李)。だが、裁判長は尋問を終えると閉廷を宣言し、廷内は一瞬で怒号の海となった。「愛国者を釈放しろ!」「約束が違う!」。活動家たちが押し寄せ、棚が決壊した。看守は自らの手錠を嵌められ、検事や裁判官も制圧された。「いつの間にか私たちは抱え上げられていて、そのまま後ろに送られて廊下に出ていた。見回したら誰もいない。今更牢獄に戻るのも変なので逃げました」。前代未聞の法廷奪取事件だった。約1ヵ月後、李は三度逮捕された。罪名には“逃走罪”が加わり、3ヵ月後に懲役15年が求刑された。判決期日はその1ヵ月後。異常なスピード審理だ。「碌な証拠が無いから急いだんですよ」。李の言葉を裏付けるように、裁判所の判断は懲役5年だった。求刑の半分でも検察的には“完敗”なのに、3分の1である。検察に配慮して“無罪”だけは避けたのだろうが、抑々無理筋の逮捕・起訴、そして求刑だったのだ。そして、ここでまた李はやらかした。騒然となった法廷で、ある活動家が李に何かを叫んでいた。

「『李ぃ君! ここで万歳やっ!』って。一体、何が万歳なのかよくわからなかったですよ」

――それでどうしたんですか?
「いや、ついやっちゃったんですよ。『日本共産党、ばんざーい!』って」

繰り返すが、検察的には赤っ恥の量刑だ。加えて、公安事件の被告が法廷で“万歳三唱”である。“短い”量刑で李にも配慮したつもりの裁判官にとっても、これは許せない行為だった筈だ。検察は控訴し、広島高裁では懲役7年を言い渡された。訳もわからずやった万歳三唱で、2年の“オマケ”である。それでも求刑の半分以下だったが、最高裁で実刑判決が確定した。収監先は山口刑務所だった。ここでも李は主義者を貫いた。看守が年配受刑者を打擲した事件を巡って“刑務所内の民主化”を訴え、刑事告発を宣言した。「大人しくすれば早く仮釈放になる」との“囁き”も撥ね付けた。「自分のことはどうでもいいし、生きて帰ろうとも思っていない。共産主義者とはそういうもんだ!」。猛々しい言葉で折れそうな心を護ったのだろう。一方で、李は当時の苦悩も述懐した。「私は1人息子でしょ。親のことを思うとね…。それに新婚の妻もいる。『可哀そうなことしてるな』と。でも、『負けちゃいけない』という思いがあって、常に自分の中で内部争いがあったですね」。煩型の李は、広島刑務所に移送された。そこでも、常に“転向”の2文字が大きな口を開けていた。この頃の彼は、文学を貪り読んだ。「マルクスやレーニンの理論書はそれまでも読んでいたけど、遥かに感銘を受けましたね。印象深いのは、ゴーリキーの“母”、オストロフスキーの“鋼鉄はいかに鍛えられたか”、小林多喜二の“蟹工船”や石川啄木の詩とか…」。国家を背景にした看守との絶対的な力関係を受け入れ、敗北を食らって港きることを迫られる日々の中で、李が縁にしたのは文学だった。

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【昭和史大論争】(07) なぜ海軍は日米戦争を止められなかったのか

20160306 03
対米開戦の政治過程を眺めた時、「海軍は何故戦争を止められなかったのか?」という疑問は、多くの人が抱くものである。その問いかけは、“暴走”する陸軍に比べて、“合理的”でありながらも非政治的であるが故に戦争を止められなかった海軍という、陸海軍間のイメージのコントラストを前提としている場合が多い。また、日米開戦に至ったのは、第1次日独伊三国同盟交渉(防共協定強化交渉)に反対した海軍大臣の米内光政、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美といった親英米路線で“良識派”の面々が、海軍省の中枢を離れた結果として解釈されがちである。だが、海軍は本当に陸軍を止めようとしていたのであろうか。また、海軍は本当に親英米や親独といった、どこの国と協調するのかという点を行動原理にしていたのであろうか。更には、「“合理的”な海軍はアメリカと日本との戦力差をよく知っており、日米開戦を避けたかった」と言われるが、その実態はどうであったのだろうか。それらを史料に基づいて確認しながら、「何故、海軍は日米戦争を止められなかったのか?」について見ていきたい。

1938年から1939年にかけて、ドイツ・イタリアとの間でソ連を対象とした軍事同盟を結び、更にはそれを発展させてイギリスやアメリカをも対象とするかどうかという、所謂“第1次三国同盟交渉”が持ち上がった際、米内大臣はイギリスを対象とした軍事同盟化に反対していたとされることが多い。だが、米内首脳部の下で、三国同盟が結べなかった場合に備えて、イギリスを牽制するた為のイタリアとの個別協定交渉も進められていた(ヴァルド・フェレッティ著、翻訳は小林勝『海軍を通じてみた日伊関係 1935-1940』)。海軍にとって重要であったのは、どこの国と協調をするのかということよりも、日中戦争を早期に解決する為に、イギリスやアメリカが東アジア情勢に介入することを牽制することであった。また、実は米内には官僚的な面が多分にあった。特に組織間の業務分担には非常に敏感であり、主管大臣を尊重する傾向が強かった。その為、当時の宇垣一成大臣を始めとした外務省が、イギリスを対象とした三国同盟を推し進める方針を取っていた間は、米内もそれに従い、強く反対はしていない。反対を強く表すのは、1938年10月末に宇垣から有田八郎に大臣が交代し、有田がイギリスを対象とした軍事同盟に反対して以降のことで、主管大臣に追随する姿勢には変わりがなかった。「米内がドイツとの軍事同盟に反対した」というイメージは、有田への追随以降の米内の言動が、それ以前に遡及されて形成されたものである(詳しくは拙著『海軍将校たちの太平洋戦争』・吉川弘文館)。では、1940年の第2次同盟交渉では何が変わったのか。海軍にとって重要であったのは、主任務である対米戦を、できるだけ有利に遂行する為の環境作りであった。その海軍の志向は変化していない。ただ変わったのは、大臣の松岡洋右が三国同盟を推進の立場を取ったことである。ヨーロッパでのドイツの快進撃に依り、国際情勢も大きく変わった。政治的空白地帯と化した東南アジアを獲得し、石油や天然ゴムといった戦略物資を確保して対米戦争が有利になるのであれば、対独提携も海軍は辞さないのであった。「海軍は何故、戦争を止められなかったのか?」という問いは、米内を含めた当の海軍将校たちにとっては的外れな質問に感じられるであろう。抑々、海軍は戦争を止める為の組織ではなく、戦争を準備し、遂行する為の組織なのである。三国同盟に反対したとして高く評価される米内であっても、恐らく1940年に海軍大臣を務めていれば、同盟に同意したであろう。

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【昭和史大論争】(06) 日米関係を悪化させたグローバリゼーション

20160228 05
1941年12月、日本海軍はハワイのアメリカ海軍基地を攻撃した。真珠湾攻撃である。この日本のアメリカ領土への攻撃が、“大同盟”成立の最後の決め手となった。“大同盟”とは、第2次世界大戦におけるイギリス・ソビエト連邦・アメリカに依る“反ドイツ大連合”である。1939年に第2次世界大戦が勃発した際、ソ連はドイツと不可侵条約を締結していた。1941年6月にドイツがソ連を攻撃するに至って漸く、イギリスとソ連の間に軍事同盟が成立。真珠湾攻撃が、この間、イギリスへの支援を強化しつつ参戦はしていなかったアメリカを第2次世界大戦に引き入れる結果となり、連合国軍の中心的陣容が定まったのである。しかし、真珠湾攻撃はアメリカのみならず、アメリカの参戦を切望していたイギリスやオーストラリアにとっても想定外の事態であった。この時、日本海軍は同時にマレー半島のイギリス軍を攻撃したが、イギリスやオーストラリアが当時、最も可能性が高いと考えていたのはイギリス軍のみが攻撃を受けることであった。日本のアメリカ領土への攻撃が粗あらゆる勢力にとって想定外であったのは勿論、日米関係が良好であった為ではない。確かに、日米関係は緊張していた。そして、その最も直接的な原因は中国を巡る対立であった。日本は満洲を中心とする日本に有利な地域・勢力圏を残そうと努めていた。即ち、満蒙特殊権益の維持には積極的に取り組んだ。それに対し、アメリカの中国政策は特定の国に依る優越的な地位を否定した“門戸開放”を掲げ、中国を自由貿易秩序に組み込み、アメリカの輸出拡大を図ることを標榜していた。とは言え、第1次世界大戦後のアジアにおいては、アメリカの主導で“ワシントン体制”が形成され、日本政府もこれを受け入れていた。アメリカの共和党政権に依るワシントン体制は、中国の門戸開放を掲げつつも漸進的な政策を取り、条約の裏付けがある特殊権益の即時放棄を迫ることはなかった。また日本も、第1次世界大戦後は国際連盟規約や不戦条約のような新しい国際的な規範が台頭し、軍事力を行使して新たな領土・権益を獲得することは考え難くなったことを理解しており、できる限りこの新しい規範に抵触しない範囲で、満蒙権益の維持・発展に努めたのである。しかし、新しい国際的な規範の台頭を認識しつつも、日本は中国への強い関心を持ち続けた。何故、日本は満洲を含む中国にそれほど拘ったのだろうか?

日本が注目したのは資源であった。第1次世界大戦後、工業化は国家にとって、通商上の観点からも安全保障上の観点からもより重要な意味を持つようになり、その為に資源を確保することが必要であったのである。そして、それは“総力戦”の問題と深く関わっていた。第1次世界大戦は、嘗てない大規模の犠牲をヨーロッパ諸国に強いることになった。総力戦として戦われたからである。戦争がナショナリズム及び大衆化と密接に結び付いたことに依る戦争形態の変化であった。このような犠牲の大きさは、ヨーロッパを中心に国際的な平和主義運動を呼び起こした。戦場となったヨーロッパにおいて第1次世界大戦の衝撃は深く、「このような戦争が再び引き起こされれば、人類全体が滅亡するのではないか」という危機感が抱かれた。ナショナリズムが引き起こした戦争は、多くの人々に“人類”という国家・民族を越えた普遍的枠組みを想起させるほどに、衝撃的な経験となったのである。これが、新しい国際的な規範の台頭の背景であった。一方、総力戦時代の到来が安全保障の在り方を大きく変えたということも注目すべき問題であった。実は、このことに日本はかなり敏感に反応したのである。総力戦は、兵器の発達に依る被害の増大のみならず、経済・工業動員の比重増大や、思想・精神の動員の必要性を特徴とした。思想・精神の動員を効率的に行うには、近代国家としての機能が重要な意味を持つ。また、農業生産のサイクルを無視した長期戦を可能とする為に、工業化に依る富の蓄積と、食糧を含む資源確保を同時に行う必要があった。近代国民国家という国の在り方と資本主義経済体制は、ヨーロッパ諸国の世界進出に伴って世界大に広がった。即ち、現代に繋がるグローバル化である。第1次世界大戦は、世界大に広がった戦争という事実を通して、多くの人が初めてグローバル化を意識し、その問題点を認識する契機となった。それには、2つの方向性があった。1つは、既に触れたように、総力戦を通じて“人類”としての一体感を獲得する視点である。そしてもう1つは、総力戦の勝者となる為の国力が如何にして蓄積されたのかという視点である。その1つの形態は、イギリスのような海軍力を背景とした世界大の帝国ネットワーク形成であった。日本軍部にとって、総力戦体制構築は喫緊の課題と感じられたが、それは殆ど不可能なまでに困難な課題であった。資源に乏しい後発帝国主義国である日本が、イギリスのような世界大の帝国ネットワークを形成する前に国際的規範が変わり、最早領土を拡大することは不可能となったからである。一方で中国には、アメリカのような大陸国家としての発展の可能性が残されているように見えた。苦渋の末に得た結論は、日米不戦の決意を以て総力戦体制構築を断念することであった。その具体的な形がワシントン海軍軍縮条約・ロンドン海軍軍縮条約である。これこそが、最も合理的な選択であった。

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【昭和史大論争】(05) 戦前日本の石油政策、失敗の本質

20160221 02
玉音放送を聞きながら、日本国民の大多数が茫然自失となったあの日から数ヵ月後、昭和天皇は「日米戦争は油に始まり油で終わった様なものである」との認識を示された(『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』)。確かに、日米開戦へと進む経緯、そしてその後の戦局において、石油はまさに日本の死活を決する資源だった。開戦直前の日本の石油事情を簡単に確認しておこう。当時、平時の石油需要量が約400万キロリットル/年(約7万バレル/日)であった戦前、国産原油は需要量の1割弱しか供給できず、8割ほどをアメリカからの輸入に頼っていた。そのアメリカからの石油輸入が、昭和15(1940)年の夏には“部分許可制”に、翌16(1941)年6月には“全面許可制”となり、遂に8月1日には“全面禁止”となってしまった。石油を中心とした資源確保を目的とした南方進出(南部仏印進駐)は、却ってアメリカからの経済制裁を強化するばかりだった。しかも、“日蘭会商”と呼ばれたオランダ領インドシナからの石油購入のままでは、保有在庫を食い潰すしか方策がなくなる。何れ行き詰まることは明白だったから、まさに“油に始ま”った戦争だったと言える。では、戦前の日本は、この“石油危機”にどのように対応しようと試みたのか。そして、その失敗の源はどこにあったのか。それを探ることは、現代日本のエネルギー安全保障政策の在り方を考えることにも繋がるだろう。

1914年に始まった第1次世界大戦は、石油の戦略的重要性を世界中に知らしめた。自動車に依る兵員や物資の輸送がロジスティックスに新天地を切り開き、戦車の威力は戦場の勢力図を一変させた。海では、イギリスのチャーチル海軍大臣の予見通り、石炭から石油への転換を図った大英艦隊が圧勝する。そして、極めつけは航空機の活躍だった。航空機だけは、石油でなければ飛ばしようがない。こうして、戦略物資としての石油は、この時点で決定的なものとなったのである。第1次世界大戦後、欧米列強が石油利権を巡って激しい攻防を繰り返すようになったのもその為だった。日本でも、こうした変化に敏感だった人物はいた。『日本風景論』(一穂社)で知られる地理学者の志賀重昂は、『知られざる国々』(日本評論社)の中でこう指摘している。「飛行機も、自動車も、内燃汽船も、ガソリン油即ち石油に依らざれば一寸だに行る能はず、即ち石油無き国家は、空気、陸、水に劣敗し、即ち此の地球の上に存在を容さざるに至るべきである」。従って、「“油断国断”なる語を国民の間に徹底せしめることが日本の石油政策の第一の手段である」と。「『石油が無ければ国家として存立し得ない』というのが、冷徹なる現実なのだ」という志賀の指摘は、現代においても同様である。ところが、日本における石油政策は中々進まなかった。石油問題が帝国議会で初めて論議されたのは、大正9(1920)年6月のこと。八八艦隊を巡る燃料油問題が取り上げられたのである。そして翌年、『石油政策に関する調査会』が関係官庁の高官をメンバーとして設立され、論議が行われたが、確たる結論は出なかった。続いて、大正15(1926)年に『燃料調査委員会設置の件』が閣議決定されたが、政策として具体化するのは、昭和8(1933)年の『石油国策実施要項』の決定まで待たねばならなかった。昭和12(1937)年6月には、“国策としての石油政策”を確立し実行する政府組織として、海軍の肝煎りに依って商工省燃料局が設立される。しかし、形の上では総力体制を取りつつも、その実態は各官庁の寄せ集めの域を出ておらず、其々が所属組織の利益最大化に努めただけだった。

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【昭和史大論争】(04) 石橋湛山の“小日本主義”とは何だったのか

20160214 10
様々な媒体で石橋湛山(1884-1973)の名を目にする。そこでは、多様な政治的立場の人々が彼の言動を紹介している。石橋の言葉には政治的な願望を投影し易いのだろう。石橋のイメージは多面的だからこそ、其々の政治的立場にアピールする要素を持っている。石橋湛山は、戦前・戦時期には経済雑誌『東洋経済新報』(現在の『週刊東洋経済』)のジャーナリストとして活躍し、戦後は政治家として自民党に所属し、1956年には首相に上り詰めた人物として知られている。現代も多くの人々を惹きつけているのが、石橋の主張した“小日本主義”である。第1次世界大戦後のヴェルサイユ・ワシントン体制の成立前後に、石橋は小日本主義を打ち立てた。ワシントン会議(1921年11月~1922年2月)に臨む日本代表に対して石橋は、帝国主義列強に先がけて、日本の既得権益であった植民地を放棄するよう求め、『東洋経済新報』誌上に一連の社説として発表した。石橋は、「朝鮮・台湾・満洲を棄てる、支那から手を引く、樺太も、シベリヤもいらない」(1921年7月23日『一切を棄つるの覚悟』。以下、注記の無い場合は『東洋経済新報』掲載。適宜、仮名遣いを改めた)という徹底的な植民地放棄論を展開したのである。拡張主義が優勢だった戦前日本に、こうした斬新な少数意見が存在したこと自体、稀有な発見である。この小日本主義に依って、石橋は独自の存在として歴史に刻まれた。人々が抱く石橋像の中で、“石橋湛山=小日本主義”というイメージは強い。「石橋は生涯、小日本主義を貫いた」と思われがちである。しかし果たして、それは事実と言えるのだろうか? 本稿では、石橋湛山の小日本主義とは何だったのかを検討したい。

先ず、「戦時期(1931~1945年)も石橋の小日本主義は一貫したのか、それとも挫折したのか?」という疑問が湧くのではないだろうか。戦時期の社説で、石橋は次のように述べている。「我が植民地とは何処々々か、あるいは台湾、朝鮮および樺太が挙げられるであろう。けれどもこれらの地方は、実際において今は植民地というよりは、少なくも貿易については我が本土の一部と見るのが適当だ」(1936年9月19日『世界開放主義を提げて』)。ここでは植民地放棄論は消え、更に「経済上は日本の一部だ」と述べている。小日本主義の核心が、冒頭で掲げたように植民地放棄論にあったとするならば、この1936年の言論に小日本主義を見い出すのは最早無理である。「石橋は生涯、小日本主義を貫いた」という見方は、「そうあってほしい」という願望の投影に過ぎないだろう。こうした石橋の主張の変化は、何故起こったのか? 他の言論人の例に漏れず、石橋も戦時期の言論統制の犠牲となり、小日本主義は挫折したと言うべきなのだろうか? この疑問を解く為には、小日本主義がどのような構成要素で成り立っているのかを分析する必要がある。「石橋が発表した小日本主義の言論を解剖すると、“自立主義”と“経済合理主義”という要素に腑分けできる」というのが筆者の見解である。自立主義には、第1次世界大戦末期のウィルソン主義(民族自決の理念等)の影響を色濃く窺うことができる。1919年には朝鮮で3.1独立運動、中国で5.4運動が起こった。石橋は、列強の帝国主義に依ってこれまで抑圧されてきた民族のナショナリズムを正当なものとして評価し、擁護した。石橋がアジアの民族自決主義に共感したのは、社会運動の盛んな“大正デモクラシー”の中で到達した自己の思想的立場があったからである。「幸福は、決して与えられた結果にはない」「自己は自己に依って支配せられぬ限り、真の意味において生活はない」「民族の生活もまた同様」と考える石橋は、支配者に依って与えられる善政を拒否し、民衆に依る政治を望んだ。こうした自己の要求と、抑圧された民族の自立への要求とを重ね合わせ、「彼らの要求も同じように正当だ」と主張したのである(1916年11月1日『哲人政治と多数政治』<『第三帝国』>・1919年5月15日『鮮人暴動に対する理解』)。経済合理主義とは、ここでは植民地領有の経済的合理性の有無――つまり、儲かるか儲からないかについての計量分析である。石橋は、「日本の植民地との貿易額がアメリカ、インド、イギリスとの貿易額に比べて些少であり、移民実績が振るわず、軍事的干渉政策は反感を買う」といった諸事実をデータで示した。「植民地領有は、コストがかかる割に国益にならない」という結論に至ったのである。こうして、自立主義と経済合理主義から導かれた結果が、植民地放棄論を核心とする小日本主義であった。

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【昭和史大論争】(03) 『南京事件』の総決算

20160207 08
1937年12月、日本陸軍が南京を攻略した際、南京城内外の掃討戦、及びその後に実施された“安全区”(日本側は“難民区”と称した)における兵民分離工作の間に生起した不法殺害・掠奪・強姦等を総称して『南京事件』と言われている。この事件の中核をなすのは不法殺害であり、掠奪・強姦等は末端部隊で散発的に発生したが、計画的・組織的なものではなかったので、本論では事件の中核をなす不法殺害について考察する。戦後、この事件の責任を問われ、『極東国際軍事裁判』(通称『東京裁判』)で中支那方面軍司令官の松井石根大将が絞首刑になり、南京の『国防部戦犯裁判軍事法廷』(通称『南京裁判』)では、第6師団の長谷寿夫中将が銃殺刑になった。当時、この事件を海外に発信したのは、『ニューヨークタイムズ』のF・T・ダーディン記者と『シカゴデイリーニュース』のA・T・スティール記者であった。ダーディンは1938年1月9日の記事に、スティールは1937年12月15日の記事に南京の惨状を報じているが、不法殺害等についてダーディンが2万人、スティールが5000~2万と述べている。このように、戦前においては“30万虐殺”という論は無かったのであるが、後述するように、南京裁判において埋葬記録等を根拠にした“30万虐殺説”が採択され、中国は勿論、日本の“進歩派”と称する学者やマスコミが、この“30万虐殺説”を十分に検証すること無く声高に主張していたのである。因みに、東京裁判においては、松井大将の起訴状で殺害された一般人と捕虜の数は総計20万人以上とし、判決では10万人以上となっている。戦後、中国では南京裁判を根拠に“30万虐殺説”が定着化しているが、この30万という数値が最初に出たのは、南京陥落直後の12月15日に蒋介石が発表した“南京退出宣言”で、「抗戦開始から今までに我が前線将士の死傷者は30万に達している」と述べたことである。その後、南京事件を世界に広めたティンパーリーの『戦争とはなにか』は、国民党宣伝処の資金援助で1938年7月に出版されたが、その冒頭に「華中の戦闘だけで中国軍の死傷者は少なくとも30万人を数え、ほぼ同数の民間人の死傷者が発生した」と記している。これは、ティンパーリーが国民党宣伝処と共謀し、蒋介石の言った地域を華中に狭めた上、粗同数の民間人死傷者を加算したのである。更に、戦後の中国では地域を南京に限定し、死傷者を“被殺者”と言い換え、その数を30万として世界に発信している。この30万人殺害を巡って、中国と日本において、“30万虐殺説”とそれを否定する“幻説”が唱えられた。更に、“中間説”も加わって論争が展開された。その焦点は不法殺害の規模(数)であり、現在においては多くの史料や関係者の証言等に依って研究も進み、“30万虐殺説”も虐殺を否定する“幻説”も実証性と合理性に乏しく、以下述べるように両説とも破綻していることが判明している。以下、両説の立論を紹介しながら、その問題点を指摘したい。

“30万虐殺説”は「敵を包囲して退路を断ち、組織的抵抗力の無くなった敗残兵を追撃したり砲撃等で撃滅するのは、虐殺に相当する」として、「下関(南京の外港)付近で包囲撃滅したことや、揚子江を船や筏で逃げる兵士を射殺したのは虐殺に当たる」と主張する。この論は、『ハーグ陸戦規則』の「兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞へル敵ヲ殺傷スルコト」の禁止規定を根拠にしているが、降伏の意思表示もせずに逃げる敵兵は、この禁止規定に該当しない。敵を包囲撃滅することも、降伏の意思表示をせずに逃げる敵を追撃することも、世界各国共通の軍事常識であり、正当な戦闘行為である。従って、この論は虐殺数を多くする為の詭弁であると言える。一方の“幻説”は、「捕虜や便衣兵を揚子江岸に連行し射殺、若しくは刺殺したのは、虐殺でなく戦闘の延長であり、また軍服を脱ぎ民服に着替えて安全区等に潜んでいた便衣兵は、ハーグ陸戦規則の“交戦者の資格”規定に違反しており、殺害しても不法殺害にならないので、虐殺は無かった」と主張している。しかし、武装解除して一旦は自己の管理下に入れておいて、その後に揚子江岸に連行して殺害するのは、戦闘の延長とは言えない。逃亡とか反乱を起こした場合は別であるが、平穏にしている捕虜を殺害するのは不法殺害に当たる。ハーグ陸戦規則の第4条に「俘虜ハ敵ノ政府ノ権内ニ属シ、之ヲ捕へタル個人又ハ部隊ノ権内ニ属シタルコトナシ」と規定されているように、捕虜を捕えた第一線部隊には捕虜を処断する権限は無いのである。捕えられた者が捕虜であるならば、師団以上に設置された軍法会議の裁判で、捕虜でないならば、軍以上に設置された軍律会議の審判に基づき処断されるべきものである。よって、“幻説”の戦闘の延長論は成立し得ない。

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【昭和史大論争】(02) 総力戦の罠に嵌まった永田鉄山

20160131 04
満州事変以後の“昭和陸軍”を実質的にリードしたのは、陸軍中央の中堅幕僚グループ『一夕会』で、その理論的中心人物が永田鉄山だった。一夕会は昭和4(1929年)5月に結成され、メンバーは約40名。満州事変も、現地と陸軍中央での、一夕会の周到な計画と準備に依っていた(関東軍の石原莞爾作戦参謀や板垣征四郎高級参謀も一夕会の会員)。日米開戰時、陸軍を主導した東条英機首相兼陸軍大臣、武藤章軍務局長、田中新一作戦部長もまた、中堅幕僚時は一夕会のメンバーだった。永田は、長野県諏訪出身で、陸軍大学校卒業後間もなく、大戦を挟んで断続的に合計約6年間、軍事調査等の為にヨーロッパ(ドイツとその周辺諸国)に駐在した。その間、大戦の調査を主要な任務とする臨時軍事調査委員の一員にもなっている。その後、陸軍大学校教官・陸軍省動員課長等を経て、昭和5(1930年)8月、陸軍実務の中心となる陸軍省軍事課長のポストに就いた。満州事変の約1年前である。また他方で、ヨーロッパから帰国後、陸軍中央の幕僚を中心に『二葉会』『木曜会』『一夕会』等といった非公式なグループを組織し、それらの指導的存在となっていた(一夕会は二葉会と木曜会が合流したもの)。満州事変後も参謀本部情報部長・陸軍省軍務局長として陸軍中枢の要職にあったが、昭和10(1935年)8月、軍務局長在任中に執務室で殺害される。2.26事件は翌年、日中戦争突入はその翌年である。永田は、ヨーロッパ滞在中に直接経験した第1次世界大戦から大きなインパクトを受けた。第1次世界大戦(1914-1918)は、膨大な人員と物資を投入し、巨額の戦費を消尽した。また、戦死者900万人・負傷者2000万人に達する未曾有の規模の犠牲と破壊を齎した。永田も、そのような事実は十分認識していた。大戦では、戦車・航空機等といった機械化兵器の本格的な登場に依って、戦闘において人力より機械の果たす役割が決定的となった。そこから、兵員のみならず、兵器・機械生産工業とそれを支える人的物的資源を総動員し、国の総力を挙げて戦争を遂行する長期の国家総力戦となった。また今後、近代工業国間の戦争は不可避的に国家総力戦となり、また、その植民地・勢力圏の交錯・提携関係に依って、長期に亘る世界戦争となっていくことが予想された。では永田は、どのように対処すべきと考えていたのだろうか。彼の論考『国防に関する欧州戦の教訓』(『中等学校地理歴史科教員協議会議事及講演速記録』第4回・1920年)・『国家総動員』(大阪毎日新聞社・1928年)・『現代国防概論』(編集:遠藤二雄『公民教育概論』・義済会・1927年)等に依って、その構想を見ていこう。

永田も「今後、先進工業国間(日本も含む)の戦争は国家総力戦となる」と見ており、「それに対処するには、“国家総動員”の計画と準備が必須だ」と考えていた。永田は、大戦に依って戦争の性質が大きく変化したことを認識していた。即ち、「戦車・飛行機等の機械化兵器の大量使用に依る機械戦への移行。戦争規模の飛躍的拡大。それらを支える膨大な軍需物資の必要。これらに依って、戦争が、“国家社会の各方面”に亘って、戦争遂行の為の動員、即ち“国家総動員”を行う“国力戦”(国家総力戦)となった」と見ていた(『国家総動員』)。従って、「戦争は長期の持久戦となり、日露戦争のように短期決戦の後に講和し、戦争を終結させることは殆ど不可能となった」と判断していた。そして、「今後、先進国間の戦争は、国際的な同盟提携や政治経済関係の複雑化に依って世界大戦を誘発する」と想定していた。そこから永田は、将来への用意として、次のように、国家総力戦遂行の為の準備の必要性を主張する。これまでのように、常備軍と戦時の兵力動員計画とその運用のみでは、“現代国防”の目的は達せられない。更に進んで、“戦争力化”し得る“人的物的有形無形一切の要素”を統合し、組織的に運用しなければならない。そして、大戦における欧米の総動員経験の検討からして、「平時より国家総動員の為の準備と計画が必要だ」と言う(『現代国防概論』)。永田に依れば、国家総動員とは、あらゆる人的物的資源を組織的に動員・運用し、“最大の国家戦争力”を発現させようとするものだった。その為に平時からその準備を行い、戦時の為に必要な計画を策定しておかなければならないとされる。また永田は、大戦以降の戦争は、これまでとは異なり、長期の持久戦となる可能性が高い為、国力、殊に経済力が勝敗の決定を大きく左右する旨を指摘している。しかも、交通機関の発達や国際関係の複雑化に依り、従来のように近隣諸国の事情や仮想敵国の観念に捉われるべきではない。「世界の何れの強国をも敵とする場合ある」ことを予想し、それに備えなければならない(『国防に関する欧州戦の教訓』)――。こう、永田は主張している。即ち、それまで陸軍は主にロシア(ソビエト連邦)を仮想敵国としてきた。だが今後は、そのような観点は捨てなければならないとするのである。

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【特別寄稿】 「俺がイスラム教に“硬派”を感じた理由」――元暴走族総長が見たパリのイスラム社会のリアル

世界3大宗教の1つであるイスラム教。全世界で16億人、つまり、全人口の4人に1人がイスラム教徒である。しかし、葬式か初詣くらいしか宗教を意識しない多くの日本人にとって、『ISIS』(別名:イスラム国)のテロ行為等でイスラム教に対する危ないイメージを抱きがちだ。そんな現況を嘆くのは、日本人イスラム教徒のアリ長田氏(下写真左)。元暴走族総長のイスラム教徒という異色の経歴の持ち主の彼が、イスラム教徒になった理由とは――。

20160127 01

2015年11月13日金曜日にパリで起こったテロ事件が、世界を震撼させている。サッカースタジアム、レストラン、コンサート会場等が相次いで襲撃され、計130人が尊い命を落としている。パリでは1月にも、イスラム教の預言者であるムハンマドの風刺画を出版した『シャルリーエブド』社が襲撃され、16人が命を落としたテロ事件が起きている。時同じくして、シリアで後藤健二さんと湯川遥菜さんの両名が拉致され、その後に斬首されたことで、日本中が大騒動となった。これらは全て、“イスラム”を名乗るテロリストに依る犯行だ。中でもISISの存在は衝撃的であり、本来は平和を重んじる宗教であるイスラム教を真面目に信仰しているムスリム(アラビア語でイスラム教徒のこと)たちは、「奴らはイスラム教徒ではない」と差別化を図ることに躍起になっている。私は日本人の両親から生まれた生粋の日本人であるが、イスラム教徒である。改宗したのは2013年4月、33歳の時で、改宗をした場所は、今、テロ事件で大変な状態にあるパリのモスク(礼拝堂)であった。私も改宗前は、「イスラム教は暴力的な宗教だ」というイメージを持っていた。日本にいて、テレビや新聞でテロ事件を幾度も見せられては当然、そう感じてしまう。しかし、実際にパリでイスラム教と接してみると、暴力的なことは一切無く、これまでのイメージとのギャップに驚かされるばかりであった。それどころか、私が見たイスラム教の世界というのは、カトリックの国の中でムスリムたちが仲間意識を持って助け合っている姿であった。

「ムスリムはムスリムを助けなければいけない」と、この時に仲良くなったムスリムから言われたが、実際にフランスではムスリムの絆は非常に強い。こうした人と人との結び付きが強いイスラム社会に魅力を感じたことも改宗の1つの理由であるが、他にも「イスラム教徒になると今までの非が全て許される」ということも興味深かった。それまでの私の人生は碌なものではなく、中学生の頃から親に反抗をし出すと、窃盗や恐喝等をするようになった。恐喝をして初めて警察の世話になったのが15歳の時、その後は暴走族に入り、21歳の時に暴走族の集会を開いた指示役として逮捕された時は、全国版のニュースとなり、世間を騒がせてしまった。暴走族を引退した後の生活も、真面目になったとは言い難いものがあり、定職にも就かず、やりたいことをやって、25歳で初めての渡仏をする。目的は『フランス外人部隊』入隊であった。しかし、訓練中の怪我に依って、新兵訓練の途中で除隊をさせられてしまう。外人部隊は呆気無く幕を閉じたが、その後、パリでの滞在を始めると、物価の高いパリで生活費に行き詰ってしまった。そのうち炊き出しの列に並ぶようになり、最終的に行き着いた先はホームレスシェルターであった。パリにある400人収容のシェルターは、通称“ブーランジェリー”という。ブーランジェリーとは、日本語にすると“パン屋”である。建物が元々はパン工場であった為、今でもそう呼ばれているそうだ。ブーランジェリーでの生活を始めると、そこで幅を利かせているのがアラブ人であり、400人の入所者のうち200人以上はアラブ人であることを知った。その他にはアフリカ系黒人・フランス人も多少はいるが極少数で、アジア人は私を含めた数人であった。アラブ人もアフリカ系黒人もイスラム教徒であるので、シェルターにいる人の7割ぐらいはイスラム教徒である。そこでアラブ人との共同生活が始まると、必ず目にするのが、彼らがお祈りをする姿。毎朝毎晩、アラブ人達は1ヵ所に集まって祈りを捧げるが、そのような姿を初めて見る私は物珍しい眼差しを向けていたものだ。だが、徐々に仲の良いアラブ人ができると、イスラム教について色々教えてもらうようになる。彼らに誘われて初めてモスクへ行ったのは、ブーランジェリーでの生活を始めてから半年後のことだった。

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【昭和史大論争】(01) 満洲事変“解決”を妨げたマネー敗戦

20160124 06
日中戦争は、いつ始まったのか――。こう問われると、多くの日本人は「1931年9月18日に起きた満洲事変から」と答えるでしょう。「満洲事変に依り日本の中国侵略が始まり、日中戦争へと至る中国との対立の火種が作り出された」と考えられているからです。この歴史観を戦争が続いた凡その期間をとって“15年戦争史観”と言い、現在の日本の歴史教育にも採り入れられています。しかし、事実を辿ると、実際に日中戦争が始まったのは1937年7月7日に北平(現在の北京)近郊で起きた盧溝橋事件からでした。果たして、15年戦争史観で言われるように、満洲事変と日中戦争は一連の繋がった戦争であったのか? 若し繋がっていたとしたら、何故満洲事変を終えられなかったのか? 満洲事変が日中戦争へと至る決定的ポイントはどこにあったのか? 本稿では、満洲事変以降、日中両勢力の接触点となった中国の華北地方の情勢に着目しながら、以上の問いを検討していきます。満洲事変と日中戦争が繋がった戦争かどうか考える上で重要な争点となるのが、1933年5月31日に締結された『塘沽停戦協定』をどう評価するかという問題です。同協定は、満洲事変以来続く日中両軍の戦闘を終結させることを目的に、日本の在外派遣部隊である関東軍と中国軍との間で締結されました。満洲事変を起こした関東軍は1933年2月、満洲(現在の中国東北部)の南部に位置する熱河省(現在の河北省北部)を攻略し、『満洲国』の一部としました。その戦いは熱河省だけに止まらず、関東軍は万里の長城を突破し、河北省東部にまで戦線を拡げました。関東軍の進攻に対し、蒋介石率いる『国民政府』は、敵対する『中国共産党』との戦いを優先し、関東軍とは抵抗を続けながら現地交渉で解決を図ろうとしました。この時、中国側で交渉役に立ったのが、知日派で対日外交の経験を持つ黄郛でした。

1933年5月中旬、停戦交渉の為に北平を訪れた黄郛に対し、関東軍は軍事的威圧を加えながら交渉を有利に進めました。その結果、停戦協定は関東軍の要求を全面的に受け入れた内容となりました。協定は全5項からなり、その趣旨は、今後日中両軍が衝突しないよう、河北省蘆台から察哈爾省延慶まで軍事境界線を設置し、同線と長城線に囲まれた河北省東部(略称は冀東)一帯を非武装地帯とするというものでした。これに依り、華北にまで及んだ満洲事変は漸く終わりを告げました。しかし、現在の戦争でもそうですが、停戦合意は破られ易いものです。塘沽停戦協定は、結果から見れば、満洲事変に依って齎された日中の戦火を消すことはできず、日中戦争を招来してしまいました。塘沽停戦協定には如何なる問題があったのでしょうか? 1つは、非武装地帯となった河北省東部からの日中両軍の撤退方法にありました。協定第1項で、中国軍は速やかに軍事境界線の「以西及以南の地区に一律に撤退し爾後同線を越えて前進せず」(『日本外交年表並主要文書』)と定められたのに対し、第3項では、中国軍が第1項を遵守しているかどうか確認した後、関東軍は「自主的に概ね長城の線に帰還す」(同)と規定されていました。つまり、撤退期間や方法について、中国軍には厳しく、関東軍には甘く設定されていました。その結果、関東軍の一部部隊は翌年になっても非武装地帯から撤退せず、中国側から反発を招きました。もう1つは、非武装地帯の治安を維持する中国側警察機関の問題でした。同機関設置の取り決めは、協定第4項に明記されていました。同項では、その警察機関について、「日本軍の感情を刺戟するが如き武力団体を用ふる事なし」(同)とありました。この一文は、停戦協定をできるだけ自分たちの都合のよいものにしようとした関東軍の求めに依って書き加えられました。関東軍は、自らの息のかかった武力団体を警察機関に充てることで、非武装地帯から軍を撤退させた後も同地に影響力を及ぼそうとしました。

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